カフカを用いて新しい音楽を試みる、という企画と並行して、新しい実在論についての素描も引き続き書いていきたいと思います。
今回は、「欲望」について書きます。
欲望とはラカンをはじめとした精神分析学のキータームであり、周知のようにドゥルーズがアンチオイディプスにおいてラカンのそれを批判継承したところの概念です。
ところで、欲望というと、もうそれだけで、ヴァイタリズムの香りがしていけません。私はヴァイタリズムを一切否定する立場ですから(というより、生成や生、その他そういった非合理的なものは、合理的で形而上学的、形式的な体系に付加的に作用する外部的なアタッチメントに過ぎない、という立場に達したのですから)。ただ、欲望なり生成なりそういったヴァイタリズム的な概念は、形式と経験とを任意の段階で結び付け統合する、それ自体が既に形式的で生命的でない概念であることは認められます。
経験とは超越である。
だから経験について経験的に語ることは不可能だとしても、経験について形式的・概念的に語ることは、生成という付加的構造を導入することで可能です。
さて、欲望についてですが、
現実が当たり前のように実在的で、一義的である、という幻想は、存在論的なレベルでなく、意識のレベルで生じる、そして欲望とは無意識の欲望でなく、意識の日常の、表面的な欲望の、自己への総合である、ということをまず訴えたいです。
だから意識は欲望の意識であり、また欲望が様々な対象に対応してその都度具体化される欲望の展開、差異化の場所であるが、それらの諸欲望は、それらの完全な一への自己限定、すなわち統合の欲望(唯一の欲望)の経験的な表現である。
欲望はドゥルーズに反して、深いものではない。それは意識と同じレベルにある。私の外部主義的実在論に基づいて、欲望自体が、存在と生成の非弁証法的ハイブリッドである。それゆえ、欲望は(ドゥルーズに反して、というよりフロイトに回帰して)幻想を生じるが、生産された幻想のうちに、自らの存在を即座に内在させる、という自己組織的な構造を持っている。なぜなら、(それが幻想にしろ実在にしろ)欲望は生産するものでなければならないが、というより生産その物、生産の存在であるが、それが次のこと、すなわち、「その存在を維持するところの生成というその存在の十分条件」を意味するとすれば、主体的な存在の湧出点でもなく(なぜならもしそうだとすれば、欲望はさらにこの欲望の欲望、さらにその欲望を要する、という無限後退に陥るであろうから、つまりその極限として、欲望の他者たる神秘的な生を外部にもつ、という非自体的な在り方をなってしまうであろうから)、自らを常に生成するものでなければならないからだ。そして、それは差異の反復、ドゥルーズの永劫回帰とは次の点で区別される。すなわち、欲望は対象をもつということ、のみならず対象化作用であるということ、かつ、またそれと実は相関的に、存在の湧出点つまり非経験的な特異点でもないとすれば、対象と自身が常に一致していなければならず、対象とは自身が作ったものであり、その対象以外に、己の存在は存在不可能であるからだ(さもないと、前述の無限背進、すなわち非経験的な差異の反復を要請することとなる)。経験を超えた深さを要請しない欲望とは、このようなものでなければならない。そして経験的であるがゆえに、欲望とは特殊なものでなければならない。
しかし欲望とは、(経験を可能にするところの)統合の欲望であるがゆえに、意識的でありつつ、当の諸々の欲望がそれの表現であるところの、深さをアポステリオリに総合する。
そして外部主義的には、統合の欲望とは、一つの実在を有効化し他の実在を無効化することである。これについてはのちにもっと詳しく述べます。
ラカンについては次のように言えます。
欲望は他者の欲望である、というとき、そこには構造上の対称性を覆い隠す、私ー他という主観的な非対称性が前提されている。その上、生成の構造が紛れ込んでいる、と。