アマチュアのどうでもいい話

アマチュアのどうでもいい話

しがないアマチュアの、無意味な自分語り。
まずは「前置き」からどうぞ

Amebaでブログを始めよう!
もともとは2chで自分語りしてたんですが
こっちに移してアクセスがすでに200件越えとは、アメーバも侮れないですねぇ。
とはいえ初志貫徹でオ○ニーし続けるぜ。


ビックバンドの部活に入ったならば、当然それに合わせたギターを弾く必要がある。
前も述べたがビックバンドのギターは、ロックとかでガリガリ鳴っているプレイとは対極的だった。
基本は4拍子を淡々と続け、ベースやハイハットにコーラスをつけるイメージというか…
「4分なんて簡単ジャン」と思っていたが、これが難しいのだ。
単純な4拍子ではなくて、絶妙なタメとアクセントをつける必要があった。

アンプで大きい音を出せばアンサンブルを崩すと怒られ、
音量を絞り「今のプレイどうでした?」と聞いても「ごめん聞いてなかった」と言われ
『一体なんなんじゃこりゃ~』と一人悶々としていた。

自分の本来の目的はセッションとアドリブの習得のためだったため、リズムギターに時間もかけたくなかった。
今でもとても大切だと思うことがある。
自分が「やりたいこと」をやるためには、どうしても「やりたくないこと」も着いてくるのだ。
その「やりたくないこと」に対してどういう作戦を立てるか…これは本当に重要だと思う。

入部して作戦を一ヶ月考え、「練習しないために練習する」という方針を僕は思いついた。
ビックバンド曲の準備に、なるべく時間を使わないよう…
基礎を徹底して鍛え対応力を上げる、といった(いわば当たり前の)作戦だ。

その内容としては、色々なキーの音階をコードで弾く
(例えばキーCならCM7・Dm7・Em7ってな感じ、それをFやBbに移調する)
メトロノームを2・4以外に裏でいれて、4分を弾く、裏で弾く。
ビックバンド部に入部して以来、僕は色んなキー・テンポで徹底的に4分だけを弾く
「人間メトロノーム」と化していた。


またビックバンド用のコードフォームを研究することも有意義だった。
普通のポップスやロックだと、Fコードはおなじみのあの形だが
ビックバンドでは6弦・1弦を鳴らすのはご法度なのだ。
セーハコードでは他の楽器に対して邪魔になるし、コードチェンジに時間がかかる。
(ビックバンドではテンポ200とかで2拍ごとにコードが変わる…みたいなのは良くある)
基本は4~2弦をしか鳴らさない、独特の押さえ方だった。(ファンクのダブルストップににているかな?)
和音を省略することでサウンドが良くなるんだから、
ビックバンドのギターは不思議な奥深さがある…でももうやる気はない。

一年生の時はもち曲も少なかったので、
他の部員が持ち曲を反復・もしくは雑談しているのを尻目に
訳の分からない基礎練をやっていたんだから…結構変な目で見られたと思う。
最初はまったく芽が出ず挫けそうになったが(多くの一年がデビューするなか、自分はできなかった)
学年が上がっていくごとに曲の準備が少ない時間でできるようになり、
最後のほうはほぼ初見で演奏できるようになっていた。

練習しないための練習…一見矛盾しているような練習をしていて本当に良かったと思う。
僕は今でも掛け持ちでバンドをしているが、どうしても気が乗らない曲をやる場合
本当に基礎のありがたみを思い知るのだ(笑)

友達の家で飲んでいて、5℃の部屋で布団を掛けずに床寝したため
なんだか体調悪いっす。明日仕事行きたくねー。

大学でも僕はジャズをやっていたんだけど、何だかんだで一番実りの多い時期だった気がします。
…という訳で大学編を書きます(恐らく練習の話ばかりになりそう、スマヌ)

高校でのジャズ研を通して、セッションをもっと追求すると決めた僕は、
入学前からインターネットでその大学の部活を調べており…すでに入る部活に目星をつけていた。
大学で唯一のジャズ部ということもあり、入学式を終えた足で部室に向かった。
部室は高校時代と比べものにならない広さで、部員が数十人近くいることに驚いた。
一体いくつのバンドが在籍しているのか、自分に出番が回ってくるのか心配したが
…勘違いしていたことに気づく。


