毎日、あたら時間があるからといって、無為徒食に過ごしてはいけない。人間として価値あらしめているのは、考える動物だからである。あのフランス の哲学者ブレーズ・パスカルが言っているではないか、『人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である』と。

 

考えてみれば、サラリーマンの現役時代は、時間がいくらあっても足りなかった。どうしても時間を作るには、睡眠時間を削るほかなかった。あのころ同僚たちは、タイム・マネージメントとばかりに、ファイロ・ファックスとかいう革張りの分厚い手帳を小脇に挟んで忙しくしていた。今も健在かどうかは知らないが、システム手帳である。きっとスマホにとって代わられたのでは。
 

考える葦


田舎に移り住んだ時、眠くなくても寝ないと仕方がない。時間というやつが、次々と泉のように湧き出してくるからである。生来貧乏性のボクは、これを無駄にしてもったいないと思った。身体を動かさないでいる時間も、脳みそは動いてくれる。ボーッと空回りさせておいては勿体ない。思考するという作業をさせれば、アイデアを産みだすに違いないと考えた。

ところが面白いもので、書斎のようなかしこまった処は、必ずしも最適な場所ではない。なんとなく構えてしまうからである。ところが、お風呂を浴びて、湯船に浸かっているときや、トイレに座して<考える人>をやっていると面白いアイデアが思い浮かぶもの。アイデアも、トイレなら記録もできるが、湯船では書きとめようもない。
 

ロダン


サラリーマンなら、場所は電車の中などもいろいろあろうが、隠居の身なれば、家人が寝静まった後のダイニングぐらいである。ウイスキーの水割りを片手に、思いを巡らすのはいいものである。何にも縛られない、開放感のあふれる空間である。ふと浮かんだアイデアを雑記帳にメモる。どこからも邪魔が入らないように、自制しなくてはならない。気を許すと、すぐに演歌やお笑い番組が時間を奪うからである。時たま、家猫ミーコが遊んでくれという場合もある。コマーシャルをカットする目的で録画して、ニュース解説や報道番組を視聴する。大仰にアイデアなど言ったが、高尚なものでも哲学・学術的な類のものではない。

 

ごく日常の生活に関する工夫である。料理について、例を上げてみよう。これから夏野菜が豊富に採れ出す。これをスティックにして、食するにはいろいろなディップが欲しい。今までも、サワークリーム・ホタテ貝・しじみ缶・タラコと知恵を絞ったものだ。娘が米国製のドレッシングを持ち込んだことも。他にも、新しい洒落たピクルスも5種類ほど作ることに挑戦しているし、塩こうじを作り置きして、キュウリやナスなどの一夜漬けに挑んでいる。こういうことをのために脳みそを働かせている。
 

ピクルス


数日前も、近所のE子が現れて言うのだ、
「あんた、難しい顔して何を考えているのかと思っていたら、奥さんから聞いたっちゃ、『グリーン・カーテンに、ゴーヤがいいか、ヘチマはどうやろうか。それとも瓢箪はどうかな。一口メロンが好いか、それともパッションフルーツがいいか』だって?な~ん迷うことないっちゃ、ぜんぶ植えれば良いがよ。あんたは哲学者じゃないがやから、何も考えんでもいいよ。下手の考え、休むに似たりと言うにけぇ」
長く考え込んでも、何の役にも立たない、ただ時間の無駄だと言いたいらしい。