木の仏さま(4) | == 肖蟲軒雑記 ==

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ツボに籠もっているタコが、「知っていても知らなくてもどっちでも良いけど、どちからというと知っていてもしょうもないこと」を書き散らすブログです

【木の仏さまのない時代】




 教科書では「大化の改新」として習う(習った?)乙巳の変(クーデター)を過ぎた辺りが、美術史的には飛鳥時代の前期と後期の区分点であろう。この時代が一般に白鳳時代と呼ばれることは、前の記事 で書いた。

 これより少し先立つが、その立役者のひとりである中大兄皇子の父、舒明帝の勅願により百済大寺(現在、吉備池廃寺という遺跡)が造営されたのを皮切りに、仏教は正式に天皇家によって受容され、多くの官寺が造営されるようになった。仏教の活動は国の事業(=公共事業)になったのである。また、有力氏族の氏寺(藤原氏で言えば、厩坂寺→山階寺→現在の興福寺)も競って建立されるようになった。このことは、仏像もまた多数の造像が要求されたということを意味する。

 

 この時代に忘れてはならないのは、中国の統一王朝、隋や唐の誕生によるユーラシア世界の激動である。乙巳の変じたい、朝鮮三国に及んだ唐の影響の延長線上にあるようだ(注1)。そういった情勢下で、外交上の必要に迫られたこともあり、たびたび遣唐使が送られた。その結果、様々な先端技術が本邦にもたらされることになる。仏像造像についても例外ではなかった。

 

(注1)飛鳥の木簡 —古代史の新たな解明 (市 大樹著:中公新書2168)のまえがきより

 

この本によれば、1960年代に出土した木簡の研究から、後の大宝律令(大宝元年:701)まで待たなければ国の制度制定は定まらなかったとして評価の低かった「大化の改新」(ここで指すものは乙巳の変以降行われた公地公民制などと習う税制制定に関わること)も、新たに出土した木簡史料を読み解くと、「結構いい線いっていたかも」と再評価されているらしい。いずれにしても、考古史料を調べる考古学と文献史料を読み解く歴史学は、刑事ドラマでいえば、科捜研と捜査課のように車の両輪の如く補い合ってこそ、新しい歴史像が出てくることだと期待したい。

 

【捻塑像の登場】



 立体を表現する美術の技法を彫塑という。そのうち、彫刻素材となる塊から求める形を(大抵は削って)取り出す引き算の方法のことである。これに対して、芯になるものに柔らかいものを付け加えて求める形を作る足し算の方法を捻塑と呼ぶ。一般には簡単のため、捻塑の作品も彫刻といってしまうが、正式には別ものとして分類しなければならない。



 自分自身の小学校の図画工作や中学の美術の時間の話で恐縮だが、彫刻は間違えて削りすぎると取り返しが効かないので好きではなかった(刃物である彫刻刀の扱いが恐かったというのもあるが…)。これに対して捻塑(といっても小学校では粘土細工)は、乾くまでの時間との勝負などがあるものの、失敗しても修正が効くということから、(決して得意ではなかったが)嫌いではなかった。



 こんな矮小な例とは比べるべくもないが、仏像需要が大きくなった当時の造像事情にも、この彫刻と捻塑の長所・短所が反映されたのではないだろうか。唐から最先端の技術としてもたらされたのは、塑造と乾漆造(正確には脱活乾漆造)である。塑造は乱暴に言えば粘土細工。脱活乾漆造は漆と麻布で固めた張りボテに、上から木屎漆(こくそうるし:漆に細かい木屑をペースト状になるように混ぜたデコレーション用の素材)でモデリングしたものである。どちらも足し算の技法だ。

 

 これらの詳しい技法について興味のある方は、奈良大学博物館のページからダウンロードできる pdfファイルの説明が分かり易いのではないだろうか。

 

 技術とともにもたらされたのは、写実を重要視する像の表現技法であった。例えば、敦煌莫高窟の第 45 窟の像群 のように、リアリティ豊かな像を造る技能を持つ工人たちも来たのではないだろうか。このような像の場合、最後の仕上げは熟練した仏師(仏工)が必要だろうが、粗い肉付けなどは、習熟の度合いが低くても可能である。やり直しも利く。たくさんの仏像を造ることが要求される現場では、こういった利点が生かされ、仏像の造像は分業されることで、大量生産が可能になったということだろう。

