昨年の学会でも大変お世話になりました、新潟片 貝 医 院 の根本聡子先生に2つ目の記事を頂きました。ありがとうございます!!

(使用している写真は片貝医院HP、某巨大検索サイト様より引用させていただいております。)

 
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夏期セミナーの皆さま、こんにちは!

昨年、「ウチの先生 」というタイトルで、自分の今やっている医療スタイルについて、自己分析しつつ書かせていただきました。語ること自体がとても楽しかったです。自分が今ここでこうして楽しく暮らしていることがとても貴重な事であって、人生のひょんな巡り合わせをありがたく感じているのだということを、自分で確認する良い機会でした。


 前回で「家庭医療」について皆さんに伝えたいことはかなり書ききれたので、今回ちょっとスタンスを変えてみました。これから白衣を着こなそうという人に「白衣を捨てよ」はちょっと過激かも知れませんね。
 世界には白衣を羽織っていては見えてこない部分がたくさんあり、良い医師を志すには白衣を脱いだ世界で充分に体験を積むのがじわっと効いてくる、とでも申しましょうか。


 私の場合そもそもの原点は、
臓器別や専門科志向の行き過ぎで1人の人が抱える健康問題を断片的にしか捉えられなくなってしまう医師にはなりたくない、医療を提供するに当たってはその人の心理面や社会背景や家庭環境などを考慮して、全体的なその人医療を展開できる医師になりたい、
ということにありました。

 どこの家庭でも、誰かが中心になって家族の健康に気を配り、家族が病気になれば看病する事が多いのですが(いわゆる「母親役」ですね)、その立場の人達の苦労を理解し、悩みを共有し、助言できること。それが私の考えるスタイルで、「家庭医療」であり「プライマリ・ケア」であり「地域医療」なる言葉はあとからくっついてきたわけです。


 


 医学部に入った頃からこの原点あたりはほぼ固まっていましたが、当然のことながら漠然と想像するしかありませんでした。初期研修や後期研修の頃も、開業したいと思ってみても実現する宛がなかったので、結局自分はどこかの中小病院に勤務する事になるのかな、と思っていました。
 東京を離れる事になるとも当時はまったく考えていませんでしたね。それが実際に今の地域に飛び込んで住み着いたあと、どんどんとイメージが形になって現実と融合していった。今さらこの地を離れて診療することは考えられないくらいです。白衣を着ても脱いでも、本当にそれはそれは奥行きの深い体験をさせていただいてています。ハッピーな場面に出会えば嬉しいし、八方塞がりな境遇を見れば泥沼に足を取られるし、深い悲しみに出会えば何年経っても思い出しては胸がつまります。

 

喜びや苦しみってなんだろう、年老いるってなんだろう、生きるって何だ、死ぬって何だ・・・診療していてもそんな思いが去来して、それが自分や家族の生活に跳ね返ってきて、さらにそこから再び診療に還っていく・・・螺旋階段を登っていくようです。医師の立場と人間としての立場が幾重にも絡み、患者さんの人生と向き合い互いの人生が深まるのです。

 
 

 全国には魅力的な場所がたくさんあると思いますが実のところあまり知りません。引っ越しは何度もしましたが、そこから学校なり職場なりに通うだけで、どこに住んでも大して変わりありませんでした。大抵は都会での独身生活でしたからね、住居は寝泊まりする場所に過ぎなかった。
 
 それがここに住んでがらっと変わってしまいました。私の住んでいる地域がもしかしたら特殊かも知れないけれど、ここに住めて仕事ができて良かった、私は幸せだ、とつくづく思います。たまたまの巡り合わせの結果がうまくいって幸運だった。本当はあちこち行って体験して、これだ、と思う場所に身を置いてみるのが良いのではないかと思います。


価値観やものの見方は1人1人違います。


都会の真ん中の病院だろうと地域の診療所だろうと、要は自分が幸せだなと思える場所に身を落ち着けることができるかどうかということなんだと思います。



 皆さんもこれから自分の生きる場所を探していくのでしょう。そんな皆さんに、都会にしか住んだことのない人や総合病院しか知らない人に、「町に出る」ことの素晴らしさを是非伝えてあげたい(余計なお世話?)。
 自分達だけがこんなに面白く充実した生活を独占している事は罪だ、と本気で思っている私は、ことあるごとに今の私の生活を語らせてもらっています。


 


