2023年11月04日(土) 曇時々晴
【軽井沢】最高気温 20.2℃ / 最低気温 4.5℃
「龍宮」でお昼をいただいた後、「一房の葡萄」で下ろして貰いました。
3年続けて、この時期にここを訪れています。
12:03
「一房の葡萄」は水・木曜定休で、今年の営業は11月14日(火)迄。
11月15日(水)から来年の4月12日(金)まで冬休みに入ります。
1階の窓がある部分とテラスがカフェです。
まずは2階にあがって有島武郎記念室を見ることにします。
12:06
2階に上がってすぐにある応接間。
ここは入室禁止。
この写真の正面にある窓はタリアセン駐車場に面した位置にある窓。
右側にチラッと写っているのはドーマーの窓(屋根窓)。
有島武郎記念館入口
軽井沢彫りの展示ケース。
ここに有島武郎と愛人の波多野秋子の情死事件を取り扱った当時の新聞記事などが展示されている。
去年から、この新聞記事を読むのが楽しみになってきました。
『有島武郎滞欧画帖』 全二十四葉・付録一 有島生馬編 1963(昭和38)年9月、日本近代文学館刊
有島武郎の弟・生馬氏が編集した武郎が欧州滞在時のスケッチ。
「一房の葡萄」を読んで、この人は絵を描く人なんだと思っていたけど、なかなか上手なスケッチだ。
軽井沢彫りのキャビネットの中に展示されていた武郎の写真。
葬儀の遺影に使われた写真なのだろうか。
キャビネットの上に掲げられていた額。
軽井沢にて 有島武郎
せみひとつ
木をばはなれて
地におちぬ
風なき秋の志つかなる哉
蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな
いつ頃、詠んだ詩だろう。
秋子には既に出会っていたのだろうか。
「蝉が死んで、秋の静寂を感じる」とは、さすが作家の感性だと思うけど、情死事件を知った後で詠むと、死への暗示に感じられる。
「風なき秋」は秋子の暗喩かな?とか。
2階の窓から見える野上弥生子別荘
大正20年7月10日(火)信濃毎日新聞① の記事が興味深かった。
信濃毎日新聞 大正20年7月10日
有島氏最後の場所
上図は遠望せる有島氏別荘、下図は同別荘母屋Xが現場食堂の位置
このX印の場所って、今はテラスになっている所じゃないかしら?
↑2021年11月03日(水)撮影
私は1階のカフェの天井を眺めながら、二人が帯を掛けた梁らしきものが見当たらないのは、リフォームしたからだと思っていたけど、現場の食堂は解体されて、テラスになっているのかもしれない。
↑2021年10月24日(日)撮影
テラス席。
ここなら帯を掛けられる梁がある!
大正20年7月10日(火)信濃毎日新聞②
去年は大正13年7月9日(月)付の信濃毎日新聞に掲載されていた、武郎が母親に宛てた遺書を読んで、『運命だから仕方がなかった』というのは、なんとも穴(けつ)を捲った感のある遺書だなぁ~と思いました。
今年は大正13年7月10日(火)付の信濃毎日新聞に掲載されていた、秋子と武郎、それぞれが秋子の夫・波多野春房氏に宛てた遺書を読んで、「有島武郎って、やっぱクズじゃね?」と思った次第です。
(以下、記事より)
有島氏と秋子の遺書を八日夜発表されたが遺書は何れもレター、ペーパーに鉛筆で書かれてあった
妻秋子からの遺書
春房様とうとう悲しいお別れをする時が参りました。
度々御話しする通りで秋子の心は能く解って下さることと存じます。
私は貴方が良く能く解って居ります。
十余年の間愛して下すったのを嬉しく勿体なく存じます。
我儘の有り丈をした揚句貴方を殺す様なことになりました。
之れを思うとたまりません。
貴方をたった一人ボツチにして行くのが可愛くて可愛くて堪りません。
6月9日午前1時半 秋子
武郎氏からの遺書
波多野様此の期になって何事も申しません。
誰が善いのでも悪いのでもなく善に付け悪に付け夫れは運命の負うべきものの様です。
私達は運命に素直な許りだったのです。
夫れにしても私達は貴方の病軀を切に感ぜぬには居られません。
貴方の受けられる手傷が少しでも早く薄らぎ癒えんことを祈り上げます。
私達の取交した手紙の断片は私達が如何に貴方を感じて居たかを少しく語ると思う。
併し私達は遂に自然の大きな手で安々と此処からさらはれて仕舞った。
今私達は深く心から総ての人々に謝し総ての人に同感します。
現世的負担を全く償うことなく此の地を去る私達を何うか御許し下さい。
6月8日夜列車中にて 有島武郎
(以上、記事転載終)
秋子の遺書は、現在と言葉の意味合いや語感が違うので、遺書がかかれた大正13年(1924年)から100年経った日本人が読むと、夫をおちょくっているようにも感じられる。
「これからはボッチで可哀想ね~。」てな感じで。
武郎の遺書については、もう言語道断で、私が春房氏の親族であったならば「ヤルことヤっといて、運命に責任転嫁してんじゃね~!」と怒鳴りつけたくなるような文言の羅列です。
私は去年、情死事件の記事を読んだ後、「一房の葡萄」を読みましたが、級友の絵具を盗んで、発覚しても、謝らなかった姿勢と一環しているなぁ~と思うのです。
有島武郎略年譜
学習院に通い、大正天皇の学友に選ばれたり、明治36年(1903年)に留学したり、明治39年(1906年)に弟とヨーロッパを歴訪したり、生粋のお坊ちゃまであらせられたのですね。