 そして、一木造の木彫像は制作に際して分業化が困難であることから徐々に敬遠されたのか、平城京遷都のころにはほとんど造られなくなった。


 

 【逸品のご紹介】


 奈良市の南西、葛城山のふもとにある当麻寺には両者(塑像と乾漆像)がどちらも最古の遺品が現存している。写真では頭部のみなのが残念だが、塑造の丈六弥勒如来像 は、どことなく興福寺仏頭と相通じる顔立ちである。この顔の表現を見る限り、技法の方が先に受け入れられたのではないかと思う。あくまでも現存する像からの推測に過ぎないが…

 一方、髭の生えた武人の像である四天王像 (鎌倉期の補作、多聞天以外)は乾漆造である(注2。後者はとくに、飛鳥時代前期の仏像と比較すると写実的になってきたともいえそうだ。

 

 小林惠子によれば、この広目天像は天武帝のイメージとのことだ。彼女の古代史は、聖徳太子が突厥の可汗だったりする所謂トンデモ説なのだが、日本の歴史を中国・朝鮮三国だけでなく、シルクロード諸国の歴史と並べて相対的に論じる点だけは、(結論はともかく)少なくとも評価したい。

 そういえば、確かに日本書紀にある、

天渟中原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐之姿、及壯雄拔神武(以下略)

あめのぬなはらおきのまひとすめらみこと(天武帝)は、あめのみことひらかすわけのすめらみこと(天智帝)の同母弟である。若いときには、おおあまのみこ(大海人皇子)といった。生まれつき立派な体格で、成長するにつれて威厳があって雄々しくたくましかった


は、このような武人の姿を描いているとも言えそうだ。

 

(注2)この像はとても好きな像の一つだ。特に足元の邪鬼が気に入っている。中学生のころ、この当麻寺広目天に踏まれている邪鬼が表紙を飾る『邪鬼の性』(淡交新社、文:水尾比呂志、写真:井上博道)という写真集に町の図書館で出会った。邪鬼ばかりを取り上げたとてもコアな仏像本であったが、水尾による邪鬼造形の変遷についての考察に魅せられ、父にねだって、夏休みの家族旅行として連れて行ってもらったのが思い出される。私は変な中学生だったのだ。2年ほど前に、Amazonを何気なく検索したら、古書としてヒットしたので思わず買ってしまったのが写真のものである。



邪鬼の性

 余談ついでに、この本には面白いオマケがついていた。出版社が読者の意見を求めるアンケート用の葉書が挟まっていたのである。これを手に取り、歴史を感じた。木簡を発掘した気分であった。

① 上の方、見慣れた郵便番号記入枠がない。調べたところ、当時の郵政省(現在の総務省)が導入して実施が始まったのが昭和43年(1968)7月だった。初版本(昭和42年発行)についていたこの葉書には枠がないのも無理からぬことである。そういえば、当時の郵便番号は□□□ー□□の5桁表示であった。視聴覚教室で自動仕分け機の映像を見て、技術の進歩を教わったのが思い出される。


② 最下段に書いてある郵便料金がなんと7円。現在の52円の1/7以下の料金だった。これも調べてみたら、昭和41年(1966)に葉書5円→7円、封書10円→15円の値上げが15年ぶりに行われたようだ。葉書に限って言えば、その後7円→10円→20円→30円→41円→50円→52円という変遷である。ちなみに初めて3%の消費税が導入された平成元年(1989)に41円になっている。


読者はがき



話しをもとに戻そう。

 父舒明天皇の建立した百済大寺に、天智帝(=中大兄皇子)も勅願を発し、本尊が造像された。乾漆造だと伝えられている。百済大寺は、その後藤原京では大官大寺となり、平城遷都に伴い大安寺と名前を変えて東の京に移った。往時は大きな寺院であり、歴史においても重要な場面で登場したりしたのだが、現在は、田園と住宅地に挟まれたほそぼそとした寺院である。もちろん天智帝発願の像も残念ながら現存しない。いつの時代に失われたのかも定かでないようだ。


