私に、初めて「ラグビー」というスポーツを身近に感じさせてくれた同級生の話です。



昭和37年3月に中学校を卒業した私は、実家のある故郷に帰って、祖母の元から通える高校に進んだ。父は卒業した中学校に勤務していたので、また父が転勤になれば、高校を変わらなければならない可能性もあったこともあるが、上の3人の兄たちと同じ高校に進むのは、当たり前のこととして受け止めていた。


このため、私は中学時代の仲間たちが暮らす小さな町を離れ、ひとり故郷に戻り、中学時代の友人が誰もいない高校生活を始めることになった。


夏休みに父の勤務地、すなわち中学校時代を過ごした町に帰った時だったと思うが、鹿児島県立大口高校に進んだ「K君」がラグビー部に入ったという話を聞いた。


私は「彼にぴったりのスポーツだなあ」と感じたのを覚えている。


それまで、ラグビーの試合を見たことは無かったし、自宅にはまだテレビもなかった。(注:テレビが自宅に来たのはそれから2年後の東京オリンピックの時、1964年のことである) それでもそう感じたのは、ラグビーはボールを持って走る、相手をタックルして止める・・・くらいの知識はあったのと、「K君」がスポーツ万能であることを、転校していった小学6年の時から、ずっと見てきたからであろう。


彼は、野球ではどのポジションでも出来たが、捕手のイメージが強い、肩も強かった記憶がある。運動会ではまさに「学校のスター」であり、特に短距離は早かった。当然、サッカーや幅跳びなどでもすごかった。足腰も強かったのだろう、町内の中学対抗相撲大会などでも、主力選手としていつも出場していた。


逆に、私は運動会やマラソン大会が近づくと憂鬱になり、テニス以外の運動は苦手な生徒だった。小学6年か中学1年の頃、近くの川内川で水泳をしていて、溺れかかったのを助けてくれたのも「K君」だった。



そういう訳で、いつも彼のことを、「すごいなあ」と近くで私は見ていた。



(左はK君らと卒業した小学校、右は中学校跡地に立つ記念碑。統合ですでに廃校となった。)
本城小 本城中跡地




ここで、大口高校のラグビー部のことを簡単に紹介しましょう。


全国大会には1960年度に初出場し、1975年度まで9回出場している。1969年度からは5年連続出場し、1973年には全国大会ベスト8まで進んでいいる。彼の在学中と出場年度を突き合わせると一致しない。彼の時代は出場できなかったのだろうか。最近では2013年に鹿児島県の決勝戦まで進んだが惜しくも準優勝に終わっている。


最近の鹿児島県の高校ラグビーは、鹿児島実業、鹿児島工業が強いが、当時は鹿児島県の高校ラグビーといえば、大口高校というのが常識だった。


大口高校OBで最も活躍したのは吉永宏二郎さんだろう。卒業して日体大に進学、その後マツダに入社、1987年のW杯の日本代表に選ばれている。日本代表キャップ6.



さて、大口高校を卒業した「K君」は、新たにラグビー部を創設してこれから大学ラグビーで旋風を起こそうとしていた、福岡電波学園・電子工業大学(翌年の1966年から福岡工業大学に改称)から誘いを受け、進学する。ちょうど同じ1965年に、同学年だった私も福岡市にある別の大学に入学した。高校が違ったことや、中学校を卒業してから顔を合わせることもなかったことから、彼が電子工業大学に入学したのを知ったのはかなり後だった。



電子工業大学の昭和40年のラグビー創設時の経緯は、昭和51年の部誌「Spirit-2」に当時の久羽監督が、「足跡とこれからのこと」と題して詳しく書いている。当時の雰囲気がよく伝わってくる話です。


http://www.fit.ac.jp/~fitrfc/spirit-2.html



また、昭和43年当時の同大学のラグビー部誌「Spirit」には下記のような「K君」の紹介コラムがあった。

大学4年の時である。



K君 (管理工学科四年 大口高校)

愛称ダック。鹿児島の田舎から出てきたにしては、都会的センスを持っている。又顔色も白い?女性にはとっても優しい。センターとウイングをこなす。高校時代は、南九州にその名をとどろかした大口校の切り札。大学ではもっぱらウイング専門。足の長さはチーム一だと自負しているが、それは胴の長さのまちがいではなかろうか。全日本強化合宿メンバー。ポンソンビー戦参加。全九州の一員として、全試合出場の経験を持つ


都会的センスと色白の部分を除いて、まったく中学校時代のイメージそのままという紹介記事。確かに胴が長く、安定感のある体型をしており、現役のラグビー選手でいえば、サントリーのFB有賀剛選手によく似ていて、上下動の少ない走り方をしていた。有賀剛選手より、もっと太ももは大きかったようなイメージがある。男女を問わず他人に対して優しかったことはその通り。





また、退職後、時間に任せて、私の大学時代の日記を読み返していたら、偶然下記の部分を見つけた。


1968年(昭和43年)3月3日

「K君、ラグビーの全九州のメンバーに加わり、全日本学生選抜と対戦。テレビで拝見、大したものだ。1回会ってみたいな・・・」



スクラム



全九州のメンバーに入り、全日本強化合宿メンバーにも選ばれた、中学の同級生「K君」が身近にいたことが、その後、私が40年間もラグビー観戦を続けるほどの、ラグビーファンになった一つの理由に間違いない。「K君」のお蔭で、大口高校はもちろん、福岡工業大学の戦績が毎年気になる。


第1期生だった「K君」等のあと、福岡工業大学は多くの選手を輩出してきた。ロングキックで名をはせた元サントリーの沖土居選手、現在東芝監督の富岡鉄平さんやLO梶川選手など多くの選手が活躍してきた。また、地元福岡を根拠地とする、宗像サニックス、コカ・コーラ、九州電力の3チームでも多くの福岡工業大学OB選手が頑張っている。



「K君」は卒業後、社会人ラグビーの名門「淀川製鋼」に入社したという記憶がある。



来月2日には、中学時代の同窓会を東京で開くが、彼は遠方に在住のため参加できない。


いつか、彼の15歳の時からのラグビー談義をじっくり聞いてみたいと思っている。