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綿津見村に春は似合わないと重森晶は考えていた。
終わらない梅雨と陰鬱な空。それがこの村を体現する何よりの天候だ。
一人を犠牲にして成り立たせていた平穏。澱んだ風習。
いつ降り出してもおかしくない空模様と同じで、それなのにだれもが雨の気配を無視し続けてきた。
もう大丈夫だよと珠洲は笑った。
一歩違えば人柱として殺されていただろう珠洲が、梅雨の終わりを晶に告げた。
梅雨明けの空は、まるで作り物のような青さだった。
季節は巡り、雪が積もった。
白に埋め尽くされても、それでもまだ晶の目にはこの村が澱んで見えた。
雪に覆いつくされても、穢れが隠されても、この村の本質は変わらない。
一度暗部を覗いてしまえば、もうその残滓は振り払えない。
一生をこの村で過ごす晶にとって、それはもう、呪いの一種であった。
いいところなんて、ひとつもなかったのだ。
何処にでもあるありふれた村。誇れるものなんて――
「海のある村って素敵ですね。」
無邪気な声が耳を打つ。
先程まで棒倒しに夢中になっていた真希が、いつの間にか隣で海を眺めていた。
大きな瞳を覗き込めば、きっと目の前の海がそのまま映っていただろう。
瞳にキラキラした星をたたえる真希に、能天気な奴だと晶は評価を下した。
「住んでいたら、そうも言ってられないけどな。」
彼女はこの村で、ほんの仮初めを過ごす存在である。
帰るべき場所が他にあり、何も知らないまま、何にも関わらないまま、消えていく。
「海が荒れてると家にいても波の音がうるさいし、潮の臭いは鼻につく。
おまけに海風のせいで鉄がすぐに錆びる。自転車なんか、買って数日で錆が浮く。」
初めて海を見て感動している相手に、晶は容赦なく欠点を挙げていく。
いいところだけしか見えていない真希に、無性に腹が立ったのだ。完全に八つ当たりである。
「そうなんですか。住んでみないと分からないこともあるんですね。」
少しはその夢見る表情が崩れるかと思ったが、欠点にすら興味を抱き、ますます熱のこもった目で真希は頷いた。
何となく肩透かしを食らって、晶はそのまま黙り込んだ。
寄せては返す波の音が二人の隙間を埋める。
風になびく真希の髪は細く、陽光を受けてゆるやかにきらめく。
「重森君は、海のどこか好き?」
「は?」
「海の困るところを聞いたから、好きなところを聞きたいなって。」
「……さあ。」
いつから海に反感を抱くようになったのだろう。
龍神伝説を知ってから?珠洲の母親が呑み込まれてから?豊玉姫が現れてから?
(結局、一番縛られてるのは俺なのかもな。)
――この村に。風習に。
終わったはずの伝承を未だに胸に抱えている。
守護者として生きてきた期間は短かったが、守護者である重圧はだれよりも感じていた。
なんていったって、珠洲の最初の守護者だったのだから。
豊玉姫が現れるまで、唯一の存在だと教え込まれてきたのだから。
唯一の存在だったから、だれがどんな態度を取ろうが珠洲を守ろうとした。
唯一の存在だったから、だれからもないがしろにされなかった。
唯一の存在だったから、命をなげうってでも助けようとする人がいた。
(犠牲にしていたのも、俺だ。)
執着も犠牲も、嫌悪しているものは全部自分にも当てはまっている。
だからこそ、この村が嫌いで、自分が嫌いで、時々どうしようもなくなるのだ。
そんなこと、だれにも言えないけれど。
「駄目だよ、重森君。」
呼びかけに意識を戻すと、穏やかな表情の亮司が晶を見つめていた。
「人と話している間に違う事を考えるのは感心しないな。
ほら、彼女も心配しているじゃないか。」
海を前に目を輝かせていたはずの真希が、顔色を窺うように晶を見つめていた。
もしかしたら、何度か呼びかけられていたのかもしれない。
「大丈夫?熱中症とかだったりしない?」
「今は冬だからその心配はないよ。そうだよね、重森君?」
「あ、はい。ちょっと、ぼーっとしてて。」
「なになに?海見てたそがれるにはまだ早いわよ。」
「うるさい。」
外野からの冷やかしにムッとしていると、亮司が強く背中を押した。
「念のため少し日陰で休んでくるといい。
