中学受験に失敗して地元の子たちと公立の中学校に通うことが決まってから、美和は部屋に閉じこもることが増えた。毎日、小学校には通っている。が、美和が受験に失敗したことに気を使って、友達が腫れ物を扱うように接することに悩んでいた。だが、不合格だったことに、美和よりもショックを受けた母には相談しづらく、反抗期のはじめにあって、父にはいっそう話しにくかった。

 美和は幼稚園のころから、なんでも一番だった。小学校に入ってからは学年で一番成績がよかった。世の中は美和にとって甘くて楽しい優しいところだった。。
 ところが中学を受験してみるとどうだろう。試験問題はちんぷんかんぷんで、美和は外国語を読んでいるような気がした。問題の意味が分からないので答えようがない。名前以外はほとんど白紙のまま、美和の回答用紙は回収されていった。後で聞いたところでは、その学校は公立校より一年先の勉強をしているそうだった。他の受験生は塾で勉強してきていたのだが、塾に通っていなかった美和と母は、その情報を知らなかった。

 学校が終わって、美和は誰にも話しかけられないうちに足早に教室を出た。友達が遠慮しながら「一緒に帰ろう」と声をかけてくるのが嫌だった。哀れまれるのは我慢ならなかった。かといって家に帰れば母が美和を泣きそうな顔で見つめるのだ。美和はそっと庭に入ると、自転車を引っ張りだして裏山へこいでいった。

 中学校への通学用にと早々と買った自転車は受験に失敗したために無用のものになった。公立の中学校はすぐ近くだし、美和はなんとなく自転車が好きではない。けれど庭で錆び付いていくのを見るのは腹が立つと思った。自分の過ちを見つめ続けることになる気がした。それならば乗り回してぼろぼろにしてやった方がずっとましだ。美和は全力で山道をかけ上った。

 三十分ほど上ったところに小さな公園がある。木が生い茂って昼間でも暗いので、近づかないようにと学校から禁止されている。遊具もただひとつ、ブランコがあるだけで面白くもないから子どもはやってこない。美和は一人きりになれた。
 自転車を乱暴に止めてブランコに座った。坂道を上ってきて息がきれた。しばらくして落ち着いた頃、白い雑種の犬が自転車の臭いを嗅いでいることに気づいた。赤い首輪をしているけれど、飼い主はいない。

「わん」

 美和は犬に向かって吠えてみた。振り返った犬の顔を見て、美和はあんぐりと口を開いた。犬はなんとも情けない顔をしていた。誰かに落書きされたらしい麿眉が額にちょんちょんと二つついている。口がみょうに小さくて困ったような笑い顔に見える。美和と犬はしばらく見つめあった。美和が動かないと分かると犬は寄ってきて美和の靴の臭いを嗅いだ。ちょっと足先を上げてみると犬はビクッとすくみあがって飛びのいた。それでも美和が気になるようで逃げていくこともなく、じっとしている。
 美和は背中のカバンから弁当箱をとりだすと、残していたご飯を手のひらに乗せて犬に差し出した。犬はすぐに寄ってきてためらいもせずにご飯を舐めとり飲み込んだ。手のひらにはもう何もないのに、いつまでもいつまでも舐め続けている犬の額に、人差し指を立ててみた。犬は気にならないようで手のひらを舐め続ける。

「だ・れ・に・か・か・れ・た・の・か・な?」

 歌うように言いながら犬の眉を右・左・右・左と突っついた。
犬は眉を寄せるような顔をした。ますます情けない顔になった。

「お前はバカだねえ。落書きされたことにも気づいてないんでしょ」

 犬は首をかしげて美和の顔を見上げている。

「自分がどれだけ情けない顔をしてるか知らないんでしょ。誰かにバカにされてることにも気付かないんでしょ」

 美和はため息をついた。

「私とおんなじ」

 地面に座り込んで犬の頭をなでてやる。犬は尻尾を振って喜んでいる。

「私にも尻尾があれば良かったのに。そうしたらみんな、私のことを分かってくれたのに」

 犬はいつまででも撫でられていたいようで、尻尾をブンブンと振っている。

「私にも麿眉は似合うんだろうな。ねえ、どう思う?」

 犬は美和を見上げて首をかしげる。

「そうだよね、そんなこと、あんたは知ったことじゃないわよね? それに私に眉を書いてくれるような人はいないもん。みんなの前では私、いつでも優等生でいなくちゃならないもん」

 美和は犬の眉間にビシッと指を突きさした。

「そうじゃなきゃ、周りのバカなやつらと一緒になっちゃうじゃない! 私はできる子なのに!」

 膝を抱えて泣き出した美和の周りを犬はうらろうろと嗅ぎまわった。時おり犬の濡れた鼻やひげが素肌に触れて、くすぐったかった。クーンクーンと犬は鼻声で鳴きだした。美和はチラリと目を上げて犬を見た。麿眉を寄せて耳を垂らした顔は、とんでもなく情けなかった。美和は思わず笑いだした。大口をあけて、バカみたいに笑った。
 涙を拭きながらなんとか笑いをおさめた。犬はまた尻尾を振りだした。

「情けないのも突き詰めたらおかしいね」

 美和は立ちあがり犬の頭をぐいぐいと撫でてやった。自転車を起こしてまたがると、犬がついてこようとした。

「だめだよ、ついてきちゃ。私はそんなに優しくないの。頭も良くないし、性格も悪いの。野良犬を飼ってやるような人間じゃないの」

 犬は不思議そうな顔をしていたが、ついていくのを諦めたようでその場に座り込んだ。

「バイバイ、麿眉」

 美和はゆっくりと自転車をこいで坂道を下っていった。