地域包括支援センターのケアマネージャから

先日出していた「介護認定新規審査請求?」だったかな?

が却下されたとの電話をもらい

後日その通知書を受け取った。


【理由】

要介護認定の必要性が認められないため


なんじゃこりゃ!


たったこれだけ???


14日のバレンタインデー?だったか?


市役所に赴き、内容の説明を求めた。


窓口の現れたのは、

いつものAさんである。


説明を求めるが

どうも要領を得ないのである。


その会話の中で、こんなやり取りがあった。


私「介護が認められないのは、医師の診断書?調査票の内容?」


A「医師の診断書に介護が必要とも書いていませんしね」


・・・・・それから約5分後・・・・・


私「医師が診断書に介護が必要なんて指示は書けませんしね」


A「ええ医師が介護度を指示することはできませんよ」


・・・・・・私「えっ!、あなたさっき”診断書に介護が必要だと書いていませんしね”と、言ったばかりじゃないですか?

私「医師は意見として介護度の指示はしてはいけない、、と言っているのに、どうしてさっきは、それを理由にしたんですか?」


A「ああ、ごめんなさい、言い間違えました」


私「あなたねえ、言葉の間違いじゃないんですよ、それを理由にしたんですよ。」

 「それを理由のひとつにして、介護は必要なしと判断されたと言ったんですよ」


私「口からでまかせを言うんじゃない!」

  「なんで、そんないい加減な対応をするのか」


窓口で適当にあしらって

追い返してしまおうと言う態度が見え見えであった。


文字ではどう表現してよいのか・・・

この日の彼女は、

私に対して実に慇懃無礼な態度をとり続けていたのである。


もう対話も何も最初から成立していなかったようだ。


限界だ。



その日は、調査票と診断書のコピーをもらうと思っていたが

印鑑を持っていっていなかったので

後日改めて取りに行くことにして


この窓口での相談はあきらめることにした。


私がどうしてこれほども要支援と要介護の差にこだわるかと言うと、


元来、要介護1と要支援(現在の要支援1)の間には、

利用できる点数に大きな隔たりがあり、


要介護1の者をいきなり要支援(1)にすると

利用できるサービスが極端に減り

(母の場合は、電動カートをレンタルすればデイサービスを一切利用できなくなる)

クレームの嵐が来るに決まっているから


臨時の緩衝ランクとして「要支援2」を作ったのではないか?

と言う疑念があるからで、


もともと存在しないランクが

いつまで存続できるのか?


少しでも保険の利用を減らしたい行政は

必ずこの付け足しのランクを無くし、

要支援は従来の形に一本化されるという懸念を持っている。


そうすれば

母がデイサービスに行けるのは、週に1回。

ショートステイは3日程度

そして電動カートはレンタルできない!


訪問介護も利用できず

大好きなお風呂は

もう週に1回しか入れない。


自分で外出もできなくなる母が

引きこもり、寝たきりになるのも時間の問題。

寝たきりになっても、上半身がまだ動けるなら、

介護にはならない!


これを健康で文化的な生活が出来る生存権を定めた

重大な憲法違反ではないのか。


2007年1月10

この日は介護認定の再申請(新規申請と言うらしい)

のための調査員が午前中にやってきた。


前回11月のときは

歩行についてあまり重要視されていなかったようなので

この点を特に注意して書いてもらうようにした。


調査員は丁寧に多くのことを調査票に書き込んでくれたが

このことが後日、私にある疑念を抱かせることになった。



さて午後からは

地域包括支援 サービス担当者会議を我が家で行った。


最初は何の意味かさっぱり分からなかったが

後日、この会議と言うのは非定期に場所を特定せずに

必要に応じて随時開催されるものだと言われた。


要するに、問題が起きたら、その家に担当者が集まって話し合う その集まりを会議と言っているんだそうな。


「お役所的発想!の命名」ですな。


この日集まったのは

1.地域包括支援センター 主任ケアマネージャ (市職員のBさん)

