相川亮二 | ☆大 辞 典☆

相川亮二

相川 亮二(あいかわ りょうじ、1976年7月11日 - )は、横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手(捕手)。→


来歴・人物
5歳で野球を始め、小学校2年から地元市川市のリトルリーグに入る。(リトルリーグ時代のチームメイトには西武のG.G.佐藤がいた。)中学までは投手、東京学館高時代はずっと外野手であったが2年の冬に外野守備での強肩さを見ていた社会人チームの監督に捕手転向を薦められ3年になる春に捕手に転向。俊足であったため捕手でありながら1番バッターだった。高校時代は通算152安打をマークし、夏の千葉県大会でベスト8。アマチュアでの捕手としての経験は浅かったが、地肩の強さとバッティングセンスなど素質を買われドラフト5位でプロ入りを果たす。

プロ入り後は一軍に定着するまで時間がかかったが5年目でプロ初出場・初安打を果たし、当時の正捕手であった谷繁元信の欠場をきっかけに頭角を現す。谷繁のFAでの中日移籍後、様々な苦難を乗り越え正捕手の座まで登りつめる。それ以降はアテネオリンピックやWBCなど、日本代表に選出されることが多い。

横浜の正捕手であり2006年からは3年連続で選手会長を務めており、チームを牽引している。

東京学館高時代の同期には総合格闘家の三崎和雄がおり、1年後輩にはヤクルトの石井弘寿がいる。石井は高校時代バッテリーを組んだこともある投手であり、相川がプロ初本塁打を放った相手でもある。

またファッションモデルや俳優として活躍する寿里は4歳下の実弟である。(亮二は男4人兄弟の二男、寿里は三男)


略歴
1994年 東京学館高からドラフト5位で横浜に指名され入団。
1999年 8月21日の対ヤクルト戦で初出場。9月3日の阪神戦で初ヒットを放つ。
2000年 正捕手・谷繁元信の離脱時の8月25日対巨人戦で桑田真澄からサヨナラタイムリーを打つなど、目立つ活躍をし存在をアピールする。
2001年 控え捕手ながら、代打などで勝負強さを発揮する。
2002年 オフにFA宣言して中日に移籍した谷繁の後を継ぐ正捕手候補と期待されたが、足の故障もあり、入れ替わるように移籍してきた中村武志にポジションを奪われ正捕手になれず。
2003年 中村との併用が続くものの、5割近い盗塁阻止率を残す。
2004年 アテネオリンピック野球日本代表に選出され、銅メダルを獲得。中村の不振もありシーズン102試合出場とプロ入り初めてシーズン100試合以上出場達成。正捕手へと急成長を遂げる。
2005年 144試合スタメン出場を果たし、遂に正捕手の座を不動のものとする。
2006年 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に、横浜からは同い年の金城龍彦、多村仁とともに選ばれる。
2007年 開幕から高打率をキープし、プロ13年目にしてオールスターゲームに初出場。8月15日の対ヤクルト戦では試合中にぎっくり腰で倒れ離脱の期間もあったが規定打席で初の打率3割を達成。かつての谷繁を抜き球団歴代捕手の中で最高打率を記録。12月にはシーズン中に痛めた右肩の内視鏡手術を行った。
2008年 昨年末に行った肩の手術の影響もあり全力プレーができず開幕はスタメン出場するものの休みながらの出場が続く。チームの低迷もあり、もどかしいシーズンを送るが夏頃から肩も回復し始め盗塁阻止を連発し復調の兆しをみせる 。→


