赤星憲広 | ☆大 辞 典☆

赤星憲広

赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は、愛知県刈谷市出身の阪神タイガース所属のプロ野球選手。ポジションは外野手(中堅手)。

俊足を生かした盗塁技術や広い守備範囲で高い評価を得ている。名前にちなんだ「レッドスター」や「赤い彗星」の愛称でファンの人気を集めており、打席に立つと、スタンドで赤い星「★」のボードを掲げるファンもよく見られる。 →


経歴

プロ入り前
小学校時代はサッカーをしており、愛知県代表のフォワードに選ばれたこともある。野球は中日ドラゴンズのファンで、特に星野仙一の大ファンだった。自らが野球を始めたのは小学6年の時で、地元の少年野球チームのコーチをしていた父親の影響だった。当時から身体が小さく、中学時代に野球を止めようかと考えたこともあったが、足を活かすために左打ちに変えて内野安打が増えた。

大府高時代は1番を打ち、赤星が出塁すると2番打者はバットを振らずに二盗、三盗が成功するのを待ち、その後スクイズを行うという独特の戦法で1993年春・1994年春と2度のセンバツ出場を果たした(ともに初戦敗退)。2年時には二塁手として出場するが逆転2点エラー、3年時にはポジションを遊撃手に移すも初回にタイムリーエラーとなる悪送球と、2試合で3失策を記録してしまった。高校通算16本塁打。

亜細亜大学に進学後、2年次の明治神宮野球大会では三塁手として出場したが、ここでもタイムリーエラーを犯し、チームも0対1で敗北する。3年より外野手に転向し、4年秋には3試合連続本塁打を記録するなどパンチ力も身に付け、明治神宮大会で優勝する。ベストナイン3回、野村謙二郎の52盗塁に次ぐ東都大学史上2位となる48盗塁を記録。大学時代、4年の時に駅のホームから転落した女性を救助したというエピソードもある。

卒業後はJR東日本に入社。同社で車掌として勤務する傍ら野球部に所属。都市対抗で東京ドームの白い屋根の中にボールを見失い、平凡なフライを三塁打にしてしまったことががきっかけでチームが大敗したこともあった。

その後シドニーオリンピック野球日本代表に選出される。プロのメンバーが揃っていたため中心選手ではなかったが、投手の牽制の癖を見抜く眼力を生かしてベースコーチや代走として活躍した。2000年春には日本代表候補として千葉ロッテマリーンズのキャンプに参加するが、打撃の非力さが顕著であり、当時千葉ロッテの主軸打者だった初芝清が、引退後にその時の様子を「打撃練習で打球がケージから出ない」とラジオで解説したほどであった。


野村阪神時代
五輪後、当時阪神タイガース監督であった野村克也が直接スカウトとして視察していた社会人野球日本選手権大会で活躍。当初阪神スカウト陣はノーマークだったが、野村監督の鶴の一声で2000年のドラフト4位で阪神に入団。「ホームランバッターがいないなら足で稼ぐ。あの足は戦力になる」と監督から期待を寄せられる。この年まで阪神のセンターを守っていた新庄剛志のFA移籍が決まっていたため、「新庄さんの穴は僕が埋めます!」と豪語し、翌日のスポーツ新聞ではドラフト1位の藤田太陽の会見以上の話題となった。

背番号は2か26を希望していたが希望の背番号は与えられず、53番に決まった時は「俺はゴミ(53)か、誤算か」と嘆いたが、53盗塁達成を目標に設定し、盗塁王を狙うと気持ちを切り替えた。しかしキャンプイン時はまだ打撃面に問題が残っており、打球が内野の頭すら越えないほど深刻だった。後に濱中治には「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と言われた[1]ほどだったが、猛練習の末、5月にはレギュラーに定着。その後は1番を打っていた上坂太一郎、3番を打っていた濱中、そして2番の赤星の3人で平成の新少年隊(この名前は定着しなかった)を結成し、活躍。新人歴代4位となる39盗塁で、チームでは1956年の吉田義男以来45年振りとなる盗塁王に輝く。入団1年目でのシーズン最多盗塁達成は、チームでは呉昌征以来となる。この年、新人王も受賞し、盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初の快挙であった。新庄が常連となっていたゴールデングラブ賞も受賞。