2.デイサービスで利用しているT事業所の担当者

3.ショートステイで利用しているN事業所(病院)の担当者

4.電動カートをレンタルしているレンタル事業者の担当者

5.要介護1の時に担当していたケアマネージャ(T事業所)

そして、母と私であった。


議題は

1.デイサービスの利用日(いうなれば制限)の決定。

   利用日は毎週、月・火・木・月2回の土曜から

             月・木に、後で月2回の土曜日が増えた。


2.同じくショートステイの利用日(削減)の決定

     毎月7日間利用していたが(点数はまだ余裕があったが)

      今回はぎりぎり6日間利用できた。


3.電動カートの保険適用が妥当かどうか。

  (すでにそのままレンタルし続けているけど)

  これは妥当との意見が圧倒し(当然だが)許可された。


* 要支援ならば当然地域包括支援センターが

母の症状がこれ以上悪化しないように

何らかのサービス活動を提言するのだが

・・・・・何も無い!・・・・・

要するに何も支援できない要支援2なのだ。


要介護1と要支援2の違いは

保険の利用を減らすだけの目的なのだ。


非介護者の社会生活を制限し

介護家族の負担を増やす!

これが支援の実態なのだ。


支援を減らすことが支援の実態である。


年末のあわただしい時期

12月25日にそれはやってきた。


介護認定の通知である。


母はこの制度始まって以来、ずっと要介護1であった。

しかし今回は「要支援2」と判定された。

最初に判定されたときより

さらに身体の状態は悪化しているにも関わらずである


しかもこの適用は来年の1月からになる。

官庁の休みがあるから・・・あと、2~3日しかない

これはすぐに市役所へ行かねば!


翌26日、朝から市役所へ出かけた。

介護保険課の介護認定の相談窓口へである。


前に書いたAさんがやってきた。

一抹の不安を覚えながらも、

とにかく来庁の主旨を伝えた。


「母の場合、具体的に、どういう項目が介護が必要なしとなったのか教えてください」

私は具体的な回答を求めて、そのように言った。


しかしAさんは、一般的なパンフレットを見せて

介護保険システムの説明から始めようとしていたので、

「そのような説明は結構ですから、具体的に母の場合について聞きに来たのです」


それでもパンフレットで説明を続けようとするので、

「母の資料を持ってもこないで、どうして説明できるのですか!」

と言うと、Aさんはあわてて母の書類を探しに席を立った。


あっちの机こっちの棚と、さらに何人かに尋ねながら

5,6分もしたでしょうか、

やっと母の書類を見つけて(はぁ~)お話が始まりました。


まず、一次審査のコンピュータ診断では「要介護1相当」であった。



とすれば、医師の診断書なり認定調査員の調査票で

母が介護1には当たらないと判断されているわけだから


どういう項目で介護ではないと判断されたのかを聞くことにした。


要領の得ない説明を繰り返される中、

しつこく具体的な説明を求める私にAさんは逆切れしたのか

認知症以外は介護にはなりません!」と言い放ち、

「では、認知症以外ではどんな状態でも介護にならないのか?」と詰め寄ると、

「余命半年とか宣告されている人だったら介護になります」と言い切った。


余命半年???それってホスピスのことで医療と違うの????

介護って医療とは違うでしょ????


