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日本の軍政は前述したように、占領直後の華人に対する粛清や5000万ドル強制献金など悪評だったが、上記のラッフルズ銅像移転でみられるように、一部の良識ある民間人の行動で大切な文化財を後世に残すことも出来た。このことは「思い出の昭南博物館 占領下シンガポールと徳川侯」(E・J・H コーナー著 石井美樹子訳 中央公論)に詳しい。著者のコーナー博士は、日本軍の占領まで同地のラッフルズ博物館副館長だった人だが、文化財が散逸しなかった功労者の一人として田中館秀三博士をあげ"田中館教授がいなかったらシンガポールの博物館、植物園、図書館は跡形なく滅び去ってしまったであろう”(「昭南島物語(下)戸川幸夫)とまでいわれている。

コーナーと田中館との邂逅は多分に幸運だった。地質学、火山学が専門の田中館博士が研究先のサイゴン(ホーチミン)から急遽シンガポール入りしたのは昭和17年2月17日朝であった。日本がシンガポールを占領してからまだ2日しかたっておらず、市内にはまだ黒煙が天高くたなびき、硝煙の匂いさえ残っていた。この空気の中で田中館博士は市役所に豊田シンガポール総領事(昭南特別市総務部長)を訪ねた。南方軍嘱託として単なる着任の挨拶のつもりだったが、豊田氏から早速依頼されたのが英国側からの要望の博物館と植物園の保護とコーナー博士の使用であった。

翌18日、田中館博士は博物館へ行きコーナー博士と博物館と植物園の保護を含む文化財の保存について話し合った。粛清という暴挙が行われている最中に、敵国の文化財の保存に手を貸すという行為は当時の常識では考えられない。