 【天平の仏たち】

 

 もう少し時代を下ってみよう。平城京遷都以降になると、藤原氏の氏寺である興福寺が造られる。年号も天平となった頃、現在はなくなっている西金堂には、数多くの仏像が林立するように安置されていた。その様子の一端が、
現在京都国立博物館に収蔵されている「興福寺曼荼羅」 からみてとることができる。狭い堂内にたくさんの像を運び込み管理する上で、張りボテなので軽い脱活乾漆像はとてもよかったのではないだろうか。

 現存する遺品としては、興福寺国宝館に収蔵されている阿修羅とステキな仲間たち八部衆 や、六人だけ残っている釈迦十大弟子像 である。これらの像はいずれもこの時代の乾漆造を代表する逸品であると言って良いだろう(注3 

 

 

(注3)正倉院文書には、西金堂での造像の記録が一部のこされているようだ。仏師の名は将軍万福(たぶん将軍が姓;百済からの渡来人と推定される)、一月の給料は米六斗だそうだ。当時の1升は今の0.4升らしいので、米240合分(=約34kg7合で1kgとして計算)ということになる。また乾漆像のための漆は二十石九斗一升(約200リットル)だったらしい。森林が豊かな当時でも漆は高価なものだったから、金に糸目をつけずに造像が行われたことがわかる。

 

 塑像では東大寺法華堂(現在は東大寺ミュージアム蔵)の日光・月光菩薩像や執金剛神像(注4 、同戒壇堂の四天王像が代表例である。両菩薩像は東大寺総合文化センターのトップページ のスライドショーで、四天王像は僅かではあるが、東大寺 3D バーチャル参拝 の戒壇堂内陣で見ることができる。

 これら東大寺の諸像も素晴らしいが、私がもっとも好きな像は新薬師寺の十二神将像 だ。かつて500円切手にデザインされていた伐折羅(ばさら)像がもっとも有名であるが、左手を高く掲げた迷企羅(めきら)像が素晴らしい。十二神将像については、書き出すと切りがなくなるので以下自粛(別記事としていつか書きたい)。

 

(注4)昨日が年1回の御開扉だった 。あくまでも写真集で見る限りの感想にすぎないが、秘仏のため外部環境に曝される時間が短いためか、天平時代の彩色が非常に美しく残っている。




 地方の廃寺遺跡からの発掘を見ると、この時代の塑像(の断片)が遺物として見つかる例がしばしばある。有名な例として鳥取の上淀廃寺 をご紹介したい。政権の中心地である平城京とその周辺だけでなく、地方でも塑造による仏像造像が行われていたということが言える。


 木はどこへいってしまったのか?

 

 木彫の仏像は、民間や私度僧(国の許可なく出家した僧のこと)によって作り続けられたということは大いにありそうだ。しかしながら、それを示す遺品が見つかっていない今日、その仮定に基づいて議論をしてもあまり生産的ではないだろう。とりあえず、少なくとも政権中央および寺院造営の力があった地方での「正式の仏像」という観点にたてば、文献記録からも木彫仏造像の記録がないことも加味して、8世紀前半の数十年間、木の仏さまの歴史が一旦途切れるということになる。


 しかしながら、塑造や乾漆造の作り方の詳細をご覧になった方はもうお気づきのことではないだろうか。木材は心木として像全体の構造を支える裏方にまわったのだ。

 粘土造りである塑造の場合には、法隆寺食堂の帝釈天像の破損した沓部に覗く心木に足の彫刻が施されていることから、塑土を盛りつける以前に木組みで様々な工夫がなされたことが読み取られる。次回以降でもう少し詳しくご紹介したいが、この心木として主に用いられたのは、樟ではなく、ヒノキであることが最近の研究で明らかになっている。建造物を造るための素材であるヒノキは、おそらく構造材として理解されていたのだろう。

 

(続く)

 

【参考文献】

水野敬三郎監修 カラー版日本仏像史 美術出版社

(既出)

山本勉 仏像 日本仏像史講義 (別冊太陽)平凡社

(既出)

浅井和春 天平の彫刻 日本彫刻の古典 (日本の美術456号) 2004


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