戦時中、日本軍の占領各地で日本語新聞が発行されていた。インドネシアのジャワとボルネオ(蘭領)では朝日新聞が「ジャワ新聞」と「ボルネオ新聞」を毎日新聞はフィリッピンとセレベスで「マニラ新聞」と「セレベス新聞」,読売新聞はビルマで「ラングーン」新聞を発行していた。また同盟通信(現在の共同通信)は昭南とスマトラで、地方の加盟社と組んで「昭南新聞」と「スマトラ新聞」を出していた。

「昭南新聞」や「ジャワ新聞」は幸い記録が残っており、「セレベス新聞」も戦後、関係者が記録として本にしている。しかし「スマトラ新聞」については記録がない。ジャカルタの国立図書館には、その一部がマイクロフィルム化されて保存されている。筆者はたまたまこの「スマトラ新聞」記者の一人だった菊池秀広氏(故人)と戦後北海道文化放送で職場を共にし、平成8年一緒に「スマトラ新聞」のあった西スマトラのパダンを旅行し戦争当時のことを聞いたが、残念ながら整理した形での見聞ではなかった。

菊池秀広氏は平成12年、「スマトラ新聞」在勤時の体験を基にして「ムルデカに喝采を!」(講談社出版サービス)出版した。菊池氏は本の序文に書いている通り、登場人物や地名は実名だが、話の一部はフィクッションである。筆者は戦後パダンを中心にした旧西海岸州には4回旅行しており、戦中のスマトラについては通じている。

そこで、菊池氏の著書「ムルデカに喝采を!」を基にして生前菊池氏からお聞きしたことから「スマトラ新聞」について記してみた。


パダンが本社

菊池秀広氏は経歴によると、昭和16年北海道の小樽新聞に入社、翌17年、新聞統合で題名が北海道新聞に変更になったあと18年9月、昭南(シンガポール)にあった「昭南新聞」に派遣され、さらに「スマトラ新聞」に出向された。菊池氏によると「スマトラ新聞」はインドネシア・スマトラ西海岸州の州都パダンに18年6月、創刊された日本語の新聞で、菊池氏らは同新聞の第二陣として派遣されtきた。

「スマトラ新聞」本社はパダン市中心街に近い華僑街のはずれにあった。平成8年2月、筆者が菊池氏とパダンを訪れた時には、まだこの建物が残っていた。もともとここは、オランダ時代マレー語の新聞が発刊されていた場所で「スマトラ新聞」のほかに「Padan Nippo」(日報)というマレー語の新聞も発刊されていた。「スマトラ新聞」は朝刊2ページ1版建てであった。パダンから50㌔北には戦争中スマトラ全土を統括する第25軍総司令部があった。読者は主としてパダンとブキティンギの軍関係者と商社や軍属だったが、当時のパダンの邦人人口は800人程度から見て、発行部数は千部前後と推定されている。


記者スタッフ

菊池さんの著書によると「スマトラ新聞」のスタッフは初代編集局長石沢(北海道新聞)工務局長(印刷)八尋、同次長森’いずれも西日本新聞社から出向)二代目編集局長佐藤(山梨日日新聞社)パダン支局長栗原(北海道新聞社外勤記者迎、泉、河、菊池(いずれも北海道新聞社)整理部記者菜畑(東京)速記記者堀江(河北新報)パレンバン駐在星野(中部日本新聞社)という布陣で、記者は北海道新聞からの出向者が多かった。ほかに現地紙「パダン日報」には大阪外語を出た福山というマレー語の専門家がいた。石沢初代編集局長は19年、東海岸州メダンにあった「北スマトラ新聞」という華字紙代表に転出している。


記事

記事の内容は現地取材と同盟通信からのゲラ刷りによる配信記事であった。同盟通信は第25軍司令部のあったブキティンギに支局があり記者が一人常駐していた。昭和18年6月、菊池記者がパダンに赴任してきた時はまだ23歳で「スマトラ新聞」では最年少だった。仕事はパダン市内の華僑街の取材といわゆる”街だね”だった。

菊池記者は現地で雇った沖縄漁師の息子の宋丸男少年を通訳に市内を取材した。時には第25軍司令部のあるブキティンギに日帰り出張して軍の記者会見なども取材したが、すでに軍当局は、現地人の独立運動に敏感になっていた。