http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=164843
から抜粋しての引用です。
>>>
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
日本の各地でザビエルは布教するのですが、
出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。
それは、
「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」
ということでした。
そして、
「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」
ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、
洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。
元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、
ザビエルもそう答えました。
すると日本人が追求するわけです。
「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。
全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。
「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」
と。
当時の中国にも、韓国にも、インドシナにも
こうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。
上記はブログからの引用ですが、
ソースは 『聖書と「甘え」(土居健朗 著)』です。
この他にも、
『もし神様が天地万物を造ったというなら、
なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?
(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』
などと質問され答えに窮していたようです。
ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、
日本を去った後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で
「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」
と正直に告白しています。
>>>
日本各地でさんざんツッコまれたであろうザビエル
ウィキペディアより転載
”1%の壁”という言葉があります。
日本にキリスト教が入ってきて以来、
日本のキリスト教信者の数は、
そのときどきの日本の全人口の1%を超えたことがないらしく、
”1%の壁”と呼ばれています。
キリスト教は、日本人のごく一部にしか広まっていないわけです。
なぜそうなのか。
私が想像するに、 こういう感じではないかと思います。
*********
村人A「洗礼受けてねえモンは、地獄だっつったって、
オラのご先祖様は、何も悪いことはしてねえだ。
それでも地獄さ落とされてるだか?
ご先祖様は、あんたらバテレンさんが来る前に死んだから、洗礼受けてねえだけだ。
それでも地獄さ落とされるだか?」
宣教師「そ、そうです。」
村人A「それはあんまりでねえか。
オラが洗礼受ければ、ご先祖様も救ってくれてもいいでねえか。
それでもだめだか?」
宣教師「そ、それは…。」
村人B「オラは信じねえぞ。
仏さんなら、ご先祖様も救ってくださるだ。
デウスだかなんだか知らねえが、
悪いことしてねえご先祖様でさえも救ってくれねえなんて、
神様じゃねえだ。」
宣教師「…」
村人C「皆の衆、今までどおり、仏さんだけ信じてればいいでねえか。
ご先祖様も救ってくれねえ神様なんぞ信じることねえぞ」
村人ほぼ全員「んだ、んだ。オラも信じねえぞ。」
「仏さんだけで十分だ」
********
こんなやりとりが日本各地で繰り広げられ、
宣教師たちは、あまり信者を増やすことができなかったのではないでしょうか。
私は、キリスト教の幼稚園に通っていましたが、全く信じていません。
卒園式のとき、神父さんが、
「小学校へ上がっても神様を忘れないでください」
と言いましたが、私は、
「神様なんて幼稚園で卒業だ」
と思っていました。
今思えば、幼稚園での教育は、北朝鮮の教育にそっくりでした。
「イエス様は○○をしました。××をしました。」
とイエス・キリストがいかに偉大であるかというエピソードを繰り返し教え込む、
というものでした。
1989年ごろ、北朝鮮でどんな教育が行われているかをTV番組で見た記憶があります。
当時、最高指導者だった金日成のことを”元帥様”と呼び、
「元帥様はこんなことをなさいました。あんなことをなさいました。」
と、金日成がいかに偉大であるかを国民に教え込んでいました。
北朝鮮がやっている教育は、金日成に対する個人崇拝です。
これを見たとき、ふと浮かんだのは、
「幼稚園で受けたあの教育も、イエス・キリスト個人崇拝じゃないのか?」
という考えでした。
しかし、そういう教育をしているわりには、キリスト教信者は少ないです。
私の姉も妹も同じ幼稚園に通っていましたが、信者でもなんでもありません。
件の幼稚園出身者で、信者になった人は多分すごく少ないと思います。
いじわるな言い方をすれば、幼稚園児でさえも、”騙す”ことができず、
信者にすることができていないわけです。
私や家族やその他、件の幼稚園に通った人たちの場合、
頭のよさというよりは、”感覚の鋭さ”によって、
キリスト教の胡散臭さを嗅ぎ取っていたのではないか、
と思うのです。
”日本人は感覚が鋭い”と私は思っています。
幼稚園のときは、”感覚で”、「なんとなく変だな」と思うわけです。
成長するにつれて、知識が増えていき、
キリスト教の実態を知っていくことになります。
欧米には、キリスト教徒が多いですが、
モーゼの十戒で、殺人や盗みを禁じられているのに、
日本よりずっと殺人や窃盗、強盗が多いです。
”左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ”
などと言いますが、これを実践している信者がどれだけいるのでしょうか。
はっきり言って、キリスト教徒は、
”立派な教えがあるのに、守ってない”
と思います。
日本のキリスト教信者は、全人口の1%に達していませんが、
韓国は、3割ぐらいだそうです。
日本の場合、”騙された”人は、1%もいないのに、
韓国は、3割ぐらいの人が”騙されている”というわけです。
この数字だけで言えば、日本人は韓国人の30倍頭がいい、ということになりそうです。
宣教師というのは、はっきり言って”侵略の尖兵”です。
しかし、日本人は、”感覚の鋭さ”と矛盾点を的確に突く頭のよさで、
彼らの”精神的な侵略”を撃退したわけです。
やっぱり日本人はすごいな
と思った方はクリックをお願いします。
↓