新井貴浩 | ☆大 辞 典☆

新井貴浩

新井 貴浩(あらい たかひろ、1977年1月30日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。

中日ドラゴンズに所属する新井良太は実弟。→


来歴

プロ入り前
県立広島工業高校では3年夏の県大会でベスト16。その後駒澤大学に入学し、4年時に日米大学野球で打率5割を記録。同年秋は東都大学リーグ打点王とベストナインを獲得。大学の1年先輩である高橋尚成(巨人)は、当時の新井を「打てないし、守れないが、足はそこそこ速く、素直で先輩の受けはとても良かった」と話している。

1998年のドラフトで広島東洋カープに6位で指名される。これは大学の先輩である野村謙二郎の強い推薦があったからといわれるが、大学通算本塁打がわずか2本で、守備にも課題があった新井の指名は、周囲からは驚きをもって受け止められた。


広島時代
入団後は「将来の4番候補」として期待され、自身もその意気込みを「空に向かって打つ」と宣言する。2年目の2000年には16本、翌年は18本と2桁本塁打をマークし、2002年は本塁打28本と初の20本越えを果たす。オールスターにも初めて出場。この時新井に目をかけていた広島のオーナー松田耕平(当時)に見送られたが、その直後に松田が他界した。新井は第2戦で本塁打を放ち、松田への手向けとした。

2003年、前年オフに阪神タイガースに移籍した金本知憲の後を継ぐ4番に開幕から座るが、地元出身のスラッガーという重圧、また精神的主柱でもあった金本の不在は大きく、不振に陥って後半戦からはアンディ・シーツに4番を譲り、前年28本の本塁打も19本に落ち込み、打率も.236と低迷した。2004年も極度の打撃不振に陥り、本塁打は僅かに10本、打点も36と低迷。構えた際のグリップの位置が低く、さらに上下するという悪フォームで結果を恐れるあまり、ボールを待ちすぎ、追い込まれて打ち取られるパターンを繰り返した。この年12月に結婚、披露宴の席で山本浩二に叱咤激励された。

2005年シーズン、内田順三コーチとともに、グリップを高くし足を上げる、また積極的に打ちに行く打撃スタイルへ改造する。これが成功し、43本塁打で本塁打王を獲得、更に初の打率3割(.305)を記録する。6月28日の対阪神戦ではリチャード・ランスに並ぶ球団タイ記録の6試合連続本塁打を放つなど自身最高の成績を残す。しかしこの翌日は無安打に封じ込まれてしまい、惜しくもランディ・バースと王貞治が持つ日本記録(7試合)には届かなかった。また、山本浩二の持つ球団年間本塁打記録(44本)を破るのではないかと期待されたが、1本差で届かなかった。

2006年1月、これまで金本や佐々岡真司らと共に行っていた鹿児島・最福寺での護摩行合宿を単独で3泊4日かけて行った。2003年に4番として失敗していることもあり、本人はこのシーズンこそ正念場と位置づけていた。前年のタイトル獲得が評価され、WBC日本代表にも選ばれる。しかし、出場機会はごくわずかであった。シーズンでは、マーティ・レオ・ブラウン監督が掲げているケースバッティングを心がけたのが実を結び、本塁打数は25本と減少したものの、本塁打が43本ながら94打点に終わった前シーズンに対し、ランナーを置いての打撃が向上して100打点に到達した。一方、これまでのシーズン同様、積極的に打ちに行く打撃スタイルゆえか、四球数が少なく選球眼の悪さを指摘された。

2007年シーズンでは自己記録を更新する55の四球を選び、28本塁打を放ち打点も102を記録した。しかしチャンスに強くなったものの、ケースバッティングに徹しすぎたせいか、今度は新井の魅力であった豪快な打撃が損なわれているという指摘もなされた。守備では三塁手の守備率でリーグトップ、守備機会も三塁手トップとなった。シーズン終了後、北京オリンピックアジア予選兼アジア選手権に4番一塁として出場し、日本チームの五輪出場権獲得に貢献。また、この年オフにチームの投打の柱だった黒田博樹と共にFAを宣言した。阪神のほかに福岡ソフトバンクなどが獲得に乗り出したが、新井にとって絶対的な存在の金本がいる阪神が圧倒的に有利な状況にあったため、他球団は獲得を見送り、新井も阪神と2度の交渉を経て入団の意志を表明した。アジア野球選手権大会終了後に正式入団発表をし、12月11日付でFA宣言選手契約締結合意が公示された(なお、後に人的補償として阪神から赤松真人が移籍した)。→