後に彼女の上司から、

それはその方が、以後回復する兆しが無く悪化する状態のことで、

当然機能障害があることが前提です。

と説明を受け、納得したものであった。


しかしここでAさんの言った

「認知症以外では介護になりません」と言うのは

実はかなり真相に近かったのではないかと今では思っている。


この後、もっと話を進めたかったのだが、

このまま話がもつれ込んでしまえば、

間近に迫る要支援2での対応では

母は電動車いす(電動カート)のレンタルが打ち切られてしまうため、

その方向に話を切り替えていった。


もちろん要支援2でも電動カートが保険の対象として利用できることを知っているからである。


調査票でも特に強く主張していた

「歩行の危険性と、外出が不可能なこと」を再度述べ

なぜ電動カートの使用が認められないのかと聞いたところ、


Aさんから次のような質問が帰ってきた。


A「家の中で過ごしている時間と外で過ごしている時間とではどちらが多いですか?」

私「外では歩けませんから、当然家の中です」


A「家の中では車椅子ですか?」

私「家の中は車椅子で移動できるほど広くは無いですから、当然伝え歩きか杖です」

 「デイサービスやショートステイの施設では車椅子ですが」


A「この場合、家の中か外かで多くの時間を過ごしている方で、車椅子を使われていないんでしたら、日常の生活で車椅子は必要ないと判断されます」

私「えっ!・・・・それって、外では歩けなくてもですか?」


A「日常生活で車椅子が無くても歩けると言うことです」

私「外では歩けないから、家にいるほうが多いんですよ」


私「・・・・足が悪い老人で一日の多くを外で過ごしている人っています?」

A「・・・・無言・・・・」


私「家の中で車椅子で移動されている方ってどれくらいいます?使えるなら母も使っていますよ!」

  「家の中でも転倒することが多くて危険なんですが、車椅子は使えないんです」

  ほんのわずか、伝え歩きができるって言うだけで、外を自由に歩きまわれるって、どうひねくれた考え方をすればそのようなことが言えるんです!」


それから、母が転倒することで内出血を起こし、それが大変危険であることを再度述べ、

電動カートを取り上げられてしまえば

精神的にも引き篭もり状態になってしまう、

引き篭もり状態なってしまえば

もう家でもほとんどベッド上での生活が続くため

さらに歩けなくなってしまい、

いままで努力して足の筋力の衰えを防いできたことも

一瞬にして水の泡と化してしまう。


それでもAさんは、かたくなに「そういうシステムになっているから」と言い切っていた。


そのころには、地域包括支援センターの男性職員(Bさん)、

それから後に、彼らの上司の女性職員(Cさん)も同席し始め

(これは私がAさんの態度に怒り、声が大きくなっていたためだろう)

再度事情を説明し直すことになってしまっていたのだが、


私もこの時点では

あまりにもAさんの言う内容が相手が人間であると言うことを考えていないような言い方で

杓子定規な変な理屈で実情では考えられないような条件を提示して

それに合わないからだめだとか

そういう態度に怒りが高ぶってしまっていた。


このときに私は重要な点を相手に指摘していた。


「あなた(Aさん)は、どちらの側に立って話をしているのですか?」

「あなたは、まるで国の役人の立場になってわたしを説き伏せようとしていますね」

「私のような市民は、いきなり国を相手に話をする手段を持ちませんし、しても意味が無いでしょう」

「介護のことで直接話をする、相談するのは市役所のこの課がまず最初です」

「だから市役所も相談窓口をここに置いているんでしょ」

「市の職員が介護者や非介護者の言葉を聴かずに、クレーマーのような扱いをして、追い返そうとするとは何と言う態度なんですか!」

「福祉課って何の仕事をするところか知っていますか!」

「市民の立場に立って考えればそんなことは言えないはずです」

「国の定めた制度が実情に合わないことなんてざらにあります」

「それを市民レベルの目線でも見て、その矛盾点を少しでもなくして、市民にとって少しでもより良い方向へと、動こうとするのが福祉行政ではないのですか」

「その市民の窓口であるあなたが、窓口に大きな壁を作って、市民を寄せ付けないようにすることが仕事なんですか」

「窓口へ相談に来た市民を追い返すのがあなたの役目なんですか」


「新聞TVで何度も大きく報道されてきている介護法改正で自殺や心中事件を見てあなたはなんとも思わないのですか」


「あなたは私の母に、外へ出かけたりしないで家の中で早く死ねと言っているのに等しいことをしているんですよ」


そのようなことをどのくらい言い続けたのでしょうかね、

気がついてみると私一人だけがしゃべっていて、

その課全体がシーンとしていた。



とりあえず、明日に地域包括支援センターのケアマネージャー(市職員)が家に来て

市との要支援2の契約をしに来てもらうことにして

そうしないと一切のサービスを受けられなくなってしまうからで

やむなく要支援2の決定を受けざるを得ないような仕組みになっている。


そして電動カートの使用についても再度話し合うことになった。


ついでに書いておくが、翌27日に

1月初めに、担当者会議(市ケアマネージャー(Bさん)、デイサービス事業所、ショートステイ事業所、電動カートレンタル事業者、そして以前からお世話になっている民間のケアマネージャー)を我が家で開くこととし、

