修身斉家治国平天下(しゅうしん せいか ちこく へいてんか)
儒教の基本的な考え方で、コトバンクによると
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天下を治めるには、
まず自分の行いを正しくし、
次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。
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ということです。
自分の行いを正しくし→修身
家庭をととのえ →斉家
国家を治め →治国
天下を平和に →平天下
ひとりひとりが、自分の身を修める(自分の行いを正しくする)と、
家庭がととのう、
各家庭がととのえば、国が治まる、
国が治まれば、天下が平和になる、
ということです。
この考え方は、儒教のテキストの1つ『大学』という書物にありますが、
『大学』は、もともと『礼記』という書物の一部なので、
この考え方が成立したのは、周王朝から漢王朝にかけてのいずれかの時期だと思われます。
ですから、ここでいう国とは、都市国家のことを指していると思われます。
ウィキペディアに「西周時代の中国」の地図が載っていますが、
ウィキペディアより転載
小さい四角で表された1つ1つの都市国家が、「国」です。
天下は、天の下、地上の世界全てという意味になります。
実際のところは、中国文明が及ぶ範囲だった、と言ってよいでしょう。
これを、戦国~江戸時代の日本に当てはめると、
修身、斉家は同じですが、
治国の「国」は、各大名の領地、天下は日本全体、ということになります。
日本でも中国でも、国がうまく治まるには、ひとりひとりが身を修めることが、
基本である、ということです。
(同じ考え方を共有しているはずなのですが、本家であるはずの中国人は民度が低く、
”身を修めている”とは到底言えないのは皮肉です)
現在、小中学校では、原則週1時間「道徳」が必修になっていますが、正式な教科ではありません。
この「道徳」を戦前は「修身」と言っていました。
なぜ「修身」なのかというと、修身斉家治国平天下から来ているわけです。
ひとりひとりの”身を修める”ことが、国を治める第一歩だ、
そういう考えから、「修身」という科目名になっていたのです。
ここからは、小説でも読むようなつもりでお読みください。
1984年にNHKで放送された『宮本武蔵』では、
修身と斉家は出てきませんが、治国と平天下は、何度か出てきます。
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柳生宗矩「”人を殺める剣”から”人を活かす剣”に生まれ変われるかどうか…。」
お通「人を活かす剣?」
宗矩「ん。我が柳生新陰流では、それを”活人剣”と呼んでいる。
国を治める剣、治国平天下の剣。」
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宗矩は、
武蔵の剣が、”人を殺める剣”から、”人を活かす剣”に進化できるかどうか、
と言っているのです。
放送当時は、治国平天下という言葉を知らなかったので、意味がわかりませんでした。
あくまでも、ドラマの中でのことですが、
武蔵は吉岡一門を倒し、天下に名をとどろかせましたが、
人を殺すだけの剣に疑問を感じるようになります。
旅の途中で出会った夢想権之助を弟子にし、
荒地の開墾に取り組みます。
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権之助「なあ、先生よお。
いつまでこんなことしてる気だい。」
武蔵「さあ、わしにもわからん。」
権「先生は、これでいいかもしんねえけどよ。
俺にしてみりゃ、木曽の山の中にいるのと変わらねえでよ。
何しに江戸に来たんだか、わかんねえ。
何が面白れえだね、土いじりが。
もう剣の修行は、やめるだか?