そこは僕がやろうとしていたセッションというより、ビックバンドの部活だったのである。
(言ってみれば坂道のアポロンをやりたくていった場所が、スイングガールズだったような感じ)
http://www.youtube.com/watch?v=E3SF4BbBcpA
ここでのギターの役割にアドリブは必要なく、メトロノームのように4分を弾き続けるという物だった。
今ではスイング感がついて、やっていて良かったと思うけど…やっぱり地味でもう一度やりたいとは思わない

一応セッションもやっていたが、それはほんの一部のエースプレイヤーのみだった。
小中高と音楽をやっていた人たちのみが、ビックバンドに飽きたらずセッションを行っている。
経歴も素養も、自分とは大違いの人たちだった。
入部前に僕はそのエース級の人たちに無理を言って、枯れ葉をやらせて貰った。

Gmペンタ一発だった自分のアドリブと、その人たちの演奏はやっぱり別格で。
積み上げた物が余りに少ない自分には、とても届かない場所にいる気がした(実は今でもそう思っている)。
部室でのセッションについて教えてもらえるか聞いたところ、厳しい感触だった。
大方の部員はビックバンドに専念し、当然練習もビックバンドのみに限られていたのだ。

結局のところ、本当に自分がやりたいことは自力でやっていくしかないのである。
誰かがそれを与えてくれるのを待っていても…時間が過ぎるだけで何も起こらない。
高校時代の経験から、僕はぼんやりと、何かをする時に出てくる本質を知りつつあった。
ビックバンドを周りに迷惑を掛けないようにこなし、残った時間で本当にやりたいセッションを追求する。
そのための作戦を考えた後、入部を希望した。
エース級の先輩となるべく多くセッションし、自分のものにしたいという願望もあったからだ
そんなライブからギターを封印した受験勉強はあっという間で、
大学も決まった卒業を迎えることになる。
卒業記念に部員で飲もう、というイベントに有難い事に僕も誘ってもらえた。
少し早めに部室に行くと、入部してからずっと険悪だったドラマーが来ていた。

他の部員が来る小一時間、僕たちは始めて二人だけで話した。
初めて酒を飲んだことや、ドラマーの彼女の話、ゴムは絶対つけるという立派なポリシー。
僕の演奏の未熟なところ、それでも練習に向かい続けた事に敬意を持っていた…というカミングアウト


未だに自分の悪いところだと思うが、僕も自分の未熟さに負い目を感じて部員の人たちから一歩距離を置いていた。
もし初めから、謙虚なままでいたら…もっと早くこういう話が出来たかもしれない。
社会人になっても思うけど、自分の力の無さを認めて素直になるのは…
本当に難しい(悪い所だから直さなきゃいけないんだけど、なかなかね)。

ジャズ研の卒業の儀式として、部室の壁じゅうに書かれた落書きに自分のメッセージを加えることになった。
あの汚くて、まるでヤンキーのような落書きの意味を知ったとき、部室への思いが少し変わった。
僕は壁の隅っこに小さな文字で「本当にお世話になりました」と書いた…
変哲も無いけど、あの落書きはジャズ研と自分の日々をあらわしていると思う(今はもうその部室も無いが)

ジャズ研を後にしてから、自分の中で説明できない思いがあった。

まだ僕は何も出来ていないし、もう少し続ければ…
きっと面白くて凄い、何かが見える。

…というような予感というか。
つらかった思い出より、そういう不思議な確信が沸いてきた。
大学に行っても自分は絶対にジャズをやる、アドリブとセッションを追求する。
と一人で心に決めていた。
高校ジャズ研最後のライブで、一曲だけもらった「モーニン」は難航を極めた。
自分一人から始めるテーマ(主旋律)に対して、バンドが返事をするような構成の曲なのだが・・・
めちゃくちゃな自分のリズムでは、バンドがどう入っていいか分からないのだ。
ライブに向けてモーニンを練習していた時、部員からの風当たりが最も悪かった。
一番ストレスが溜まったのはドラムで、一触即発な状況だった。

またアドリブソロにもかなり苦戦していた。
この曲はAメロはマイナーペンタ一発で弾けるが、
Bメロから二拍ごとにルートが下がってAのキーに戻る「強進行」の構成になっている。
きちんとジャズらしく弾くには、ほぼ一小節ごとにキーを変える必要があるのだ。
(今でもモーニンをきちんとジャズらしく弾けない気がする…この曲は難しいよ)

