風がさざめく音を奏でながら葉を揺らして夏へ波紋を動かしていくのが美しかった。全てが最上の暮れなずむしばらくを、お花畑に面したベンチであなたを待っている。
読んでいる本は三分の一進んで、一つ目のクライマックスに達していた。
ここには不似合いな安時計を覗き込んで、あたりを見渡してみる。
広い芝生に小型犬を連れて散歩する数人がおしゃべりをしていて、薬学部の学生が麻布十番のライブハウスで演奏するバンドが楽しみだと聞こえてくる。
傍らを最新のウェアに汗を滲ましたランナーが皇居の方へ消えていく。
あたしは地面へ力をこめてヒールを押しつける。ふわっとした感触が返ってくる。
はじめて来た芝公園のたぐり寄せられない情景に、本の世界ならあたしは何にでもなれると、次のページに指をかけた。
めくると、鬱蒼とした古墳から聞き慣れた足音が聞こえてきた。
足音が止まって道路の喧噪をなだめるようにレジ袋を唐突に押し出す。
「これ、うまそうだから買った」
「新発売?」あなたが唯一の誕生日にプレゼントしてくれた菖蒲色の帆布製ブックカバーをパタンとたたむ。
「限定販売なんだよ」
「珍しい具なのね」
被膜を破って海苔を巻いて、あなたに渡す。
あたしの海苔も歯先にふれ、しんなりとおにぎりのご飯は馴染んでいく。
「でもね、今はキャンペーンで百円だったんだぜ」
お得に買えるとあなたは必ず自慢する。
クリスマスに指輪を買ってくれたときも、値切ったんだぜと自慢したのには閉口したけど、ブックカバーよりはひどく高価だった。それに、今まで誰にも貰ったことがなかったから嬉しくて、御礼を何度も言った。
そのムーンストーンの指輪にプリンスホテルの天へ向かう水色が映りこむ。
スカートを払い、立ち上がる。
あたしはチケットを取り出して、開演時間をもう一度伝える。
いつも他のなにかに夢中になって遅れてしまう。今日は、そういうわけにはいかないと遅れんぼうのあなたは自嘲した。
公園の果てから増上寺に上がって行く。
粗い毛糸で編まれた真っ赤な帽子を被り、お地蔵さんがびっしりと並んでいる小道へ出る。無数の風車が5色の羽根を小早く回り続けさせている。
お腹に意識を移す。生まれ出られるもの、生まれ出られないもの。
気を付けてきたのに、どうしてなんだろう。できちゃった。
怒るかも知れないと不安を打ち消せず、どう言おうかと考え続けていた。
「こんなところに行って見たいな」ホテルに面したレストランへ視線を移す。
「ちょっと高そうだけど、そうだな、今日は冒険して食事しようか」
「いいの? きっと高いわ」
「いいじゃんたまには。今は言えないけど理由があるんだ。」
「隠し事?」
「内緒は取っておくもんだろう」
「いじわる」
どうせグルメ券でもせしめたんだろうと、組んだ腕をわずかに強くしてみる。あなたの反応はなくて足早に進む。
その内緒が涙を溢れさせることになるなんて予測もつかないでいた。
 