物好きな。
里の連中は笑ってるだよ。」
武「お前は笑うかもしらんが、
わしはここへ来て初めて、人の営みの何たるかを知ったような気がする。
太田川の豊かな水量に恵まれながら、なぜこのあたりの農民は貧しいのだ。
毎年襲ってくる洪水と、夜盗の略奪に痛めつけられて、潤う暇がないのだ。
それは民百姓の責任ではない。上に立つ者の責任だ。
城下町を作り、発展させるだけが、まつりごとではあるまい。
この広大な坂東平野を緑豊かな大地にしてこそ、まつりごとというものだ。
権之助、そうは思わんか。」
「そんな話聞いてられねえよ」とばかりに、あくびをする権之助
武「わしはな、剣をもっと大きく使ってみたくなった。
これが柳生の言う”活人剣”というやつかのう。
わしも初めは、武芸者が”活人剣”などと言い出したら、権勢欲の表れだと思っていたが…。
そうでもなさそうだ。」
権「剣は人を斬る道具だ。
俺は強くなりたい!」
武「道具には違いないが、使い方ひとつで、人を生かしも殺しもするということだ。」
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武蔵と権之助は、農民を苦しめていた夜盗を退治することになります。
その噂を聞いた長岡佐渡(36万石の大名細川家の筆頭家老)は、
武蔵を細川家に招きたい、と誘いますが実現しませんでした。
しかし、あきらめがつかず、柳生宗矩(但馬守)の屋敷に出向き、
武蔵を口説いてもらおうとします。
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長岡佐渡「のう、但馬殿、ここはひとつ、
それがしの顔を立てて、武蔵殿を説得してはもらえまいかのう。
ご貴殿がじゃのう、武蔵殿を、将軍家の兵法指南の列に加えたい、
そういうお考えならば、まあ、あきらめもいたすがの。」
柳生宗矩「いや、まだそこまでは…。」
長「それはありがたい。ならば、ぜひとも、お口添えを願いたい。」
宗「しかし、それは…」
同席している沢庵のほうを見る宗矩。知らん顔をする沢庵。
宗「坊主めが…。とぼけおって。」
長「否でござるかのう、応でござるかのう、但馬殿。」
宗「しかし、どうでござろう、佐渡殿。
細川様には、先頃、佐々木小次郎と申す兵法者を召し抱えられたよし。
家中に二人もの兵法指南がおっては、後々面倒になりませんかの。」
長「いやなんの、武蔵殿は江戸、彼は国許とわかれれば、争いにはなりますまい。
一度はあきらめて、佐々木小次郎を殿に推挙はしたのじゃが、
彼を見るにつけ、知るにつけ、何かにつけて、ついその、武蔵殿と比べてしまう。
思えば思うほど、惜しい人物でござるて。」
長「のう、沢庵殿、そこもとからも、但馬殿を口説いてはくださらんかな。
決して武蔵殿の害になるようなことには、相成り申さぬと。
のう、御坊。」
沢庵「武蔵が細川侯の御前試合に行かなかったのは、
佐々木小次郎との無駄な争いを避けるため。
ここはやはり、本人の意向に任せるしか、ござりますまい。
まして、愚僧ごときが口をきいたところで、なかなか、うんとは申しますまい。」
宗「うん、さもあろう。
なかなかに、うんとは言うまいの。のう。」
長「やはり、望み薄、でござるかのう。
近頃、まれな人物とにらんだのじゃがなあ。
左様でござるか。
……。
剣も鍬なり。鍬も剣なり。」
宗「ん?」
長「土にいて乱を忘れず、乱にいて土を忘れず。」
沢「武蔵めが、申しましたのか?」
長「左様。
これを読んで、ほとほと感服つかまつった。
兵法の行き着くところ、まさにこれでのうてはならぬ、とな。」
沢「剣も鍬なり。鍬も剣なり。
土にいて乱を忘れず、乱にいて土を忘れず…。」
長「これこそ、まさしく”国を治むる剣”、”治国平天下の剣”ではござらぬか。」
沢「武蔵めが…。味なことを。」
そこへ武蔵がやって来ます。
宗「のう、どうでござろうのう、武蔵殿。
長岡佐渡殿も、こうしてお主の人物を見込んで、細川家に招きたい、と相談に来ておられる。
この際、はっきりと、お主の心を聞いておきたい。
仕官の望みはあるのか、ないのか。」
武「正直なところ、それがしも迷うております。
修行の旅を続けるべきか否か。」
長「もうそれで十分ではござらぬか。
あとはその兵法をどう活かすかじゃ。」
武「それは考えぬでもありませぬ。
それがし、下総法典ヶ原で開墾に従事して、いささか感ずるところがござりました。」
沢「どのような?」
武「戦国以来の”力の剣”は、もう行き着くところまで行き着いているのではないか、
ならばその上を行く剣とは何か。」
沢「何だと思う?」
武「人に剣を教えるよりは、
民百姓と力を合わせて、”治国の道”を切り開くことこそ、
兵法の究極の目的ではあるまいかと…。」
沢「つまり、まつりごとに携わってみたい、と申すのじゃな?」
武「御坊、これは、武芸者として堕落でございましょうか?
