三島俊介のオフィシャルブログ(人・もの・こころを繋ぐ)
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昨日は阪神淡路の大震災が起こってから28年が過ぎた日という事だった。

私は一生忘れることができなくなったあの大震災の日の前日に城崎温泉で関西の大学の同期達仲間と、カニを食べる懇親会に東京から一人で参加予定だった

朝の新幹線で新大阪から向かう予定が、たまたま福知山線が故障して、京都から山陰線で回ってくれと言われて、結局また新大阪から京都に回って京都から城崎温泉に向かったが、城崎温泉駅には夜の8時を過ぎていたので、旅館ではもう食事も終わっており、残り物のカニなどを食べて、早々と温泉に入って寝たのでした。

翌日はとても快晴で気分よく福知山線で当初、神戸のホテルオークラでの宿泊予定だったが、何か手違いがあり? これもなぜか予定を変更して大阪梅田の「阪急インターナショナルホテル」に泊まることになった。

確か、部屋は28階だった。

そして、ここで朝の5時10分に、今まで経験もしたことのない激しい強い揺れを凄い揺れを感じて目が覚めてうろたえた。

いったいなにが起こっているのか狭い部屋でただウロウロするばかりだった。

ベッドは左右に揺れて、まるで浮遊しているような感じで慌てておさえていた。

なかなか揺れが止まらず、いつまでこの揺れが続くのだろうかと不安が増して狭い部屋ウロウロしていた。

テレビをつけると、まだ情報は「何か神戸方面で大きな地震が発生している」と現場中継が始まっていたところだった。

どのくらいの時間が経過したのか、その時間がどれぐらいだったのか、いまだに思い出さないが、とにかく治まったので、テレビを見ながらフロントからの連絡を待った。

しかし、6時、7時、8時になっても何も連絡がなく、ひたすら、テレビをみて部屋の冷蔵庫の水を飲んでお腹の空腹を我慢していた。

待ちに待ったフロントからの電話はすでに11時を回っていた。

いきなり大丈夫ですかを聞かれるまでもなく、エレベーターが止まっておりますので、お荷物を持って階段で降りてください。

というメッセージだったので、スグに準備をしておりることにした。

幸いだったのは元々一泊の予定だったので、肩掛けも比較的小さいモノだった。

とにかく何とか一階まで階段から降りてロビーを見たら大変な人で混乱していた。

私はここで初めて生きていたことの実感を感じることになって、震えが止まらなかった。

暫くして気が付いて、そうだ新幹線が止まっているのでは、と気づき東京に帰らなければと気づいた。

しかし先ず泊まり先を見つけないと気づき、昨夜までのホテルに伝えたら満員だった。すぐに隣のヒルトンに連絡したらかろうじて予約が取れた。

その後ほどなく満員になったと聞いた。

一瞬の機転が功を奏したのだった。

とりあえずこれでまず翌日は新幹線は動くだろうから、帰京は出来ると判断したが、これも正解だった。

こうして私は一先ず人生になかでまず経験できない大地震に遭遇した経験をしたのだった。

数千人の死者を起こした阪神・淡路大震災を私は経験したのだったのです。

自分が経験した人生のドラマの中でも最大の出来事でした、

今日まで健康で生きてこれたことをただ「運が良かった」だけでは済まない人生の見守られているすべてにただ感謝して生きて行きます。

 

先日、酷暑の午後、虎ノ門ヒルズをはるかに望む、街並みが一新した新橋5丁目にあるビルのオーナー三鬼忠さん(92歳)に会いに行きました。

いまから13年ほど前のことですが、親しくしている松江の友人から「三島さん、面白い本が出ました。茶道をやらないにも関わらず、お茶に興味を持っている貴方なら良く理解できる内容です。」といって一冊の書籍が送られてきました。
これが、知られざる粋人・金津滋の生涯「私が死ぬと茶は廃れる」(三鬼英介・講談社刊)でした。
かねてから噂に聞いていた、松江の金津滋に興味を持った無名の作家が、松江に長期滞在して、関係者に取材をしてまとめられた人物評伝です。
この作家が冒頭に書いた三鬼忠さんのご子息でした。
結論から申し上げると、三鬼英介さんはこの本をまとめられてからほどなく病に倒れられ亡くなっていました。

