国内編は生れ故郷の五反田から始める、戸籍謄本によると、私の出生地は東京府荏原郡大崎町である。私は昭和6年2月、この地に生れ、戦争末期の20年3月、空襲激化に伴う強制疎開で家が壊されるまでの14年間、ここに住んでいた。家から目黒川までは、直線距離にして50mたらず、少年時代の私にとっては切り離せないものだった。

江戸時代から母親の実家はこの地に住んでいた。明治26年生れの母の話だと、少女時代、このあたりは五反田の名のように一面田圃で、その中を縫うように目黒川の清流が流れていて、夏には母は水遊びをしたそうだ。

しかし、私の知っている昭和10年代の目黒川は、すでに汚染されていて、水はにごり、猫の屍骸や壊れた湯タンポなどが上流から流れてきた。引き汐時には悪臭が漂っていた。

私たちの遊び場は、上流から「亀の甲橋」「谷山橋」「本村橋」「大崎橋」-この四つの橋のJR(当時は省線)線路側の流域だった。「亀の甲橋」は、昔、亀の甲をした小さな中ノ島があったことから、その名前をとったものらしい。東急目黒線の不動前駅ー目黒間の鉄橋近くにある。亡くなった叔母の話では、明治の末から大正にかけてこの橋のあたりで、活動写真(映画)のロケが行われたという。日本映画史によると、わが国最初の映画スタジオが目黒近くの今の杉野学園付近にあったという。恐らくそのロケ地に使われたのだろう。(続)