この時は摂り付かれていたように練習していたと思う。
いつしかブルーノートスケールをシール無しでも弾けるようになり、
5・6弦のルートの位置も把握し、伴奏も間違えることも無くなった。
ただしジャズのアドリブで最も重要な、リズム感・フレーズを歌うという所はまったく駄目だった。
自分の番が回ってくるまで、部室の外のコンクリートに座り込みモーニンのメロディを何時間も弾き続けた。



かくしてライブ当日になり、自分の両親も演奏を聞きに来てくれた。
平日は部活も含めて4時間、休日は6時間くらい練習していたので。
…少し心配もされていたと思う

半年かけて必死で積み上げていた自分に、僕は少し期待していた。
よく少年漫画とかで、大事な決戦で修行の成果が出る…みたいな展開あるじゃない?
今まで初めて本気で必死になったことは、きっと実ると。

当たり前だけどそれは甘ったれた考えで、ライブの演奏はそのままの僕だった。
部室で小さくなり、家の部屋でひたすら練習し続け、それでも全然至らない。
等身大の自分だった。

ライブが終わったあと両親に聞いた第一声が
「自分の演奏は変じゃなかった?」
だったことは印象に残っている。
結局限られた時間での努力では、華麗に(当時はそう見えた)演奏する他の部員とは雲泥の差があったことは知っていた。
「変じゃ無かったよ」
と両親は言ってくれたが、多分やさしさだったと思う。
でもそれ以来、親父は「お前にギターが続くはずが無い」という言葉を言わなくなった。
高校の頃バンドや音楽をやっていた人の多くは、輝かしい青春の思い出があるのではないだろうか?
自分にとって歓迎されないまま無理に入れてもらったジャズ研時代は、
十数年のギター弾いてた中で一番苦労した時代だった。

だからアニメの軽音とか見ると、正直嫉妬が止まらなくなる。
あんなに和気藹々と、練習に打ち込まず、
ハイレベルな演奏を繰り広げるのが悔しくて悔しくて(とても現実ではこんな話は出来ない)

無理を言ってジャズ研に入れてもらったは良かったが
メトロノームにあわせる練習をしなかった自分のアドリブは滅茶苦茶で
伴奏のハイコードのルートもずれる始末。
そして自分が本当に悪かったのは、演奏の至らなさに萎縮して
メンバーと打ち解けることが出来ずにいた。

ジャズ研の部室の中で、自分はまるでそこに居ない人間であるような気がしてた。
ギターの人は結構親切にしてくれたけど、一番上手かったドラムの人をかなり苛立たせていた

何としてでもこの状況を打開しようと、楽しむというより追い詰められながら練習していた。
教えてもらったブルーノートスケールがどうしても覚えられず、ギターのフレットにシールを貼ってその形を追いかけた。

ギターを弾く人はご存知と思うが、スケールにはそのキーの骨格となる度数(1,3,5度など)、スパイスとなる度数(6、b5度など)がある。
だがその時の自分はそんな事は全く理解せず使い分けもなかった。
ルートやb3度を省略して、b5度で着地&ロングトーンで鳴らすなど…とても音楽とは言えない代物だった。

今までは曲のコピーだった練習が一気にスケール練習に変わり、適当に買ってきた理論書を読み漁る日々となった。
それでも一向に改善の兆しは見えず、無意味に指先の水ぶくれだけが増えていった。



今思い出すと相当恥ずかしく、人には言えない話だが。
僕はそんな情けない自分がいやで、ギターを背負って通学できずにいた。
学校の軽音に入り、家でも練習したいから…ギターを学校に毎日持っていく必要がある。
でもラグビー部を逃げる形で止める事はクラスメイトは知っていたし、バンドをやるようなキャラでもなかったからだ。

「ギターを持っているところをクラスメイトに見られたくない」

そんな思いから、しょうもない奇行を思いつく。
それは、かなり早朝に家を出てギターを高校の近くの山に隠すことである。
山にギターを隠してから学校に行き、放課後に発掘して部活に向かう…。
そんな相当恥ずかしくアホな行為を、飽きずに毎日繰り返していた。

…ほんと、追い詰められていたんだなぁ



全く成長しないまま、学園祭でも演奏したが…まぁ思い出したくないです。
(坂道のアポロンとか、あんな物は幻想だよwww)
部活に入るのも遅かったため、実質自分が所属できたのは一年ちょっとだった。

