[スター日記]スンリ①"ショッピングモールのダンスチーム、一ヶ月に20万ウォンもらって.."

[アジア経済パク・ソヨン記者]"テソンとテヤンは根元が太くて適時に水を与えれば良く育つ木でタプはある意味、変だがそのままでもとてもかっこいい木だ。
ジヨンはとても派手な木なので時々手入れをすれば本当に素晴らしい木に育つようだ。
スンリは小枝がとても多くて。 君は庭園師がそばでいつも待っていなきゃいけなくて。 ずっと小枝を手入れしなければどこへ伸びるか分からない。"(ヤン・ヒョンソクYGエンターテイメント代表)
才能が多くて浮気心もいっぱいのビッグバンの末っ子勝利(21・実名イ・スンヒョン). 彼はそうそうたる実力の兄たちの間でも絶対ひるまず本人だけの魅力を発散している。
グループ活動だけなく兄たちがいないソロ舞台でも光を放ち、ミュージカル舞台でも優れた表現力で観客たちを感動させた。
'光州(クァンジュ)のダンサー'で韓国最高のアイドル歌手、ミュージカル俳優など多才多能なエンターテイナーになるまで彼が駆け付けた道のりはどうだったのだろうか。
幼い年齢で耐え抜くにはあまりにも辛かったような過程に対して彼は'おもしろく楽しんだ'と余裕があるように話す。 この光る二十一才の青年が自身の夢と愛、試練に対して口を開いた。
勝利の'スター日記'は1回から10回まで続きます。(編集者注)
"幼い時の夢はコメディアンでした。 周りの人々が僕のことで笑ってくれたのが気分が良かったんですよ。 友人らとコントを組んで人々の前に出て行ってリリースしたりしました。 '芸能人になりたい'という気持ちよりは'僕のことで人々が楽しかったら嬉しい'と思ったんです。"
人々の前に立つのが好きだった幼いスンリ君. 彼のこういう性格はお父さんの影響が大きかった。 ゴルフコーチ出身の開放的で活動的なお父さんは彼の絆と同時に人生のモデルになった。
"幼いころからお父さんと友人のように過ごしました。 中学校の時、先輩たちからいじめにあったことがありました。 私が踊っているといわゆる'遊んでる子'と思われて先輩たちからたくさんからかわれました。 お父さんに言ったらすぐにその翌日学校に行って解決してしまったんです。 お父さんの声が腹式呼吸で大きく響くんです。(笑)"
中学校の時期、踊りに関心を持った時もお父さんは積極的な支援者になってくれた。
"祭りが開かれたのですが、舞台の上にいるダンスチームらがそんなにカッコよく見えることはできなかったんです。 その時から踊りに完全にハマってしまいました。 ご両親を迎えておいて'踊りが好きになった'と申し上げましたよ。 ご両親は'そうか、お前に好きなことができてうれしい。 やるなら、ちゃんとやりなさい'と言って踊りに関する全ての事を支援して下さいました。"
ご両親の支援まで勝ち取った勝利は士気を満たしてアマチュアのダンスチームを作った。 本人より3~4才年上の兄らと共に'エピソード'(1話)というチームを作ってがむしゃらに踊り始めた。
"'エピソード'はまだ知られていない話でした。 今、考えてみると少し幼稚だったりもしますね。 だけど、今まで取り組んだこともない振りつけを直接手掛けて全羅南道(チョルラナムド)、長城郡(チャンソングン)の'ホンギルドン祭り'に出て直ちに1等をもらって賞金50万ウォンを受け取りました。(笑)力を得ましたよ。 メンバーたちと'ずっと頑張っていこう'と誓って、光州(クァンジュ)市内にある某ショッピングモールの専属ダンスチームで契約をして活動をしましたよ。"
たとえ1ヶ月に20万ウォンしかもらえなかったが人気があった。 ファンカフェもできて光州(クァンジュ)市内の中・高等学校女子学生らの間で旋風的な人気を呼んだ。
"チームに'美男'の兄らもいたし、それで人気がちょっとあったんですよ。(笑)学校の祭りや、行事のみたいなところから交渉がたくさん入ってきましたよ。 1ヶ月に200万ウォンずつ儲けたりもしました。 幼い僕たちにそのお金は本当に大金でした。 そのお金で公演会場を借りてコンサートもしたりしました。 光州(クァンジュ)で知られているから、あるキャスティング マネジャーの方が'歌手になるつもりはないか?'と連絡が来ました。 幼い気持ちで'本当に僕が芸能人なるのか?'と思ったんですよ。"
その後に差しせまってくる苦しい仕事に対して全く推察できない'幼いスンリ'は荷物を包んでソウル道へ向かった。

(幼い時期のスンリ)
▲スンリのスター日記2回は4月21日午前8時にアジア経済新聞ホームページ(www.asiae.co.kr)で連載されます