野村監督が俊足のタイガース選手を「F1セブン」と命名し、話題を呼んだ。赤星はその「1号車」で、以下は藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)。 →


星野阪神時代
2002年は好調なスタートを見せたが、自打球を右膝に当てて骨折し前半戦をほぼリタイア。78試合出場で26盗塁を記録するも、打率は2割5分台に低迷し成績を大きく下げた。しかし盗塁王を争っていた読売ジャイアンツの仁志敏久や中日ドラゴンズの荒木雅博なども揃って故障し規定打席不足だったことも幸いし、2年連続で盗塁王を獲得した。

2003年に金本知憲がFAで広島東洋カープから移籍。キャンプ中星野仙一監督は事あるごとに「赤星は(金本、桧山進次郎、濱中に次ぐ)4番目の外野手」「打撃は赤星より濱中の方が上。このままならばセンターは濱中だ」と発言し赤星を発奮させたという。実際には赤星のレギュラーは確定しており、田淵幸一ヘッドコーチの発案で「1番今岡・2番赤星・3番金本」の打順も早い段階で決まっていたというが、星野監督の目論見が当たったか、金本が赤星の後の3番として盗塁をアシストしたこともあり、この年盗塁数を61盗塁と大幅に増やし、3年連続となる盗塁王に輝き、打率も初の3割を記録。さらに規定打席到達者の中で唯一守備率10割(年間失策0)の日本タイ記録を樹立し、2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞した。チーム18年ぶりの優勝が決まった9月15日に行なわれた広島戦では、ライトオーバーのサヨナラ打を放った。またこの年はオールスターにも初出場を果たしている。しかし、福岡ダイエーホークスと対戦した日本シリーズ第1戦でフリオ・ズレータのサヨナラ安打にダイビングキャッチを試みて右手を負傷。それが遠因でシリーズでは不調に喘ぎ、メンバーに選ばれていたアテネオリンピックアジア予選も出場を辞退した。


岡田阪神時代
2004年には自己新記録となる64盗塁(4年連続盗塁王)、2年連続の打率3割を記録する。この年の日米野球では7盗塁を決めるなど大活躍し、ボストン・レッドソックスのデイヴィッド・オルティズに「スーツケースに入れて連れて帰りたい」とまで言わしめた。しかし、チームはシーズン4位と不満の残る成績だった。

2005年のシーズンは4月21日の巨人戦で通算200盗塁を達成。4月度の月間MVPにも選出された。6月の交流戦で肋骨3本を折る重傷を負ったが、翌日の試合を休んただけで戦線に復帰。チームが中日の追い上げをかわして2年ぶりの優勝を飾るのに貢献した。10月1日のヤクルトスワローズ戦では福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁で通算250盗塁を達成、さらにセ・リーグ史上初の5年連続盗塁王に輝いた。イチローを抜く年間単打165のプロ野球記録も達成したが、阪神の全試合終了後、首位打者ヤクルトの青木宣親がさらに記録を169まで更新した。

2006年は足の怪我の影響もあって盗塁数が激減。盗塁王の座をヤクルト・青木に譲ることになった上、規定打席到達者の中で本塁打・打点・長打率がリーグ最少を記録するなど打撃面の成績にも影響した。チームも中日に競り負けシーズン2位。この年オフに背番号変更を打診されるが、背番号に愛着を持つようになっていた赤星はこれを断った。

2007年は開幕から好調だったが、5月4日の広島戦(甲子園)でダイビングキャッチを試みた際、持病の頸椎椎間板ヘルニアを再発させ、一時期一軍登録を抹消された。この影響で、復帰後は1番を鳥谷敬に譲り、主に2番を打つこととなり、相手の先発に左腕の投手が予想される際など、濱中治らにスタメンを譲ることも多くなった。7月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)で通算300盗塁達成、9月14日の対中日戦(甲子園)で通算1000本安打を達成した。盗塁王は逃したものの、2年ぶりの打率3割を記録した。本塁打は4年連続でリーグ最少だった。また、東出輝裕とともに、2年連続で規定打席に到達して本塁打がなかった(今久留主淳、日下隆、石原照夫、和田豊、村松有人、武藤孝司に続いて7・8人目)。

