11月の第1日曜日は毎年、秩父宮ラグビー場に観戦に行っている。



関東大学ラグビー・対抗戦グループの「慶応対明治」、「早稲田対帝京」の対戦があった。



普段は最寄り駅の地下鉄銀座線の外苑前駅から歩くが、今日はJR千駄ヶ谷駅から歩いた。千駄ヶ谷駅の改札口付近は工事中だったが、これも2020年のオリンピックの準備だろうか。



途中、国立競技場の周辺を通る。



本格的な工事は12月から始まるが、その敷地は広大で周辺を囲んだ白い塀が延々と続いていた。



普段から都心の中でも、「空が広いな」と感じさせる神宮外苑だが、巨大な旧競技場が取り壊され、周辺の木々も移植され、いつもよりもっと大きな青い空が広がっていた。



   


 




 第1試合は慶応対明治。前半は風上の慶応が大きくリード。後半は風上に回った明治が猛反撃。ロスタイムに入った時点では、24対29で慶応のリードだったが、明治が慶応のゴールラインにせまり、慶応はペナルティを連発、結局「認定トライ(注)」で明治が5点を取り、コンバージョンも決めて、31対29で明治が大逆転で勝った。


(注)認定トライ・・・「相手のペナルティが無ければトライが取れた」とレフェリーが判断した場合、「トライ」を攻撃側に与えるもの。



久しぶりに見たラグビーの真髄ともいえる攻防があり、学生ラグビーらしい、まさに母校の名誉をかけた戦いという見事な試合だった。1万5千人近い観客も両大学のフィフティーンに惜しみない称賛と感謝の拍手を送っていた。



第2試合はここ7年間、大学王座に君臨する帝京と、逆にここ数年低迷の続く早稲田の対戦。両校ともここまでは4連勝で全勝対決だった。



(試合前の校歌斉唱。母校の名誉をかけ、誇りをもって戦いに入る前の学生ラグビーらしいセレモニー)



(好カード2試合ということもあり、前日の日本代表対アルゼンチン戦に近い観客数だった)

 



(試合結果は帝京75対3早稲田と帝京の圧勝だった)
 



昨年のこのカードのスコアは、帝京92対15早稲田で77点差。今年の早稲田はノートライの72点差。



昨年あった王者・帝京との大きな差は全然縮小しなかったのだろうか?



ノートライどころか、帝京のゴールラインに迫った場面もほとんどなかったが、むしろこの1年間でその差はさらに広がったのだろうか。



点差は昨年とほぼ同じだったが、観戦していた私は何か小さな明かりを見たような感覚をもってスタンドを出た。その小さな明かりはどこから来たのだろうかと思いながら、暮れなずむ神宮外苑をJR信濃町駅に歩いていた。



(外苑の銀杏並木の紅葉は、まだまだ。2週間後の早慶戦ごろには真っ黄色に染まるだろう)



明かりを感じた小さな種・・・




今日の早稲田の先発メンバーのうち、1年生が5人いた。2年生を入れると合計8人と、3、4年生の7人を上回る若いメンバーだった。この若いメンバーでシーズン初めからの4試合を勝利してきた。ということは現時点での早稲田のベストメンバーだった。



一方、帝京は1年生は留学生の1人のみ。2年生を入れても4人。残りの11人は鍛えられた身体を持ち経験豊かな3、4年生だった。



ゲームが終わった後、早稲田の司令塔・SO(スタンドオフ)で頑張った1年生の岸岡智樹君(東海大仰星)が泣いていた。おそらく彼のラグビー人生で一番の大差の試合だったのだろうか。11か月前には花園で高校日本一を勝ち取った東海大仰星の司令塔だった岸岡君。



ぶつかってもタックルしても倒れない帝京の屈強なFWの選手、タックルして指の先がかかっても振りほどいて抜いていく帝京の逞しいBKの選手、ラインアウトで投入してもスチールしてしまう長身の外国人選手・・・



岸岡君の涙は、「よし!来年こそは今年一緒に戦った同級生、スタンドから応援してくれた同級生、そして2、3年生と一緒に帝京を倒してやるぞ!」という決意の涙だったと信じる。



今年は、齋藤直人君(桐蔭学園)、中野将伍君(東筑)、宇野明彦君(横須賀)、梅津友喜君(黒沢尻北)、三浦駿平君(秋田中央)、増原龍之介君(崇徳)・・・ほか多くの同級生が全国から早稲田に入学し、ラグビー部に入部した。



