沼津ゆかりの『おんな城主直虎』第15回、第16回関連文書 紹介(修正版) | == 肖蟲軒雑記 ==

== 肖蟲軒雑記 ==

ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

誤字脱字や書き足りないこと(特に友野座文書の出典について)を見つけましたので、その文書の意訳を全部書き加えて、新たにアップし直します。
 

【寿桂尼の文書】

 1月にぷらタコりで歩いた東熊堂の少し西一帯は沢田と呼ばれている。ここに後藤屋敷と呼ばれる中世の館跡(土塁)がある。今でも後藤さんがお住まいであり、古文書が残っている。その中の一つに享禄二年(1529)に当主後藤善衛門に、寿桂尼が発給した印判状(花押の代わりに判を押した文書:寿桂尼「歸」の印を用いていた)がある。

 

 

 

当時の女性ならではの仮名中心の文書なので、以下見やすく書き直すと

 

駿河の国沢田の郷の内西分後藤善衛門相抱ゆる田畠屋敷の事、

右北川殿時検地あって御定めのことく、百六十三貫六百文年貢以下相違なく納所せしめ、百姓職として、相抱へへしし、もし横合より彼の抱への分望む族(やから)有りと言ふとも、相違あるましきものなり、仍如件(よってくだんのごとし)

 

(大体の意味)

駿河国沢田郷の西を治める後藤善衛門の所有する田畑屋敷について

これは、北川殿の時に行われた検地で決まったとおり、163600文の年貢を今後間違いなく納めることとするが、百姓職も共に許す。もし誰か別の者が後藤の持っているものを自分の物と主張したとしても、後藤の所有であることに間違いないことを保証する。以上。

 

 北川殿とは北条早雲の名で知られている伊勢盛時の姉、つまり寿桂尼が嫁いだ今川氏親の生みの母のことである。この享禄二年という年は氏親が死去し、幼い長男氏輝の後見を寿桂尼がしていた時である。また百姓職というのは、年貢を納める義務に付随してある割合で取り分を得ることができる権利であり、地方譲与税のようなものと言える。

 

 寿桂尼の発給した文書はこのあとしばらく見ることができなくなる(単に残っていないというだけかもしれない)が、義元死後に発給されたものが再びみつかる。下は、深海水族館や海鮮料理で有名な沼津港近くにある妙覚寺に残る、永禄六年(1563)に寿桂尼によって発給された文書である。ドラマ15回で寿桂尼(浅丘ルリ子)が主人公直虎(柴咲コウ)と対面するよりも少し前の文書ということになるのだろうか。

 

この文書もタイトル(?)のところに「歸」の朱印が捺されている。

 

 

 

図中□の部分は、汚れにより判読不可能な部分だが、大意は

一 妙海寺の相続や物件、住み込みの僧や労働者について妙覚寺は今まで通りに扱うこと、寺にかかる諸負担は以前の文書に従うこと。

一 寺の宝物などは鎌倉の法圓寺に預けてある将軍家からの御内書と天澤寺殿(義元の戒名)の出された命令書を見て、その指示に従って調べること。

一 祈願などのため万部の経典を今まで通り怠けずに読むこと。もし、両方の寺(妙海寺と妙覚寺)でサボる不届きな僧がいたら、報告せよ。罰を与える。

 

という感じだろう。説明によれば、戦火などで相続が困難になった妙海寺の管理を妙覚寺に一時的に預けることになった際に、その取り決めを命じたもののようである。

 

 全体を見て気がつくのは、享禄二年の文書と比較して漢字が多くなっていることである。義元氏真の印判状が漢文調(仮名がほとんどない)のに対して、かな文字がかなり使われているので、 彼女の手によるものと考えることができそうだ。だがその一方、 実物(の写真)でいくつかの字の筆跡(「の」とか「月」とかわかりやすいもの)を比較するとシロート眼にも明らかな違いがある。30年以上経てば筆跡も違ってくるのかもしれないが、右筆(たとえば『おんな城主直虎』で側近くに控えている尼僧)が書いたものに彼女が印を捺しただけかもしれない。ドラマでも描かれているように、 高齢であるにも関わらず今川の屋台骨を支えているのだから、文書量がハンパなく一人では手が回らなかったということかもしれないし、 時代が下るにつれて彼女を支える官僚システムが整備されたとも考えることができる。

 

 

【綿の流通】

 さて、昨日放送された16回では、商品作物である棉花の栽培に関わる顛末が描かれていた。戦国期、合戦に伴い行われた人身売買が(現代の視点を入れずに)当然の如く描かれている非常に面白い内容であった。この流通について以下のような文書がある。天文二十二年(1553)に義元が、駿府在住の豪商友野二郎兵衛に発給した安堵状である。

 

 

 

 内容的には友野二郎兵衛のもつ様々な権利を保障するものだが、そのうちの4番目(下線部)に注目しよう。

 

(大意…多分合っていると思う…)

     友野商業連合会のこと

一 友野二郎兵衛を今まで通り駿府の商業連合会の会頭と認める。

一 友野は種々の義務を免除する。

一 友野連合会に属する商人は、他の連合会で商売をしても、公共輸送についての既得権は友野連合会に準じて守られるものとする。

一 江尻(静岡市清水区)、岡宮(東熊堂東一帯)、原(JR東海道線原駅近く)、沼津(沼津駅東南一帯の狩野川河口あたりもしくは黄瀬川近くか?)の木綿役の徴収は以前通り取って構わない。ただし、今年からは馬番の経費として木綿二十五端(反?)を納めること。

一 根回しや相談もなく友野連合会の権利があるところで、他の連合会の者が新たに商売を始めるのは許さない。

 

前記項目は、以前に交付した安堵状が昨年127日に燃えてしまった事に対して、訴訟が済むまでの間、その代替として発行するものである。全ての項目について間違いなく守るようにせよ。

  天文22214

  友野二郎兵衛尉どの

 

 駿府商人ファーストのように友野二郎兵衛と彼の座(連合会)の既得権を保証する書類と言える。そして第四項で挙げられた、4箇所の市では友野二郎兵衛は中間マージン(木綿役)を徴収することができるほどの規模で木綿の取引が行われていたことが考えられる。 江尻は駿府近くの港として栄えたところなので、西国に出荷するような取引がさかんだったと思われる。その一方、沼津一帯のかなり近接した三箇所で別々に市が立つようなことがあったというのはなかなか面白い。

 ドラマの中では瀬戸方久(ムロツヨシ)が「これから売れ筋の作物」という意味のことを言っていた木綿だが、少なくとも上記文書からわかるのはそれより10年以上前に、駿河では取引が始まっていたということである。 ただ、この文書はオリジナルが残っているわけではなく、江戸後期に成立した『駿河志料』に引用されているものであるため、内容の真偽については若干割り引いて考えなくてはならないかもしれない。

 

 そういえば、昨年の大河ドラマ『真田丸』の第3回、堀田作兵衛(藤本隆宏)の家に匿われた、凍える小山田茂誠(高木渉)に「綿入れ」を用意しようと(黒木華)が言う場面があった。武田家滅亡直後の天正十年(1582)のことである。2030年の時とともに、 信濃にも綿製品が普及しだしたということが描かれている、と見ることもできそうだ。


【参考文献】

沼津市史史料編 古代・中世 沼津市(1996)