2008年9月22日、2089打席無本塁打のプロ野球新記録を達成した。[2]結局、この年も本塁打は出ず3年連続で規定打席に達して本塁打0となった(東出とともにプロ野球新記録)。規定打席に達しての本塁打0を4度(2004、2006、2007、2008年)記録したのは久慈に続いて2人目。福地寿樹に1盗塁の差で惜しくも3年ぶりの盗塁王はならなかったが、41盗塁を記録して通算350盗塁となり、吉田義男の持つ阪神の球団盗塁記録に並んだ。また、2008年シーズン終了時点において、現役選手で通算300盗塁を達成しているのは石井琢朗(通算355盗塁)と赤星の2人だけである。


タイトル
盗塁王:5回(2001年 - 2005年)
ベストナイン:2回(2003年、2005年)
ゴールデングラブ賞:5回(2001年、2003年 - 2006年)
ゴールデンスピリット賞(2004年)


記録
シーズン最多打席 689(2005年・歴代1位)
シーズン単打 165(2005年・歴代2位)


個人記録
初出場:2001年3月30日対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)9回代打、條辺剛の前に凡打
初安打:2001年3月31日対巨人戦(東京ドーム)7回、柏田貴史より単打
初盗塁:2001年4月3日対広島東洋カープ戦(広島)
初本塁打:2001年8月4日対広島戦(広島)5回、長谷川昌幸より左越ソロ


プレーの特徴
2005年6月に肋骨を骨折しながらすぐに戦線復帰したのは、前年、左手首を骨折していたにも拘らず試合に出場し続けた金本知憲の影響である。「金本さんの姿勢を見て、レギュラーとして試合に出続ける意味を知った」と話しており、2005年から金本同様、フルイニング出場への執念を燃やすようになった。ただし実際は6月12日の北海道日本ハムファイターズ戦で途中交代をしたため、シーズンフルイニング出場は未達成。

打球がレフト方向へ飛ぶことが多いので、特に2006年シーズンには相手チームが三塁線寄りの前進守備シフト(いわゆる「赤星シフト」)を敷く傾向があった。しかし、2007年からはバットやバッティングフォームを変更したことや、ライト方向への打球(進塁打)が増えたため、減少傾向にある。

本塁打を打つことは滅多にないが、2005年に打った1本は広い甲子園の右翼席に放ったものである。2007年シーズン終了時点で通算3本の本塁打を公式戦で放っているが、2001年は広島市民球場(左翼席)、2003年は明治神宮球場と狭い球場で放ったものだった。浜中と外野のレギュラー争いをしていた2003年は、高松でのオープン戦でバックスクリーンに2連発を放つなど長打力をアピールしていた時期もある。なお、本塁打を放った3試合ともチームは敗戦している。

守備面では送球のコントロールがよく、投げるまでのスピードも速いため、補殺は多く、2005年と2006年には捕殺数外野手リーグトップを記録した。これは新庄剛志やアレックス・オチョアのような強肩外野手の場合は走者が進塁を自重するケースが多いが、赤星の場合は逆に弱肩であるがゆえにランナーが果敢に次の塁を狙うということもある。また果敢にダイビングキャッチを試みるが、前述のようにダイビングによってケガを招くことが多い。


人物
社会福祉活動に熱心であり、「ハンディキャップのある人でも球場に来て野球を観戦してほしい」との思いから、そのシーズンで記録した盗塁と同じ数の車椅子を贈るという活動を毎年行っている。2004年シーズンは、64盗塁にちなんで65台(うち1台は盗塁王のタイトルぶんで、電動リクライニング機能つき)の赤い車椅子を寄付しており、その功績が認められ、社会福祉活動に貢献したプロ野球選手に贈られるゴールデンスピリット賞を受賞した。ところが、2007年4月に、寄贈した車椅子がインターネットオークションに出されるという事件が起き、本人は「どのような経緯で出品されたかはわからないが、人としてすることではない。許せない」とコメントしている。なお、抗議が殺到したため出品は取り下げられ取引は成立していない。

