戦後の成巽閣① | 市民が見つける金沢再発見

戦後の成巽閣①

【金沢・出羽町】
戦後の成巽閣は、前田家総務の広瀬豊作氏(鈴木貫太郎内閣大蔵大臣)では、「もう前田家ではもっていけないので、県か市に譲ってはどうか。」という思いだったそうですが、当時、成巽閣を管理していた吉竹寛一氏は、永年、成巽閣に関わってきた者として、どうしても他人に任せる気持ちになれなくて、しかし前田家からお金が出ない以上、独立採算でということで昭和23年(1948)から一般公開することになります。



(成巽閣玄関)


入場料は1人50円でしたが、戦後しばらくは、それほど人も来なくて、謡や俳句の会の会場や結婚式場として貸しています。その頃、私(筆者)も同じ町内で確か子供会の新年でお邪魔した記憶があります。吉竹寛一氏がお書きになったものによれば、昭和27・8年(1952・3)から収入が安定し、なんとかやっていけるようになったそうです。




(成巽閣)


(広瀬 豊作(ひろせ とよさく):大正・昭和期の大蔵官僚。鈴木貫太郎内閣大蔵大臣。金沢市出身。昭和16年(1941)から弁護士を開業するが、太平洋戦争が開戦すると陸軍の要請を受けて南方軍軍政顧問としてシンガポールに赴任。昭和20年(1945)大蔵大臣に就任して太平洋戦争末期の財政運営にあたります。太平洋戦争終結を受けて鈴木貫太郎内閣が退陣したのに伴い大蔵大臣を退いた後、公職追放となるものの、昭和23年(1948)に日野ヂーゼル工業会長に迎えられて昭和26年(1951)まで務めたほか、前田育徳会理事長を務めました。)


(広瀬豊作)


昭和24年(1949)前田家総務の広瀬豊作氏は香林坊仙宝閣(西洋料理店)に当時の知事、副知事、県議会議員、北国銀行の頭取などを集め「石川県は美術工芸が盛んだが美術館がない。前田が土地を半額で売るから、ひとつ美術館を建ててはどうか」と提案しました。これに対して、県も大乗り気で、翌年の予算に早速、計上することになり、内容は土地が1000坪、地価は北國銀行と日本勧業銀行の監査額の平均ということになります。




(旧石川県美術館・現工芸館)


ところが、県の庶務課のミスで必要な金額の半額しか予算が付かなかった。監査額では坪4,000円でその半額の2,000円、1,000坪ですから200万円が必要だったのに、庶務課では何を勘違いしたのか、100万円しか計上していなかったそうです。


(旧石川県美術館)

県に問いただしたところ「ミスで100万円しかない。いまさら追加予算も組めないし・・・」ということ、広瀬豊作氏からも「前田家としては2百万円を予定している。今さら100万円じゃ困る。」というし、思いあまり金沢財務局へ監査を頼んだところ、今度は坪3,000円ということで、その半分なら1,500円で、150万円になる。しかし県ではこれでも払えないというので、妥協案として、100万円を1,500円で割り、700坪になりました。


美術館に売却した土地は成巽閣の一部ですが、今の小立野小学校の敷地(元天徳院の前田家墓地)は、前田家の所有でしたが、財政難から市に寄付しています。)



(天徳院山門)


財政難を切り抜けるため前田家では、動産、証券類、不動産などをかなり処分しますが、こうした戦後の後始末も昭和30年(1955)ごろには、大体終わり、このころより世の中が落ち着き余裕もでてきて、成巽閣の入場者も増え、入場料収入で運営費をまかなえるようになり、戦後の苦しい時期に、手放さずに持ち応えてきた甲斐があったと前出の吉竹寛一氏が書かれています。


(つづく)


参考文献:「前田利為と尊経閣文庫図録」平成10年2月、石川県立美術館編集発行・「吉竹寛一餘香」平成6年6月13日 印刷ヨシダ印刷株式会社・「兼六園全史」兼六園全史編纂委員会石川県公園事務所、 兼六園観光協会、昭和51年12月発行