「ちょっとちょっと、聞いてないわよ!」あたしは玄関で待つ物理博士がメルセデスのキーをくるくる回転させているのに噛みつく。
「いいじゃん、せっかくのお天気なんだから」
「電車で行くって言ったでしょう」
「気が変わった」
あたしはふくれっ面をみせて、だけど仕方ないと諦めてランニングウェアをしまったリュックを背負う。ママが薫らすサンダルウッドの湯気が加湿器からわずかに立ちのぼっている。
今日は横田基地で開催されるハーフマラソンへ走りに行く。デブだった物理博士の肉体はあたしと走るようになって、のしかかって押しつぶされる乳房の痛みがずいぶん消えた。
本当は本を読んで時間を潰す電車より、個室であるクルマの方が博士と過ごすには素敵だと分かっている。
だけども、我が儘を受容しているのはお互いのゲームだ。あたしの方がよっぽど我が儘も気まぐれも勝っている。
「また、売ったのね」
「また、売った」博士は玄関前の車寄せに止めた新車のメルセデスのドアを自慢げに開けてみせる。
彼は、半導体のスペシャリストだ。タンパク質で電子を増幅させる発明が豊かで、思いついたアイディアをインテルなどの企業や研究機関に売って、巨額の資金を得てる。
ほとんどは信託に預けているけれど、たまに贅沢をする。特にクルマは半年で新しくする。
マセラティを一台はさんで、メルセデスがずっと続いていた。そして、あたしは、その数台の助手席を彩ってきた。
クルマは、青い三角に2と書かれた標識が飾られた道へ出る。
「あれって、おにぎりって言うんだって」あたしは読みかけの本の知識を言う。
「世の中には、すごい趣味の人もいるもんだ」
「階段国道というのもあるんだって」
「どこにあるんだい?」
「国道339号線、青森県。レース終わったら、この子で連れて行ってよ」
「それはちょっと」
「電車でもいいわ」
「それもちょっと」
あたしは研究発表が、来週だと知っていて言っている。それに一年のうち300日は研究で、その他の40日は事務仕事だとも知っている。
その合間にジムへ通うようになって、汗と一緒に筋肉も厚くなった。
あたしの送ったアディダスの腕時計が、無理なく手首を飾るようになった。
その手にそっと手のひらを添える。
一駅はさんだコインパーキングにクルマを止め、トランクから折りたたみ自転車を出してオリンピック道路を米軍横田基地へ向かう。ひどく寒い。
だから電車でとあたしは文句を言う。
ごめんねと博士は言葉を返すけど、誠意がない。
そういえば、誠意とはお金ですと、あたしのレクサスにバイクが突入したときに弁護士が言っていたのを思い出す。
恋人関係での誠意は、じゃぁ、何になるのだろうかと、ペダルを漕ぎながら博士の後ろで、ぷーっと、息を吐いてみせる。
トラックの音に遮られて聞こえはしない。
あの事故は、あたしが優先道路を走っているときに起きた。それまで、運転手としては優良だったから、事故で自分の免許証が汚れてしまうのじゃないかと、相手が怪我がないことを確認したあとに怯えた。
その時に、アメリカでの生活が長い博士が告訴社会の経験を引きずって、あたしに弁護士を紹介してきたのだった。時給5万円の弁護士。いつもはもっと難事件を担当する民事専門。それが、博士のナンパだった。
街の景色に英語が交じり始める。基地が近づいてきた事を表している。
フロストバイトと言うマラソン大会は、米軍が基地開放の一環として、34年間も対日融和策で行われている。
あたしは、このレースを2009年から走り始めて、博士は2014年がデビューだった。
このコースは、アップダウンがない。滑走路の周囲を走るので、およそフラット。
走りやすいから好きだった。それに広くのっぺりとした滑走路を前景にして、雪化粧をした富士山が素敵に見通せるのが美しく、このレースを毎年の楽しみにしていた。
「早いねっ」待ち合わせ場所の体育館へ行くと、事務所のランニングクラブの会長をしているN村さんが待っていた。
「クルマできましたから」
「駐めるところないだろう」
「ラストワンマイルは自転車です」あたしは震えた様子を全身で作って見せる。
この体育館は、基地の子供たちが使用する学校設備のひとつだった。暖房が効いていて温かいから待ち合わせになっている。
自転車を駐輪場へ止め、金属探知機のセキュリティチェックだとか、免許証での本人確認、それにカバンの中を検査されて、ようやく基地の中に入れる。
そして、ゼッケンとの引き替えはいつも混乱する。アメリカ的なアバウトさ。軍事的な整然さを期待しても無駄だ。
「ハンバーガー食べた?」
「まだです」
「レースまで2時間あるから行っておいでよ。荷物はみておくから」N村さんはおもんばかって言ってくれる。
去年、あたしはスマホを落とすというドジで、皆さんの時間を浪費させてしまった。
博士と一緒に食べようねと言っていた、フロストバイト名物を楽しむ時間もなくなった。
それを覚えていて下さったのだろう。
けっしておいしいとは言えないのだけど、ここの名物、アメリカンサイズのハンバーガーを買い求めにいく。
ああ、例年とおり。
体育館から数分歩いた先にある野営のハンバーガーショップには長蛇の列が出来ていた。
並んで、500円払ってハンバーガーを得るまでは30分の時間が経っていた。
※
小説です。久しぶりの一人称の私小説です。他愛もないのでスルーで捨て頂いた方がよいかと思います。
現実と違う波瀾万丈をどこでどこで仕込もうかと画策中。
「転」がちっとも思い浮かびません。
なので、だらだらと続くかも。
でもね、本当はね……。
3回まで読んで下さると、ははんとうなずいて下さるかも。
次回をお楽しみに。