修学旅行の中学生がはしゃいだ歓声をあげる方向に、ライトアップが始まった東京タワーがあった。周囲のビルは曇ったガラス細工のように見える。
道路の車も歩道の人も、速度を落としてスカイツリーに負けない彩りを楽しむ。レオナルド・ダ・ビンチはこの時間帯にしか絵を描かなかったのよと、本で読んだ知識をあなたに言ってみたくなる。
だけど、あなたのしかめっ面に話しかけるのをあたしはためらった。
ふいにあなたは足をとめ、聞いたこともない冷たい声であたしを制して写真を撮ろうよと、スマホのレンズを腕いっぱい伸ばしてみる。
「開演までは、まだ、たっぷりあるものな」
あたしはアリスを案内する時計を持った白ウサギの気持ちはこんなのだったのだろうかと思い心配するのに、あなたはシャッターを続けて切る。
「急がないといけないわ」
あなたは何も答えない。今日でお別れなのかなとあたしは虚ろになる。
昨日まで、そんな雰囲気はなかったのが悔しい。
あなたはずんずん進んで、美しいところはどこかと増上寺の境内を彷徨ってみる。
特別に美しい場所には、高級なカメラを下げた女性が穏やかにラインを空へ伸ばす増上寺の屋根にレンズを向けていた。
プロの写真家なのかなと見やる。もし撮って貰ったら、付き合っていた記憶になるのかなと、あたしがちらちら見ていると視線があった。
「撮りましょうか?」写真家の女性は目くばせして近付いてきた。
少し驚いて願った通りになるなんてと躊躇したけれど、「お願いします」と微笑み返していた。
スマホを受け取った写真家は、「うーん、ここからだとアングルがいまひとつね」と、増上寺と東京タワーのあちらこちらにあたし達を誘導してスマホのシャッターを切ってくれた。
「恋人なの?」スマホを返して写真家は聞いた。
「まぁ」あなたは何気なく言う。
あたしは星がいくつか光った夕暮れを見上げる。
「あなたたちを写したのを記録したいから撮ってもいいかしら」写真家はカメラを指差した。
「ええ、かまいません」
「写真展に使うかも知れないけど」
「それは少し……」
「顔は写さないから、プライバシーは守ると約束するわ」と日本写真協会会員と印字された名刺を渡される。
あたし達は言われるままに背中を向けて立つ。なぜかあなたは頭を寄せてくる。時間を埋めたくて、東京タワーを仰望しながら世間話を写真家とはじめる。
結局、何枚もシャッターを切られて、見せてと告げると、カメラの液晶に映してくれる。
「きれい」あたしは息を飲む。見上げた星も東京タワーも写り込んでいた。
光と影も色も自在に扱えるのがプロなんだ。
「この1枚を写真展に使うわ」
シルエットになったあたし達は瑠璃色の空を背景にして素敵に収められていた。
あたしはカメラの液晶に表示されている時刻を見て、本当に急がないとと焦りを覚えた。
お礼を交わして、増上寺の敷地を足早に去る。
行き先は東京タワーの下にしつらえられたテント小屋だった。
 
パントマイムは路上で見るぐらいだった。あなたの旧友がたった二日間だけどテレビ局が用意したという舞台に上がる。
「信じられないかも知れないけど、ともかく面白いぜ」数週間前に、あなたはチケットをパタパタとあおいで言った。「友達割引2割引」
起こされた風は新緑の匂いを紛れさせてあたしを吹き抜けた。
東京タワーへ小走りで上がる。登り切った時には息が切れていた。
LEDに照らされた木製の台が視野へ入ってくる。眩しかった。
5分と残ってなかった。
「後ろしか席はないと思うよ」切符をもぎる女性が彼のあだ名を言ってくる。
雑誌のモデルのように背が高くて綺麗な人だった。
「織り込み済みさ」
女はあたしに視線を向けてきた。
悪意と敵意が剥き出しで嫌な感じだった。
「相変わらずの返事ね。で、これが噂の彼女なのね。あなたにしては可愛い女の子を引っかけたわね」
あたしはあなたに比べたら、どこにでもいる女の子でしかない。皮肉が透けてみえた。
「可愛いだろう。それに増して、何よりも息が合う。同じ空間で同じ空気を吸っていられるさ」
「『同じ空気』の逆の言葉は別れの理由で使ったわね」
「どうしたの?」あたしは手放した手のひらを探る。
「これの、モトカノなの」
もう一度、嫌な視線を向けて来る。
「こいつがここに来てるとは知らなかったんだ」あなたはいいわけがましく言う。
「そうかもね、そうじゃないかもね」女は卑屈な笑顔であたしの瞳を覗き込んだ。
焼けボックリに火が付いたの?
まじ、むかつく、あたしは心内で舌打ちする。
後ろに並んだビジネスマンが、催促するように踵を鳴らす。スーツは極上の生地で、違和感なく着こなした姿はエリートだと見て取れた。
彼女はお待たせですとその人に謝って、あたしたちの切符をもぎった。
白いビニール屋根のテント小屋へ踏み出すそうとすると、「つまらないものを安く買って喜んだり、お金のかからないところを待ち合わせ場所にしたりして、けっこうせこいでしょう。あなたの彼は」と彼女は言葉を吐く。「そんなところが好きな理由?」
叩こうかと手をあげるようとをすると、あなたは手首を包む。
「お前が俺を振ったんだ」
しばらく間が空く。
「あんたが振ったんでしょう」とスーツの人の切符をもぎる。
あたしはわずかに繋いだ彼の手を解こうとした。
最後かも知れないけど、今だけはあたしだけの彼でいて欲しかった。
気持ちが冷えるって言うのは、こういう時だとはじめてわかった。
 
 

 
 
鏑木夏凪