その後、私は不思議な御縁で、著者の父である三鬼忠さんと知り合う機会があり、時々新橋にある事務所に伺って息子英介さんの松江にまつわる話や、出雲人の率直な評価をお聞きしました。
その後ご本人が舌がんになられて、私との対話は筆談となりました。
また出版された「私が死ぬと茶は死ぬ」は絶版となりましたが、父である忠さんの執念は5年後に、幻冬舎から文庫版となりタイトルも「笊で水をくむ」茶人・金津滋の生涯~として発売されたのです。しかし、今ではこれも絶版となっており、一部の図書館で見ることができる程度になっています。

最近、しきりに思うことがあって本書を読み返してみましたが、第三者が客観的に松江のこと、出雲人のこと、お茶のことなど冷静で平易な文章で書かれており、とても斬新に感じられました。
文庫版のタイトルにつられた「笊で水をくむ」は文中の「金津滋は、なんの役にも立たない道楽者。
なにしろ『笊にて水をくむ如くなるが、“茶”』なのだから」から引用されています。
今の若い人たちはもう「金津滋」という人のことも知らないでしょう。
私は13年前にはなかった、文中に出てくる実在の方々とも、その後ご縁ができた方もあり、改めてきちんと取材をしてまとめられた丁寧な内容を納得しながら読み終えました。

読み終えて、8年ぶりにお会いした三鬼忠さんは、相変わらずお元気に事務所へ出勤しておられます。
お孫さん(英介さんのご子息)が25歳になられ、今年脱サラしてお友達と観光ビジネスを立ち上げると目を細めておられました。
私はなぜだかとても爽やかな気持ちでオフィスを後にしたのでした。


笊で水をくむ
85歳俳優坂本長利さんの一人芝居を観劇してきました。

先日このブログで紹介した俳優坂本長利さんについて、その後あちこちから問い合わせを頂きました。
私は7日の大雨の中を高円寺の劇場に、まずは映画「ハーメルン」を鑑賞してから、引き続き「越前竹人形」の語りと独演会を拝見しました。
そして翌日は満席の中で1166回目という「土佐源氏」を観劇しました。二つとも予想を遥かに超える迫力と演技力に、250人の満員の会場はしわぶき一つ聞こえない、静寂な中で60分が過ぎて行きました。

坂本さんは1929年の出雲市生まれで、商業高校2年の時に祖母と母と子供たちを残し、父上が40過ぎて出征されました。坂本さんは生活のために当時の国鉄の通信区に努められ、電柱(駅柱)の上で、冷たいペンチを握って日本海の荒波を見ながら修理をしておられたようです。
このような生活が3年過ぎたときに、父上が中国から復員してこられたので、23歳の後半にかねてからの夢だった役者になるべく上京されたのです。
当時の東京はまだ焼野原が多くあり、知人もなくひたすらさまよってばかりの不安な日常だったようです。

30歳を過ぎても、相変わらず無名で食えるような時代にはまだなかったようでした。
しかし次第に役者の夢が少しずつ、実現に近づいていく楽しみを持って生きておられたようです。

坂本さんの役者の原点は、出雲地方に昔から伝わる里神楽(出雲神楽)だったようでした。
今でも想像すると元気が出るようです。
私は坂本さんからはずいぶん年下になりますが、ここ10年前くらいから何故かこの出雲神楽が懐かしく、またとても恋しくなって思い出すことが多くなっていました。
子供のころ夏祭りの日に必ず地元の青年団の有志が、集まって組織された神楽団が朝まで踊って奉納するのです。
この日だけは母親が夜更けまで見ていることを許してくれました。
圧巻はクライマックスでスサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治する場面は、今でも私の脳裏に確かに刻み込まれているのです。
少し派手にパフォーマンスをメインとする石見神楽が全盛ですが、私はとても素朴な出雲神楽にまた出会いたいのです。

さて、終わって同行の友人は「今まで沢山芝居を見てきたけど、一番秀逸な俳優だったと感想を話しました。
何故かこれまで坂本さんの芝居を島根県では一度もオフアーが無かったようです。
私との出会いは偶然が重なってことから生まれたことでしたが、坂本さんのことを書いたチラシには、必ず島根県出雲市生まれと書いてありました。
いつも望郷の想いを心の奥に秘めておられる方なのでしょう。
もっと早くの出会いが有ったらと悔やまれもしますが、坂本さんから元気を出して生きるエネルギーを、一人でも多くの方に伝えられる機会を持てたらと痛感しながら帰途についたのでした。


坂本長利さん2