鎌倉の大仏&極楽寺の紫陽花♪ part1 | あーくん♪のブログ

鎌倉の大仏&極楽寺の紫陽花♪ part1



鎌倉行ってきました


でも サーフィンでは何十回も行きましたけど


大仏は初めて (笑






高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺 奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗 で、鎌倉・極楽寺開山の忍性 (にんしょう)など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗 に属し建長寺 の末寺となったが、江戸時代、正徳 年間(1711年 - 1716年 )に江戸・増上寺祐天 上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。

吾妻鏡 』には、暦仁 元年(1238年 )、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行 』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長 4年(1252年 )から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている[1]

『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。

鎌倉時代末期には幕府の有力者北条(金沢)貞顕 が息子貞将六波羅探題 )に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船 )。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である。

大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000 - 2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記 』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応 4年(1495年 )とするが、『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年 )年)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧・万里集九 の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている[2] 。平成12年から13年(2000 - 2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった[3]

鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある[4] 。北条氏の庶流の中には大仏流北条氏 があり、執権を輩出したこともある。



高徳院(こうとくいん)は、神奈川県 鎌倉市 長谷(はせ)にある浄土宗 の寺院。一般には「鎌倉大仏」の通称で知られる。本尊は「鎌倉の大仏」「長谷の大仏」と称される阿弥陀如来 像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。

2004年平成 16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。





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極楽寺(ごくらくじ)は、神奈川県 鎌倉市 極楽寺 にある真言律宗寺院山号 は霊鷲山(りょうじゅさん)。詳名を「霊鷲山感応院極楽寺」と称する。本尊 は、釈迦如来開基 (創立者)は北条重時開山忍性 (にんしょう)である。

鎌倉市の西部、鎌倉七口 の1つである極楽寺坂切通し の近くにある、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院である。僧忍性が実質的な開祖である。中世には子院49箇院を有する大寺院であった。



江ノ島電鉄 極楽寺駅 近くに茅葺きの山門があり、桜並木の参道を進んだ先には本堂 、大師堂、宝物殿 、茶屋などが建つ。本堂前には忍性が薬作りに使ったとされる石鉢と石臼がある。本堂裏には鎌倉市立稲村ガ崎小学校があるが、同校の校地が往時の極楽寺の中心伽藍のあった場所であるとされている。小学校のさらに奥には極楽寺の墓地があり、忍性塔・忍公塔と呼ばれる大型の五輪塔 をはじめ、多くの石塔が立つ。江戸期に作成された『極楽寺絵図』によれば最盛期には現在の極楽寺や小学校の建つ谷一帯が極楽寺の境内であった。そして現在江ノ電が走っている極楽寺川沿いの谷にはハンセン病患者など病者・貧者救済の施設があったと思われる。

  • 忍性塔 - 極楽寺裏山の墓地にある、高さ3メートルを超える大型の石造五輪塔。塔自体には銘記がないが、納置品から嘉元 3年(1303年 )頃の建塔とわかる。
  • 伝・忍公塔 - 裏山の墓地の奥に立つ石造五輪塔。かつては北条重時の墓塔とされ、昭和2年(1927年 )4月8日、国の史跡 に指定された。しかし、昭和36年(1961年 )の集中豪雨で塔が倒れた際の復旧工事に伴い、塔内から納置品が発見され、この石塔は極楽寺3世善願坊順忍比丘尼 禅忍 の供養塔であることが判明した。これに伴い「北条重時墓」としての史跡指定は昭和37年(1962年 )に解除された。

他に延慶 3年(1310年 )銘の五輪塔や、北条重時の墓塔と伝える宝篋印塔などがある。




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鎌倉で江ノ電に乗り極楽寺下車


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          珍しい 白い紫陽花♪

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ここはめずらしい白いアジサイがありました


​写真は撮影禁止でしたが、こっそり撮っちゃいました。 (​笑)






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