今シーズンはまだ終わった訳ではない。これからまだ3年以上一緒に早稲田ラグビーを創り続けていく彼らが、4年生になった時のことを思えば、楽しみで仕方がない。



どの大学も日本一を目指して、一生懸命強化し努力していく訳だから、大学日本一になるかどうかはわからない。



彼らが4年生になって学生最後のシーズンを終えた時に、1年生の時の帝京戦のスコア「75対3」をどう再評価するかが楽しみだ。





ちょうど読んでいた本がある。


タイトルは、「オールアウト(増補改訂版)」1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組。





この本の存在は知っていたが、絶版となっていて古本も含め手に入れることを諦めていた本だった。



先日新しく開店した本屋にぶらりと入って、スポーツ本の棚を眺めていたら、何と同じ題名の本があった。



最近話題になっている、ラグビーアニメのタイトルと同じだったので、その関連の本かなと勘違いしたが、「中竹組」の文字を発見し、復刻されたのだと分かりさっそく求めた。



この本は、今から20年前の早稲田大学ラグビー蹴球部の4年生の戦いを書いたノンフィクションである。



まだ、岸岡君らが生まれる前の先輩たちが、どういう気持ちで早稲田大学に入学し、自分たちのラグビーを創っていったのかを書いた話である。



彼らが1996年度のキャプテンに満場一致で選んだのは、3年生まで公式戦に一度も出たことのなった中竹竜二(東筑)だった。前年度の監督やキャプテンは別の中心選手を推していたが、新4年生は中竹をキャプテンに選んだ。



4年生のメンバーの早稲田ラグビーへの思いと、打倒明治への道のりや、先輩たちの後輩への思いを取り交ぜながら、話は進んでいく・・・



結果として1996年度、中竹組は対抗戦では明治に4点差で負け、大学選手権では10点差で再び敗北を喫した。



その時のFW8人の平均体重は、明治が99.4キロ、早稲田が87.4キロ、その差は12.0キロ。


先日の試合でのFW平均体重は、帝京が105.4キロ、早稲田が101.6キロ、その差は3.8キロ。



体重だけで試合が決まる訳ではないが、20年前の中竹組は8人合計で、実に約100キロのハンディを負いながらスクラムを組み、明治と闘っていたのである。


言い換えれば一人多い明治とスクラムを組んでいたのである。



  

上記の「オールアウト」の帯には、中竹の同級生のLO有水剛志の言葉が書かれている。



『勝つべくして勝った試合などひとつもなかった。まともに考えたら勝てるはずがない相手ばかりと戦い、負けて、負けて、負けて、負け試合をなんとかひっくり返して這い上がってきた。相手がだれだろうと、何点差だろうと、仲間を信じることができなければ勝てるはずがない』



有水は鹿児島県立鹿屋(かのや)高校から早稲田大学に入学。ラグビー部に入りたかったが、入部式前の「新人練」で失格となり振り落とされ、2年生になって再チャレンジして、ようやくラグビー部への入部を許されている。早稲田大学ラグビー部の一番底辺から這い上がってきた有水は、最終学年には、6万人近い大観衆で埋まったあの国立競技場で明治との死闘を戦った。



現在、有水は一般企業に勤務のかたわら、女子15人制日本代表のヘッドコーチ、明治学院大学のコーチをしている。


中竹は福岡県立東筑高校を出て、1年だけ通った福岡大を中退、実質1年浪人して早稲田に入学している。現在は日本ラグビーフットボール協会コーチングディレクター。U20日本代表監督。






(この日の2試合を保善高校ラグビー部の生徒が熱心にメモをしながら観戦していた。都予選は準々決勝で抽選負けだったそうだ。同校は昭和30年代に4回高校日本一になった古豪である)
 




最後に、「オールアウト」に掲載された、中竹や有水らの15年先輩の渡邊隆が中竹に宛てた手紙の一節を紹介します。


この渡辺は福島県立安達高校卒で、ラグビー未経験ながらラグビー部に入部、4年生の時にはFLのレギュラーをかちとっている。



『ワセダの荒ぶる魂とは何であろうか。それはどんな弱い相手であっても、そして強い相手であっても、そこに全力を尽くし、立ち向かっていく、そのひたむきさがワセダのラグビーである。このどんな事に対しても一生懸命になれる人間性をワセダの4年間で身につけられるかどうか、これがワセダでラグビーに青春を賭けた最大の価値である。そして逆境の時こそ、それに立ち向かい、力が出せる。これがワセダで、あのグランドで君たちが培ったラグビーである』





岸岡智樹君ら早稲田大学ラグビー蹴球部に入部した1年生のみなさん!



君らは本当に素晴らしい先輩たちと、その先輩たちが積み重ねてきた素晴らしい歴史を持っています。羨ましい限りです。



加えて全国の高校から集まったラグビー部の同級生仲間がたくさんいます。花園に出場した仲間もいれば、そうでない地方のラグビー無名校から来た仲間もいるはずです。その色違いの様々な経験をしてきた仲間がいることが、これからの君たちの宝になるでしょう。



早稲田ラグビーを応援しているファンは本当に多いです。もちろん君たちが勝てば嬉しいのは当たり前ですが、私たちが見たいのは、先輩達が築き上げてきたものの上に、君たちが更に新しい早稲田らしさを付け加えたラグビーを見せてくれることです。





先日の帝京戦の大敗のあと、私が感じた「小さな明かり」は、岸岡智樹君の涙の輝きだったかもしれません。