蓮野さんも、立ちっぱなしだと疲れるだろう、一緒に休みなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
言葉巧みに二人きりにされてしまった。
言外に真希に弁解しろと言われた気もして、気が重くなりながらも晶は木陰に座り込んだ。
真希もよろよろと不安定な体勢でしゃがみ込む。
「座れよ。」
「ううん。服が汚れちゃうから。」
首に巻いていたマフラーを取って草むらに敷く。
「ほら、これならいいだろ。」
「そんな、人の服の上になんて……!」
「置く前に言えよ。もう汚れたからさっさと座れ。」
「あ……ごめんなさい。ありがとうございます、お借りします。」
頭を下げてから真希はマフラーの上に腰を下ろした。
小さく嘆息する様子からすると、疲れているという亮司の見立ては正しかったらしい。
晶の目にはただはしゃいでいるだけにしか見えなかったが。
「頭、まだぼんやりしてる?日差しが強いと大変だよね。」
「もう治った。」
「早いね!私なんてなるのは早いのに治るのが遅くて。」
最初から体調はおかしくなっていないけれど、話を合わせておいた方が無難だろう。
見当違いの心配をしているのを受け流して木に寄り掛かる。
浜辺では小太郎たちが走り回っていて、何の憂いもなく笑い転げていた。
よくあの中であんな陰鬱な妄想をしていられたものだと、数分前の自分に呆れる。
でも、そんなものなのだろう。
幸せな瞬間だからこそ、暗い影が闇を増すのだろう。
「何かあった?」
――しまった。またこいつの前で余計なことを考えてしまった。
村とまったく関係がない人間だと認識してしまったからか、どうにも感情を誤魔化せない。
能天気な笑顔が珠洲と似ているからかもしれない。
「別に。」
そろそろ不愛想で嫌な奴と認定されてもおかしくないくらい、そっけない態度ばかり取っている。
悪いのは全部自分なのに。
でも抱えている悩みを口に出せるわけがない。こんな重たい打ち明け話、親にだって話せない。
珠洲が知ってくれているというその事実だけが、胸を軽くしてくれているというのに。
「戻ったらどうだ。お前がいないと意味ないだろ、今日は。」
「うん、重森君と一緒に戻るね。だからもう少ししてから。」
自分よりもっと性格の悪い男相手でも、楽しそうにしている奴だった。
晶の態度など、まったく気にしていないようだ。
「疲れちゃった?
私は楽しかったけど、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃった。初めてだったから。」
「……そんなにいいものか、海。」
「初めてだもの。初めてはなんでも新鮮で、きれいだよ。」
子供のように率直な物言いで真希は笑った。
「私、今日見た海の色は絶対に忘れないもの。」
海の色――記憶の中のではいつも鈍色だが、目の前に広がっている海は濃紺で、海らしい色をしている。
空の色と相まって、なるほど、きれいだ。
「運がいいな。海がきれいな時に来られて。」
「そう?重森君がそう言うなら、今日はいつもよりもっときれいな日なんだね。」
海がきれいだと言うのを前提にされている気がするが、晶は蒸し返さずに立ち上がった。
つられて腰を上げた真希が、下に敷いていたマフラーを丁寧にはたき、晶に差し出した。
「ありがとね。」
――こいつは荒れ狂う海を知らない。
高波が押し寄せ、風が吹きすさび、人まで呑み込む海の恐ろしさなど、こいつは知らない。
この村で殺され続けてきた生贄のことなど――
(でも。)
それでいいのかもしれない。
だからこそ、彼女はこんなに屈託なく笑えているのだから。
「無理はするなよ。気分が悪くなったら、すぐに言え。」
「うん。」
頷いて真希は海を眺めた。
まっすぐに向けられた瞳には憂いがない。
(……こいつなら、どんな海でもきれいだって言いそうだな。)
漠然とそんなことを考える晶の顔は、珍しく穏やかだった。
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あとがき
書こうとしていた話と二行目で合わなくなり、そのまま突っ走った短編です。
本編不機嫌だったのはこんな理由があったから、ではなかったのですが。
この雰囲気で聞いた海の話を日常で普通に思い出せる真希は、鈍いですね。