 ・・・ということで、今回は私の愛する「片貝町」との運命的な出会いとその魅力について語ってみようと思います。それは私達の医師としての仕事と切り離しては語れないものですので。


 さて、梅雨もまっただ中ですが、毎年この時期になると町中が穏やかな活気に満ちてきます。例年9月9日・10日の両日に行われる片貝まつりの準備が本格化する時期だからです。

片貝町の人達にとって「一年の計」は元旦ではなく「片貝まつり」にあります。




 外来では8月もお盆を過ぎると片貝まつりモードに入っている人達があふれます(自分たちもそうか?)。”過労”と顔に書いてある見るからにやつれた人が「先生、胃が痛くてどうにもならんけど、今年は還暦なんだ、何とか元気にしてくれねっか」と言ってくれば「任せとけ」と受けて立つし、自分の看取った人の家族が受診して「○○の花火を○日に揚げます」と伝えられ、「ああ、もう3年になりますか」とほろっとします。
診療時間の半分がまつりの話で終わってしまいます。入院中の方も施設の方も、まつり外泊で自宅に帰って来ることが多いです。寝たきりの人も、往来の音でまつりを味わうために帰ってくる。小さいときから変わらない沸き立つ様な高揚感を思い出すのです。



 ところで皆さんは「片貝まつり」ってご存じでしたか?世界最大の四尺玉を始めとする大玉の花火がボンボン揚がることで国内でも有名なんですが、けっして花火大会とは呼びません。


 住民にとって花火はその人が生きた証みたいなもの、「人生の一里塚」なんですが、それをいわゆる「鎮守の神様」に日々のご加護の感謝を込めて年に1回花火として奉納する、それが片貝まつりなのです・・・って普通、聞いても意味わかりませんよね?

 わからない方は「片貝まつり」でググってみてください 。wikipediaをはじめ数百件ヒットします。花火の動画ならYouTubeやAmebaVision「片貝まつり」「片貝花火」で見てください。その盛り上がりっぷりを理解していただけるかと思います。


 


 詳細は他に譲るとして、「片貝まつり」の特徴の1つが、町民が揚げる花火という部分です。例えばこんな口上を添えた花火が奉納されます。



    祝、長男誕生 ー○○よ、大きく育てー 
      何のなにがし奉納 尺





 ー天国に行ったおじいちゃん、
  空からの花火はよく見えますか?


  これからも家族を見守っていてね!ー


  ○野○夫 一周忌追善供養   
   何のなにがし一同奉納 尺玉2段打



 これらの文面が1つ1つ、「花火番付」という新聞紙大の16ページくらいのパンフレット?に載せられて9月初めには各戸に届けられます。
 これがまた素晴らしいものなんです。誰それが結婚したの赤ん坊が産まれたの米寿で目出度いの、といった個人的な出来事がすべて一冊のパンフレットに載っている訳で、読めば町に住んでいる人達の近況が一覧できるという寸法です。地上に残された人が様々な思いを込めて、天に昇ったかけがえのない人にメッセージを届ける花火。   あるいは、神様や世の中の人達に今自分が生きていることを宣言する花火。それが片貝まつりなのです。




 個人で奉納する花火の他に、同級会(地元片貝中学校を卒業する年に学年ごとに組織するもの、「○○会」とか名前を付ける)の花火というのがあります。20才の成人を皮切りに70才になるまで、厄年などの節目毎に大がかりなスターマイン花火を奉納します(こっちの方がむしろ有名かな?)。


 

これには当日だけではなく、1年くらいかけて折々に集まっては玉送りの屋台を製作したり、揃いの半纏を作ったり、花火の規模や口上を考えたりするんですね。みんな幼なじみの同級生ですから、クン、ちゃんと呼び合って飲み食いしながらワイワイガヤガヤ、準備期間中だけでも楽しい時間を過ごします。




  

 そしていよいよまつり当日。花火を奉納する同級会メンバーは朝から神社に行き神主さんからお祓いを受け、10時くらいから出発式を行い、夜の打ち揚げ時間まで途中休憩を入れながら10時間近くも町中を屋台を引き木遣りを歌いながら練り歩きます。

道中そこかしこで町の人の祝福をうけ、振る舞い酒をしながら延々10km近くの道のりを歩き、桟敷のお立ち台で花火を見届ける・・・。ここに来たばかりの時、この町のご老人衆が非常に元気で驚いたものでした。それもそのはず、この町の人達は60才の還暦のまつりを務め通すのが人生の目標の1つになっていて、若いときから健康に気を配り運動してからだを鍛えておくのだそうです。