そこで電動カートの利用の可否と介護申請のやり直しなどに付いて話し合うことにすると言う取り決めを行った。



2006年4月、改正介護法が始まった。


TVや新聞、ネットニュースでは

新介護法での影響が次々と報じられ、

介護の切捨てが問題になってきていた。


そこで私は、4月の後半の連休に入る少し前に

市役所へ赴き現在の状況を尋ねることにした。


介護保険課の介護認定窓口である。

女性職員が応対に出てきた。

仮に「Aさん」としておこう。


まずは認定方法の変更のあらましと

実際の阪南市での対応について聞いてみた。


直接市役所に聞きに来た理由として、


阪南市のHPは2002年の時から更新されていず、

今度の介護法改正に対する情報がまったく知ることができないからと伝えた。


また市の広報にもほとんど掲載されていないためとも言った。



■阪南市での「要介護1」から「要支援2」への変更はどのくらいか尋ねたところ、


およそ9割との答えが返ってきたが、

まだ始まったばかりなので

これからはどうなるか分からないとの事であった。

9割と言う答えには驚いた!


電動車いすの保険適用について尋ねたところ


原則、要介護1までは保険適用ができないと言われ、

改正法の条文では自治体の判断で貸し出しができるとも書いてあった。


■それで阪南市ではどう対応しているのかを聞くと、


まだ決まっていないので今はなんとも言えない。


■地域包括支援センターについて尋ねてみると


まだ活動できていないので

どのような事ができるのか、まだ分からない。


・・・・

その他にもいろいろと聞いては見たものの

とりあえずスタートはしたが

まだ市では対応しきれていなくて

これからの会議で次々と決まっていくと言うことであった。


会議で決まったことはどうすれば市民(私)が知ることができるのか?


HPに掲載されるのか→たぶんされません。

広報に載るのか?→分かりません。


では度々この窓口にやって来なくてはならないのか?


Aさんは、この件で決まったことがありましたら連絡させていただきますと言ってくれた。


それでとりあえず話が終わったのだが、


Aさんは、そのまま席を立って行ってしまおうとしていた!


「ちょっと待ってください」

「私は、名前も住所も電話番号も、何も言ってないんですが、

どのようにして私に連絡してくれるのですか?」


Aさんは、始めから連絡する気など無かったのだ!

窓口での対応はその場限りの方便だったのだ!


そのことは後日にも同じようなことをされたため

確信を持って、そう言えるのである!


一応名刺を渡したものの

それから8ヵ月後に再会するまで

何の連絡も無かったことは

当然のことであった。


今回このブログを書こうとした発端が

この日の市職員の対応であった。

母の介護の必要性の第一要因は

足が不自由であると言うことだ。


しかしただ足が不自由であると言うことだけではなく

母はその内臓疾患から

血管が非常に脆弱で、

転倒しかけて、ちょっと腕をつかんだだけでも

その部分が内出血することで、


本人が気づかないうちに

内出血して腕や足に黒ずんだ箇所ができていることも頻繁にあり、

ひどい場合には、病院でその部分を取り除いてもらわなければならないほどに悪化することもある。


転倒で最も怖いのは

頭部を打った場合である。

当然頭部の血管も脆くなっているために

脳内出血を引き起こしかねないことで、


むしろ

いままでそうならなかったことが奇跡みたいなものだ。


介護調査のときでも

市役所へ介護認定の結果について尋ねて行ったときでも

必ずそのことが最も懸念していることだと言ってきている。


介護認定調査員にも

体のあちこちにある黒い痣も見てもらっているし、

医師の診断書にも転倒の危険性を指摘してもらっている。


いわば爆弾を抱えているようなもので、

本人が一番気になっていることなのだが、

どうも他人(介護認定に関わる人たち)には、ピンとこないらしい。


このことで後に

市役所の介護認定の係りの職員

ひと悶着あって

私の怒りが爆発することになった。


母には30年ほど前から狭心症があり、

救急車のお世話になることも二度や三度では収まらない。



かつて大阪市の警察病院の名医と言われている医師のところまで

(東京からも通ってくる患者がいるくらいだった)