2005年には自ら理事長となり、少年野球チーム「レッドスターベースボールクラブ」を設立。

2006年より今岡誠のあとを引き継いでタイガースの選手会長に就任するが、この年5月、タイガースの親会社である阪神電気鉄道が、大株主の村上ファンドから取締役選任を要求されるという事件が起こる。これが通ればタイガースの先行きもどうなるか分からないという中、赤星は「村上さんはファンの事を考えていないと思う。お金儲けの事しか考えていないような人に球団を持って欲しくない」と厳しく批判した。

選手会長としてファンサービスにも取り組んでいる一方で、「駅のホームでサインに応じている時に、背後から来た女性ファンにハサミで髪の毛を切られそうになった」「シーズン中、試合終了後に十数回も車で尾行された」といった自身の経験から、一部の過熱したファンにマナーを守るよう訴えてもいる。

以上のような真面目で熱血漢のイメージとは裏腹に、2005年のリーグ優勝祝勝会にレイザーラモンHGのコスチュームで登場するといった、ユーモアのある面も持ち合わせている。(なお、赤星がレイザーラモンHGのコスチュームを着て祝勝会に出ることはレイザーラモンHG本人の了承済み。)

これらフィールド内外での活躍により、今や阪神でも屈指の人気選手であるが、未だに独身である。そのためか特に女性からの人気が高く、自らの公式サイトで「最近不眠症に悩んでいる」と書いたところ、女性ファンから「添い寝してあげたい」というメッセージが多数寄せられたほどである。また、MBSラジオ「いざゆけ八木裕!」に出演した際、ファンからのプレゼントとして記名・押印がされた婚姻届が届いたことがあるとも語っている。 →


エピソード
2005年はサッカー好きの同僚である井川慶とともにガンバ大阪を応援していた。
星野仙一や田淵幸一、また年配の解説者などからは「あかぼし」と間違って呼ばれる。ちなみに、星野監督就任時には「レッド」と呼ばれていた。
公称の身長は170cmであるが、ファン感謝デーの時にFUJIWARAから「本当は169cmでは」と疑惑をかけられ、その場で測定された結果、実際に169.5cmであることが判明する。このとき本人は「四捨五入で170cmの方が聞こえが良いじゃないですか」と0.5cmサバを読んでいたことを告白した。
高校時代に視力が0.3と近視になったためにコンタクトレンズを使っている。眼の健康には気を遣っているようで、カメラマンにあまりフラッシュを焚かないよう頼んでいるとのこと。雑誌「ナンバー」の「慧眼のアスリート」のコーナーでのインタビューで語った。
亜大時代に社会科の教員免許、JR東日本時代に車掌の資格を所得している。
彼の思い出に残る歌はZARDの「負けないで」である。彼自身、ZARDのファンであり、彼がセンバツに出場した際の入場曲でもあった。(2007年12月にサンテレビの熱血!タイガース党に出演した際にこのことについて語っていた。)
競馬好きを公言しており、自身のブログでも過去にG1レースの公開予想を載せていたことがある。また「サタうま!」にも03年と07年のオフに合計3回出演していて(03年は藪恵壱と同時出演)、放送翌日に行われるG1レースの予想を、玄人味溢れる鋭い切り口で公開するも、的中には至っていない。なお競馬にハマったきっかけは「サイレンススズカの迫力あるスピードに魅せられたから」と同番組内で語っている。
02年オフには「筋肉番付」に出演し、「また出場したい」という旨の発言をしていたが、翌03年オフは日本シリーズ出場の際に負った怪我の治療を優先させる必要があったことや、チーム優勝を受けて変わり行く環境の中で、自身のオフイベントに対する意識の変化が生じたことも相まって、以後の出演はない。
2008年5月24日の試合のヒーローインタビュー(対ソフトバンク戦、ヤフードーム)で観客に向かって突然ブチ切れて、「入ってねえんだよこの野郎!!」と発言した。これはファンが「聞こえねぇぞ!」としつこく野次られた事に対してで、敵地であるためヒーローインタビューは観客には聞こえない仕様だった。


書籍
『逆風を切って走れ-小さな僕にできること-』(主婦と生活社 2008年4月発売)



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 →


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