 それでも年が進むにつれ、亡くなって欠けるメンバーが出てきます。その人達の思い出話を語りあいながら準備は進み、当日は自分たちの花火の冒頭に、必ず亡くなった人の数だけ小ぶりの花のような形の花火玉を揚げます。これを同級会のみんなで見守り、そして亡くなった人の家族もどこかでこれを見守る。

亡くなった人達が心の中に生きているという感触を、関わりを持ったすべての人達が共有する瞬間です。
 
そして、一連の花火を揚げ終えた時、生きてその場を迎えられた人達は、ここまで無事で人生を歩んでこられた事を神様に感謝する、自然にそんな敬虔な気持ちが湧いてくるのです。



 片貝に住むまでは、「各々の思いを花火に託して空に揚げるなんて素敵だな」 くらいに思っていたわけですが、住み着いて開業してみると立場が変わってきます。
 
なにしろ自分の看取った患者さんの「3回忌」とか、まだ人生これからという年齢で亡くなった方の家族が載せた口上などが目に飛びこんでくるわけで、涙があふれて読み進めないこともあります。



誰かが病気になり亡くなっても、看取りで終わりにはならない。

残った家族と地域でずっと一緒に暮らしていくのです。


 


 主人は独身の時から10年以上も片貝まつりに通い詰め、私がそこに合流して、とうとう片貝に住み着いてしまって8年。私達はまだ仲間入りしたばかりですが、現在は町の一員として花火を見上げていると、ああここまで生きてきたんだな、そんな感動が胸一杯に広がり、誇らしい気持ちになれるのです・・・。



 そんなわけで、片貝まつりが象徴する様に、この町の人達は町に誇りを持っている。伝統とか郷土愛とかが小さい頃から自然に育まれている。そのせいか単なる住民性かは不明ですが、普段から何をするにも情熱的でしらけたところがありません。
 
健康教室とかスポーツ大会とか、企画があれば、とりあえずやってみようとばかりに人が集まって盛り上がります。夜ちょっと出かけると、そこら中で人が歩いている。健康のためにウォーキングをしているんですね。
 
ほんと、中途半端じゃない集まりです。こういう町で医者をやるというのは、医師として医院にいる部分よりも住民として過ごしている側面の方がよっぽど効いてきます。

 
 

 
 

 大人達は普段から子ども達と正面から向き合うし、スポーツ大会前には練習に汗を流し、飲みに行っては誰彼なく合流して熱くなったり笑ったり。そういう暮らしの中でのうち解けた人間関係で社会が裏打ちされていて、それを土台に様々な職業の人がいて、それぞれの得意分野を発揮して仕事していて、困ったときには助け合う。
 医師はその職業のひとつに過ぎなくて、誰かが病気で困っていれば力を貸す、そんな感覚です。

 そして、この町の人達の熱い思いを人生を、陰で支えるのが私達の役目
 レースのピットスタッフみたいなもの。
 

医師としての腕を磨く努力は、より良く人の役に立ちたいからで自分の優越性を高めることが目的ではない。仕事も人生も、人との関わり合いの中での合作なんだ、という気がしています。



 さて今回の「」の話、いかがでしたか?いわゆる「過疎地の田舎」に住んで診療所をしているというと、不便で大変そう、というイメージを持たれがちかと思いますが、イメージ変わりましたか?
 東京に住んでいる頃には自分だって想像もしてなかったですけどね。もう充分に自分は社会体験している、という方も少なくないでしょうが、「町」というのは様々な背景の人々が生活している場所のこと。
 おおよそ「家庭医療」の研修や見学を受け入れている診療所では先輩医師達は伝えたいことをたくさん抱えて待っています。

近いうちに是非一度「町」体験してみてくださいね。


<おまけ>

花火を動画で見る


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根本聡子先生のご経歴

昭和大学卒業、
 
国立東京第二病院(現東京医療センター)内科系総合ローテイト研修2年
総合診療科レジデント3年 合計5年間の研修
 
関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)ペインクリニック科に1年、
そして東京慈恵医大青戸病院内科3年目在籍中に出産のため一旦現場を離れた間に、主人の出張を機に訪れた小千谷の地で開業しました
(→片貝医院)