何度も通っていたが

まだ心臓カテーテルが発達していないころで

心臓の下部1/3くらいは良く見えずに確認できなかった。

それでも何ヶ所かは血管が詰まり気味になっていると知らされた。


阪南市に引越しをしてきてから

泉佐野市の現在通院している病院では

そのころには心臓のすべてが心臓カテーテルで見えるようになっていた。


やはり狭心症には間違いなく

原因のひとつに心因性のものがあると言うことも分かった。

この心因性というのが、

これからの母の病状に

いろいろと問題を起こしてくるのであった。


さて現在はこの狭心症は既往症ではあるが

いくらかは落ち着いているのでその点は少しは安心しているが

もっと厄介な病気が悪化してきていた。


もともと母は糖尿病を患っていた。

しかしそれほど重いものではなかったし

度々の入院で食事制限をされていて

糖尿病そのものは深刻なことにはなっていなかった。


しかし糖尿病の影響は体のあちこちに影響を及ぼしていた。

ひとつは眼への影響で、

現在は白内障と緑内障を患っている。


もうひとつは糖尿性腎症に発展したことで、

一昨年、入院中に急に意識不明になり

その後すぐに意識は回復したものの

回復後一週間くらい、記憶が飛んでしまっていたのだ。


回復後、人工透析を行っていたのだが

一週間くらいして、それまでの事をまったく忘れてしまっていることに気づいた。


私や妻がそれまで母と会って話していたことも

まったく覚えていなくて

自分がなぜ透析を受けているのかも分からなかった。


それは一時的なこととして、

問題は人工透析のことであった。


母の血管は非常にもろくて

長期間の人工透析には耐えられないため、

なんとか人工透析をしなくても良いようにと

これから厳しい食事療法をすることにした。


母はいまだに糖尿病と糖尿性腎症の違いが良く分からず

自分では食事のコントロールができない。


糖尿病の時にはカロリーが制限されていたため

砂糖の代わりに人口甘味料を使い

空腹時には寒天ゼリーなどの低カロリー製品などを食べていたが、


糖尿性腎症では

インスリンを使用しているため

一定のカロリーを確保しないと

今度は低血糖症を引き起こし

生命の危険にも晒されることになる。


しかしいまだに寒天食品を買ってくるし

糖尿病用の人口甘味料を買ってくる。

そして甘いものを避けるようにしている。


長年の糖尿病生活によって

考え方の切り替えができないのであろう。


しかしそれを放って置いては、

低血糖症で倒れてしまい危険である。


母は足が不自由なため

調理などは危なくてさせられない。

しかも糖尿性腎症

カロリー(当時は1200kcal)、タンパク制限、塩分制限、カリウム制限、ビタミンk制限に加えて

ワファリンを服用しているため、特定食品制限も必須であった。


80歳の母にはこれを計算して調理をするなど

到底無理な注文である。


そこで私がこれからずっと毎日母の食事を計算しながら作ることになった。

その結果、食事制限の枠が緩められ

いまでは割と母の好きなものも多く食べさせてあげれるようになった。


しかしそのように好転するまでは大変であった。


インスリンを打っている以上

一定のカロリーをとらないと

低血糖症を起こすので

何とか食べるように言うと

急に泣き出したり、


おいしくも無い低タンパクご飯

何とか食べれるように工夫して

そのときには、これだったらちゃんと食べれると言っていたのが、

後日には、あんなもの見るのもぞっとすると言って

まったく受け付けなくなってしまったり、


年齢相応のことはあるとは言うものの、

食事の好き嫌いも激しく、

かといって人工透析だけは避けなければならないし、

このころの私は外出もままならず

仕事もかなり制限してきた。


食事に関する介護は

自力で食べることができない場合のみ介護扱いで、

調理は介護には当たらないとされているが(いつから?)