但馬様は何と?」
宗「ん。確かに、一昔前の武芸者なら、堕落と言うであろう。
しかし、わしはそうは思わん。
お主と全く同じ考えだ。
して、どうなのだ、仕官の儀は?」
武「長岡様には、申し訳ござりませぬが、
かないますれば、
何十万石の御大家ではなく、いずれかの2、3万石の小さな国で、存分に働いてみたいと、
かように考えまする。」
長「やはり当家には、無理、でござるかの?」
武「分に過ぎたるお誘いなれど…。」
宗「2、3万石の小大名か。」
沢「さて、どこぞに、あてでもござろうかの、但馬殿。」
宗「ん?
なくもないが。」
沢「ならばどうじゃ。この際、但馬殿にお任せをしては。」
武「そのようなことをお願い致しても、よろしゅうござりましょうか?」
沢「そのかわり、我がままは、言うまいぞ。」
武「なにさまそのような。」
宗「その言葉に二言はあるまいの?」
武「はい。
それがしのような者を、召し抱えてくださるような御家があれば、
いずこへなりと。」
宗「わかった。
ならば、どうであろう。
小藩と言わず、大藩と言わず、まつりごとは、どこも同じ。
ならばいっそ、徳川家で働いてみては?」
武「なんと…。」
宗「いやか?将軍家では。」
武「それはあまりに、おたわむれが過ぎましょう。」
宗「たわむれではない!」
武「但馬様…。」
宗「たわむれを、言うと思うのか?」
武「そっそれはなりません。
それでは約束が違いまする。
それがしは小国でのうては務まりません。
なにとぞ、その儀ばかりはひらに。」
沢「見苦しいぞ、武蔵。」
武「沢庵殿!」
沢「但馬殿には、但馬殿のお考えがござる。
お任せをするのじゃ。」
武「但馬様。」
宗「徳川家においても、まだまだ戦国以来の荒々しい気風を、よしとする者がほとんどだ。
ともすれば、なにごとも力で押し切ろうとする。
それらの頭を少しずつ変えていかねばならぬ。
それには、口先ばかりではだめだ。
誰もが納得する”新しい剣”が必要なのだ。
どうじゃ、武蔵殿。
わしに力を貸してくれんか。」
武蔵、無言でうつむく。
宗「よいのだな?」
長「武蔵殿、それならば、わしも、あきらめがつく。
いかがじゃな?」
武蔵、しばらくの沈黙のあと、手をつき、
武「なにぶん、よしなに。」
ほっと溜息をつく宗矩と沢庵。
長「よかったよかった。これでわしも来た甲斐があったというものじゃ。」
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結局、武蔵は徳川家に召し抱えられることはありませんでした。
ドラマの中では、柳生宗矩は、”人を活かす剣”、”活人剣”のことを”治国平天下の剣”と
言っています。
しかし、実際の宗矩は、こんなふうに言っています。
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一人(いちにん)の悪によりて万人苦しむ事あり。
しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。
これら誠に、人をころす刀は人をいかすつるぎになるべきにや。
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柳生宗矩『兵法家伝書』より
単純に解釈すれば、
悪い奴を殺すことによって、善良な人々を救うのだ、
そのために人を殺す技(=剣術)を学ぶのだ、
という意味に取れます。
ドラマの中の、活人剣=治国平天下の剣は、
善政によって、民衆を救う、民衆が豊かに暮らせるようにする、
という意味であるように取れます。
正直言って、
実際の宗矩が言ってる意味のほうが、薄っぺらくねえか?
と思ってしまいました。
兵法家伝書全体を読めば、もっと深い意味だとわかるのかもしれませんが…。
ずい分長くなりましたが、
我々ひとりひとりが身を修めれば(=修身)、
家庭が治まり、国が治まるのです。
そのために、道徳を正式な教科にすべきです。
名前は道徳のままでもいいですが、教える内容は、
修身斉家治国平天下の概念に沿ったものにすべきです。
”身を修める”ためには、
武道や茶道、華道、書道などの日本の習い事は非常に良いと思います。
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