阪神時代
2008年4月12日、対横浜戦(横浜スタジアム)5回戦の第一打席に寺原隼人からプロ入り通算1000本安打を達成。同試合では広島時代から慕っている同僚の金本知憲も同じ寺原からプロ入り通算2000本安打を達成している。

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人物
チーム事情で一時ライトやファーストを守ったこともあるが、基本的にはサードである。過去に失策王になったシーズンもあって「守備が粗い」と評され、名前とかけて「粗いさん」や「粗ゐ」などと一部のファンから呼ばれている。山本浩二も監督時代、「新井は守備が名前と同じで『あらい』」とネタにしていた。
長兄は新井と同じ広島工業出身で高津臣吾と同期の4番打者であり、中日ドラゴンズの新井良太は実弟という野球一家。2006年9月10日の対中日戦では良太と顔合わせをした。両チームで実の兄弟同士が同じグランドに立つのは、1998年7月16日の山田勉(広島)・山田洋(中日)兄弟以来8年ぶりのことであった。また、2007年7月31日の試合では延長10回に良太が決勝タイムリーを放ったのをサードの守備位置から見ていたが、翌8月1日は9回裏にベンチの良太の前でサヨナラタイムリーを放っている。
体の大きさに似合わず温厚で優しい性格だが、一方で大ざっぱらしく、数々のエピソードを残している。
黒田博樹にバッグの中に消火器を入れられながら、ホテルに帰るまでそのことに気づかなかった。
最初に買った自家用車を弟・良太に無断で持ち帰られ、それを知らないまま自動車税を納付していた(良太の項も参照)。
2006年、インボイスSEIBUドームでの試合前、軽食のうどんを食べる際、関西風のだしと関東風のだしが用意されていたのだが、広島生まれで大学時代は東京暮らしだった新井はどちらを選ぶか迷い、結局「二つを混ぜてもらっていいですか」と頼んだ。
2006年シーズンオフには、元コーチの大下剛史らとの食事の席で、新井が以前大下に送っていた焼酎を、大下がその場で開けて飲もうとした際、焼酎の紹介が書かれた紙を読んでみろと大下に言われたが、読むべき所を勘違いして「さつまいも」と発言してしまい、その場にいた全員が大爆笑することとなった。
同じく阪神のチームメイトである金本知憲を兄貴分として長きに渡って慕っている。金本の広島在籍時からの2人のやりとりは阪神での金本と藤本敦士のやりとり同様名物化していた。自身の阪神入団が内定した際も、阪神移籍を決めた理由として「金本さんの存在が大きかった」とコメントするほど互いに親密な関係にある。阪神ファンの間で定着している「アニキ」という愛称で最初に金本を呼んだのは新井だと言われている。ただ、新井自身は現在は金本のことを「アニキ」ではなく「会長」と呼んでいる(金本談)。現在もオフには同じジムで自主トレに励む。
若手のころはとにかく先輩からオモチャにされ、本塁打を打った金本に張り手を食らったり、選手会ゴルフの始球式で打球方向に立たされたりするなど枚挙にいとまがない。
夫人は乙女塾6期生出身の元アイドル・大橋裕美子で「もし男に生まれていたらまじめに野球をやる」と普段から語っていたほどの野球ファンである。なお、新井は結婚するまでは金本と同様に、選手名鑑の「好きなタイプの女性」欄に、チームメートであった西山秀二の夫人の名を書いていた。
藤崎マーケットのラララライ体操の物真似が得意で、広島時代に「アライアライ」と少しアレンジして披露したらチームメートに大受けだったという。
2006年11月23日のファン感謝デーで行われたベース投げコンテストで13m60cmを記録し見事優勝。コンテストの生みの親であるブラウン監督は「彼は1年間、このコンテストのことばかり考えていたのだろう」とコメントした。
在日韓国人であったが、現在は日本に帰化している。帰化前の本名は朴貴浩(パク・クィホ 박귀호)。


タイトル・表彰・記録
本塁打王1回(2005年)
ベストナイン1回(2005年)
月間MVP1回(2005年6月)
6試合連続本塁打(2005年6月22日~6月28日)
オールスターゲーム出場3回(2002年、2005年、2007年)


個人記録
初出場:1999年4月3日、対中日ドラゴンズ(ナゴヤドーム) 5回表、広池浩司の代打。野口茂樹の前に凡退
初安打:1999年5月12日、対読売ジャイアンツ(広島市民球場) 7回裏、ネイサン・ミンチーの代打。ホセ・パーラより左前安打
初打点・初本塁打:1999年6月6日、対中日ドラゴンズ(浜松球場) 4回表、野口茂樹より左越3ラン


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