実際は、じゃあ誰が食事を作るの?

と言うことになる。


私の時間を返せ!って、誰に言えばいいんでしょう。

時間が介護の程度を測る単位なんじゃないですか?

母は、大正末期の生まれで現在は80歳を超えている。

まあ、年齢なりの衰えはあるし、それなりの疾病もある。


しかし介護が必要になったのは別の疾病でのことで、

両ひざの関節が擦り切れて一部の骨が尖りだしてきたために、

歩くたびにひざが痛くなってきたからで、

平成4年4月4日

(なんと覚えやすいというか、縁起が・・・)

特に痛みのひどい右ひざ関節をチタン合金の関節に取り替える手術をした。


リハビリにはおよそ半年をかけて

杖をついて自力で歩けるようになった。

しかし長い距離を歩くことはできなかったので

移動手段として電動カートを買った。


いつも良くしてもらっているスズキオートの店長さんに

スズキの三輪電動カートを取り寄せてもらったのだが

「福祉用具は値引きしないようにと官庁から言われている」

申し分けなさそうに言っていて、

代わりに別のものをいっぱい付けてくれた。


本当にこの店長さんは気持ちの良い人で

いつも親身になって車のことを世話してくれていて、

以前乗っていた三菱の車もこのスズキの店で買った。


そんな人を困らせるような通達を官庁は出している。

”福祉用具は内容の割りに高すぎる”

そんな実態を知るようになったのはこの頃からであった。


さて、その電動カートであるが、

いきさつはともかく、母の足代わりとして、すばらしい働きを見せてくれるのであった。


我が家からその病院までは、電車で4駅だが

家から最寄の駅までは歩いても15分くらいかかる(私の足で)。

しかも当時まだ電動カートが珍しかった時代

電動カートで電車に乗る人などほとんど皆無で(乗っても良いのだが)

ショッピングセンターでも、電動カーに乗っていると、

あからさまに嫌な顔をする人もいて、

母は電動カートで電車に乗ることを嫌がった。


我が家から病院までは道路の距離で約10kmである。

最高速度が時速6kmの電動カートでは、

片道で2時間かかることになる。

しかし母は、これを往復していたのであった。


ただし天候が悪いときや真夏や冬は無理で

バッテリーが少し古くなってきたときも、

途中で止まる恐れがあったので、

そのときは私が車で送迎していた。


当時は父がパーキンソン病で入院していたりで

遠くの堺市の病院(皮膚病関連で)に入院して、

母が泉佐野市の病院に入院していたときは、

病院巡りだけで丸一日を要していたものだ。


このときにすでに私の介護人生が始まっていた!。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・


それからおよそ10年間、この電動カートは、

母の貴重な足となり活躍し、

懸念されていたもう片方のひざ関節の悪化も軽減され

現在もまだ手術しない状態を保っている。


しかいこの電動カートが充電系の疲労によって

走行距離が急激に低下してきて

長時間の走行が不可能になってきたとき

母の体力も長時間の外出が困難になってきていた。


往復20kmの遠征ももう実現することは無い。

今ではせいぜい往復5kmくらいが限界だろう。


さてそろそろ寿命が来た電動カートをどうしようかと思っていたときに

介護保険制度が始まり

母は、「要介護1」と認定され、

電動カートのレンタルができると分かり、

早速申し込んだ。


今までは自費で買った電動カートで、バッテリーももちろん自費で買わなくてはならないのだが、

ひとつ2万数千円し、それが2台必要で、しかもほとんど一年しか持たない。


今回のレンタルカートでは、

諸費用込みで年間3万円程度で、

今までのバッテリー代よりも安くなったのだ。

これは大いに助かった。


買い換えて維持費を負担してとなると

これが結構大きな負担と成ると思っていたからで、

介護保険制度の良い面が出たと思っている。


ただし電動ベッド(父の場合だったが)は以前は無償だったのに

この時からは費用がかかることになっていた。


しかしこれで母の外出の足が確保でき安心していた。

この時は・・・・・