パリ在住だった同級生、幼馴染の敏子
このブログの当初から何度も敏子情報!と題し、記事を載せていました

パリから成田、雪のなか、飛ぶか飛ばないかわからないで向かった親戚のある山形
そして友人のいる盛岡、そしてやっと釜石へ

津波後、8日後釜石入り
自分の目で故郷を見て、いろいろな情報をくれた敏子
家族とともに仙寿院のお寺で過ごした...その後、ご主人もパリからここへ

家族のビジネスを立て直し、ここで雇用もできれば、釜石のためになる
それをしなくては! 本当に早い決断で釜石に、そして日々がんばっています


以下は昨日、毎日新聞の記者が書いた彼女の記事です

ぜひご覧いただけましたら幸いです


http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20120326k0000e040142000c

$~Kamaishi Support Project~

経営する工場で、加工前のイカを前に話し合う宮崎敏子さん、洋之さん夫妻
岩手県釜石市で2012年3月2日、安高撮影

永住も考えたパリを離れて移り住んだのは、故郷・岩手県釜石市の仮設住宅だった。東日本大震災の発生を異国の地で知り、すぐに帰国した宮崎敏子さん(45)。変わり果てた街並みを見て決意した。「生まれ育ったこの街を立て直したい」。実家は流されたが、両親が経営していた水産加工会社の工場は残った。会社を夫の洋之さん(42)とともに継ぎ、同業者とも協力しながら街全体を盛り上げようと努力している。【安高晋】

 敏子さんの実家は、釜石港の魚河岸の目の前にあった。幼かったころは活気にあふれ、朝はイカ釣り漁船の明かりで目が覚めた。波止場には多くの外国船が停泊。外国人が使う言葉や通貨に興味がわいた。海の向こうにはどんな世界が広がっているのか。「いつか海外で暮らしたい」。あこがれが芽生えた。

 高卒後に上京。デザインと英語を学び、米軍施設に配られる新聞の広告レイアウトをする仕事に就いた。同じアパートに、フランス料理店でソムリエをしていた北海道出身の洋之さんがいた。12年前に結婚。洋之さんは経営を学ぼうと、外食チェーン店を展開する会社に転職した。

 転機は3年前。洋之さんが、欧州での出店計画を任される。「骨をうずめるつもりで」と命じられ、夫婦で海を渡った。思わぬ形で実現した海外生活だったが、異なる文化や国民性に触れる日々は刺激的だった。アパート前のカフェに通ううち、フランス人の知り合いも増えた。

 そこへ襲った震災。混乱の中、飛行機や車を乗り継いで8日後にたどり着いた故郷は、泥とがれきまみれだった。両親は逃げて無事だったが、自宅は骨組みだけで、陸に揚がった大型船の船首が1メートル手前にまで迫っていた。ぼうぜんとした。

 この数年、生まれ育った街の衰退を寂しいとは感じてきたが「自分に何ができるのか」とあきらめていた。だが今、故郷そのものがなくなろうとしている。「戻って復興に力を尽くすことが、この街で育った私の役目ではないか」。帰国を決意した。遅れて帰国した洋之さんも、惨状を目の当たりにして会社を辞める。7月から夫婦での仮設住宅暮らしが始まった。

 敏子さんの両親から工場を引き継いで新しい会社「三陸いりや水産」を作り、洋之さんが社長に就いた。水産業の経験はない。義父に漁師らを紹介してもらいながら、手探りで働き始めた。

 釜石が一丸となって復興できれば。そんな思いから、同業者と協力することも考えている。輸送トラックや加工機械を共有できれば費用が浮く。話し合いを進めている最中だ。

 地元産品を使った商品の開発も進む。ワイナリーからぶどうのしぼりかすを無料で、漁師から市場に出せなかった魚を安価で譲ってもらい、ブイヤベースの缶詰として商品化。近く販売を始める予定だ。洋之さんは「本場のマルセイユで食べたものよりおいしい」と太鼓判を押す。

 収入は激減した。パリのアパートとは広さも違う。それでも「住めば都」と苦にはしていない。「魚河岸を魚屋や食堂が並ぶマルシェ(市場)のようにできればいいね」。フランス仕込みのアイデアで、釜石を元気づけようと飛び回る。