最後のライブに向けて大きなアクシデントがあった。
高校でジャズをやっている部活の珍しさもあり、地方のラジオでライブの様子がオンエアされることとなった。
そして僕も最後のお情け?として、自分がテーマを引く(いわば主役になる)曲を一つ受け持つことになる。
テーマのリズムがこけたら、全てが台無しになる曲…

アートブレイキーの『モーニン』である。
http://www.youtube.com/watch?v=--BuSHoPZqA
初めて弾いた曲はご多分に漏れず、スピッツの「空も飛べるはずだった」
登竜門のFコードを何とか二週間でクリアし、グレイの「ここではない何処かへ」など厨房真っ盛りのコピーを続ける。
親父に「うっさい、下手糞やな」と難色を示されながら…3ヶ月が過ぎた。

今思うとかなり無茶な行動だが、その後高校の軽音学部の門を叩くことになる。
部室で練習できる部活はそこだけだったし、家での練習は家族の苦情があったからだ。
初めて入った部室は男子トイレの隣にあって、壁じゅうに「S○X」や「お○んこ」などのしょーもない落書きで埋め尽くされていた。

いきなり初心者のよそ者が来た、そしてその佇まいは量産型サンボマスターという感じ。
男前で髪を染めた人の多い部員からは、全然場違いだったし、当然怪訝な目で見られますわな。
(田舎だった事もあり、当時はバンドマンはちょっとやんキーっぽい、いけてる人が多かった)
「とりあえずやってみて」と始まった曲…
それはルードナルドソンの『アリゲーターブーガル』だった。
http://www.youtube.com/watch?v=85Uv0pCvvSI

軽音学部は、高校にしては珍しいジャズ研究部だったのである。
ようやくローコードが弾けて、タブ譜で単音弾きを始めたばかりの自分にアドリブが回ってくる。

結果は何一つ音を出せないまま、呆然として終わった(暦三ヶ月だから当然だよねww)。
他のメンバーがアドリブを弾いているのに、ぶっ飛ぶような衝撃を受けた。
今思うとみんなペンタだったけど、同じ年の人がタブ譜を見ないで好きな演奏をしている。それが音楽として成立している。
まるで魔法でも見ているような気分だった。

結局どうしても練習場所が欲しくて、歓迎されないまま軽音に入部させて貰ったのだった。

さてと…自分とギターの関係は高1の夏から始まる。
特に意思もなく入ったラグビー部を、余りの過酷さ弱い奴は去れの部風から
スパイク・ユニフォームを揃えた入部半年で逃げ出したところだった。
やることも特になく暇だった自分が憧れていた番組があった。

それは「電波少年」のサムシングエルスである。
その頃は「ゆず」「19」などのフォークブーム真っ只中で、駅の地下道で毎日歌う同級生もいた。
解散をかけて曲作りに励むサムシングエルスや、教室でスコアを広げながら打ち合わせをする同級生。
自分とは違う世界の人間に見えた。

今でもそうだが僕はルックス・要領も悪く、運動もできない…なんの取り柄も魅力もない人間である
「自分もあんなことをやってみたい」という気持ちと
「絶対自分には似合わない。部活を逃げた人間に続けられるはずもない」という思いがあって
悶々としながら田舎町の楽器屋にいったのは二ヵ月後だった。
お年玉の二万を握り初めて楽器屋に入るのは、エロ本を買うときの百倍緊張した。

楽器屋の親父さんは本当に親切で優しかった。
試奏すら出来ない自分の為に、にこにこしながらベンチャーズ(だったと思う)を弾いてくれた。
フォトジェニックのストラトと、アンプの初心者セットを二万きっかりにまけて貰い、
使えるはずもない音叉をつけてくれた。
「何かあったらいつでもおいで!」と言葉を受けて、大荷物を抱えて家に帰った。

そのとき親父の「半端なお前に続くはずがない」という言葉は印象に残っている。
(実際その通りだと思ったし、言い返せなかった)

…以上、購入編終了。
恐らくこれからの人生で、誰かに自分のギター暦の変遷を語ることはないし、聞きたい人もいないと思う。
そんな話は完全な自己満だし、僕自身そこら辺にありふれたアマチュアで面白い要素もないからね。
でも一度でいいから、どこかに書いておきたいと思っていたんだな。
これから自分とギターの関わりを、不定期でここに書かせて貰いたいと思う。

要はただのオナニーってことさ…まったくドラマのない話だけど、よろしこ。