日本は支那、朝鮮より遅れていたのか? | 朝倉新哉の研究室

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全ては日本を強くするために…

以前の記事で、国家戦略とは、

国家目的を達成するために、
政治的・軍事的・経済的・心理的・技術的な国力を効果的に運用する
統一的・総合的・全般的な戦略

だと言いました。

政治的・軍事的・経済的・技術的な国力を効果的に運用する、とか、

政治的・軍事的・経済的・技術的な国力を高める方策を打ち出す、

というのは、比較的わかりやすいと思います。

国力には、”心理的な国力”というものも含まれています。

ブログテーマの中に、”精神戦略”というものを入れたのは、

”心理的な国力”を高めるための方策を打ち出したい、と思ったからです。

昨日の記事のように、日本の武道、武術の素晴らしさを知っていただき、

日本に誇りをもってもらおう、というのも、

”心理的な国力=心理力”を高める方策の一環なのです。



『歴史通』2011年1月号で、

『日本人ルーツの謎を解く』という本が紹介されていました。

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日本人はどこから来たのか、という設問をすれば
(中略)
ユーラシア大陸のどこそこから大量の人間がやってきて、
渡来人による先住民の征服が行われたと思い込んできた。
(中略)
朝鮮半島で発見された「前方後円墳」がそのよい例で、
多くの識者が半島から日本へというルートを考えたが、
年代測定などの結果、日本から半島に伝えられたことが明らかになった。
ことほど左様に、土器も稲作も列島から半島へというのが歴史の真実だった。
(中略)
「日本のように、先史時代以来、私たちが知りうる限りにおいて、
外国勢力に征服されたり大量移民を受け入れたりしたことのない国では、
古くからのDNAがほぼそのまま残っていると考えて良い。
大きく変わる理由がないからだ。」

その反対の例が半島で、
「不幸なことに朝鮮民族は、度重なるシナ、モンゴル、満洲族などの侵略により
戦乱に巻き込まれてきた」のである。

最終章は「言語学から辿る日本人のルーツ」であるが、
ここでもまた、大陸や半島から多くの渡来人がやってきたという説には批判的で、
もしそうだったなら言語系統がもっとはっきりするはずだと考える。

それらの諸説は、民族と言語がこの日本列島という限定された平和な空間において
成熟したという独自性に収斂していく。
読者は本書を読むことによって、わが国の歴史的僥倖という言葉を
かみしめることになるだろう。
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中国の吉林省に、高句麗の好太王の業績を記した

『好太王碑』(広開土王碑とも)があります。

国家戦略研究
好太王碑の拓本(ウィキペディアより)

そこには、西暦391年、倭が百残(百済?)、新羅を破り、臣民となしてしまった

と記されています。

さらに、

新羅の使者が好太王に、

「多くの倭人が侵入し、新羅王を倭の臣下にしてしまったので助けてください」

と願い出たことが記され、

そのあと、404年に倭の軍を打ち破ったことが記されています。

倭が強敵だったからこそ、打ち破った記念に碑を建立したのであって、

弱い敵に勝っても、碑など建てないでしょう。


朝鮮の歴史書『三国史記』の中の『百済本紀』には、

397年に、百済王が王子を人質として倭国に送ったことが記されています。


『三国史記・新羅本紀』には、

紀元前20年に馬韓に派遣された瓢公という外交使節が、

元々は倭人であったと記されています。

卑弥呼が魏に使者を送ったのが239年。

それより200年以上前に、日本人は半島にあった国の外交使節に就任していたわけです。

日本が朝鮮より後進国だったなら、そういうことはありえません。

そして、新羅の第4代の王(脱解王)は、日本生まれなのです。

正確に言うと、脱解王は”多婆那国(たばなこく)”の生まれで、

その多婆那国は”倭国の東北一千里”にあるというので、

”但馬”か”丹波”であろうと考えられています。

倭国の範囲が、朝鮮半島南部から北部九州だとすれば、そのあたりでしょう。

(西日本全体を指して倭国と言っていたのなら、多婆那国は海の中になってしまいます)

西暦73年には、倭人と戦ったが敗れたと記されています。

以下、倭国と新羅の主な交戦の記録を見てみると、

232年、倭人が金城を包囲した。

292年、倭兵が沙道城を攻め落とす。

346年、倭兵が風島に来て、金城を包囲した。

364年、倭人に対して伏兵を使って不意討ちし、敗走させた。

402年、奈勿王の子を人質として倭に送った。

440年、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。

444年、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。

459年、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、
     追撃してこれを破る。

462年、倭人が活開城を襲い破り、1000名を捕らえて連れ去った。

463年、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。

477年、倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。

500年、倭人が長峯鎮を攻め陥した。

倭国が敗れたこともありますが、

新羅のほうが人質を送ったり、捕虜1000人を取られたりもしています。

”半島が先進国、日本は後進国”という見方は、一方的であることがわかると思います。


新羅本紀には、
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245年、王が臣下に対して
「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、
皆の意見はどうか?」
と聞いた、とあります。

これに対して臣下の者は、「われわれは海戦に不慣れでございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます」
と答えました。
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とあります。

これは、航海技術、海上戦闘で倭国が優位にあったことを示唆しています。

そして、朝鮮の記録は、全てが倭国が攻め込んできたというもので、

半島から倭国へ攻め入ったという記録が一切ありません。

三国史記にも高句麗好太王碑文にも、倭国が攻めてきたことは記されていますが、

新羅、高句麗、百済、いずれの国も、倭国に攻め入ったとは、一言も書かれていません。

半島および日本近海の”制海権”は倭国が握っていたと見ていいでしょう。


支那に対しても、決して後進国だったわけではありません。

『「日本と中国」歴史の真実』 拳骨拓史 リュウ・ブックスアステ新書

を読むとそれがわかります。


古代は、半島、大陸のほうが先進国で、日本は後進国だった、

というのは、”半島、大陸目線”の歴史観であり、

今後、日本から駆逐されるべきものです。

日本は、昨日今日、すごい国になったのではなく、昔からすごかったのです。

そのことを率直に認めて、”半島、大陸目線”の歴史観を払拭し、

日本目線の歴史を作り上げることが不可欠です。

日本は、偽造の積み重ねでしか、誇れる歴史を作れない国とは違うのです。

事実のみを積み重ねればいいのです。

それだけで、世界に誇れる歴史ができあがります。

こんな国はおそらく日本だけです。

それに比べると、コリアは「だめだコリア」ということになります。

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