エピソード
入団当時の目標は「佐々木主浩投手の球を受けること」であったが、相川が1軍定着する前に佐々木はメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍してしまう。しかし2004年に日本球界に復帰したため佐々木が引退するまでの2年間バッテリーを組み、入団当時の目標を9年越しで達成している。
若手時代には2軍の試合で外野を守ることもあり、フレッシュオールスターには8番レフトでスタメン出場したことがある。
敬虔なクリスチャンであるため伊勢山皇大神宮で毎年行われる球団の必勝祈願に選手会長の公務として出席していいものか悩んだこともあったが、行われた必勝祈願にはいずれも参加している。
2006年は開幕からヘルメットとマスクが一体となったアイスホッケー風のキャッチャーマスク(米国プロ野球で使用例あり)を着用していたが、夏場以降は使わなくなった模様。
ヒップホップをたいへん好み、自身の登場テーマにアイス・キューブの「YOU CAN DO IT」やZEEBRAの「Oh Yeah(公式にはタイプライターと表記されていた)」を使用していた。
みずしな孝之の漫画、『ササキ様に願いを』では全てひらがなで話すキャラにされている。これは相川が自分の出身小学校名(冨貴島小学校。ふきじまと読む)を漢字で書けなかったことが一因である。また、元同僚の谷繁元信(現中日)も「サインの覚えが悪い」(遠藤一彦談)ことから相川と同様、ひらがなしか喋らないキャラにされている。但し、同じくみずしなが描く漫画『ベイスタ流』では漢字を喋ることもあり、基準は曖昧である。
日本代表に対する思い入れが強く、2004年のアテネ五輪では試合出場することは出来なかったが、そのぶん裏方に徹し、城島健司が中心となってチームメイトから相川に感謝の寄せ書きが贈られた。その際には「選出されたことは最初は嫌だったが今ではお願いしてでも出たい」と語っている。2007年10月に北京五輪の代表候補に選ばれた際にはシーズン中に肩を痛め手術をしなくてはいけない状態で星野仙一監督も相川の招集を見送るつもりだったが、手術を先送りしてまで代表入りを熱望し、ギリギリまで代表の合同自主トレに参加していた。また代表つながりで他球団では宮本慎也、新井貴浩、和田一浩などと仲が良い。
子供の頃は大洋とヤクルトのファンで、憧れていたプロ野球選手は屋鋪要と池山隆寛である。プロ野球選手以外の憧れの職業はラーメン屋だったがメンマが嫌いなためラーメンそのものが好きなわけではなく、ラーメン屋の職人気質なところに憧れていた。
2007年オフ相川は契約更改で球団の提示額に不満を持っていたが、同時期に開催したクリスマスパーティーには女性を中心とする200人以上のファンが集まった。当初は20人集まれば良いとされていたイベントであったが、予想以上の人気により球団も考えを変え推定年俸1億円の大台に乗せ、「イケメン査定」として話題となった。
2008年7月に自身のホームページにて『R-vision』というオリジナルグッズの販売を展開。これはエコ運動や被災地、及び被災者のための活動で、利益は全額そのために用いられる。また、オンラインストアのモデルは弟の寿里がやっている。

背番号
59(1995~2003)
8(2004~)
注※2004年のアテネオリンピック及び2006年の2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表では、59番をつけた。

※2001年オフに一度25番への変更が決定し発表されたが、「変更するなら一ケタ」という相川本人の強い希望から25番のユニフォームを着ることなく59番に戻った。→


個人記録
初出場・初打席- 1999年8月21日ヤクルト戦(神宮) 7回より出場、9回高津の前に凡打
初安打 - 1999年9月3日阪神戦(横浜) 8回清原雄一投手から単打
初打点 - 2000年8月20日阪神戦(横浜) 1回湯舟敏郎投手から内野ゴロの間で
初本塁打 - 2001年5月3日ヤクルト戦(神宮) 7回石井弘寿投手から代打3ラン
初盗塁 - 2003年9月19日中日戦(横浜) 4回二盗
セリーグ史上27人目の1イニング2三振(2005年4月3日中日戦)


タイトル
オールスターゲーム出場:1回(2007年)


表彰
県知事賞(2004年) - 千葉県より
市民栄誉賞(2004年) - 千葉県市川市より
アテネオリンピック野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


相川亮二オフィシャルサイト 洞察力


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