「街道の涯」

街道の涯は、連作の形式でお届けしております。

ただいま、第一作の「祖国のためにできること」を公開中です。


「十字状に拡がる内海の周囲には、さまざまな国々が存在しています。
カルムの王城で生まれたルーンと、シーナの街で暮らす少女ジーノが、物語の主人公となります。」


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各章へのショートカット

◆1話 「祖国のために、できること」  


第一章・物言わぬ師との対話 (前半後半

第二章・森の中で (前半後半

第三章・内海の風

第四章・涙と告発と(

第五章・あの森から遙か

第六章・初陣の野で(前半後半

第七章・主のいない都(

第八章・王太子の選ぶ道(


◆2話 「紅い髪の少女」


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キャラクターギャラリー

祖国のために、できること 8.王太子の選ぶ道 (三)


 
 シノンが手綱に鞭を織り交ぜ、必死に馬を駆る。明らかに負担
を強いる乗り方であり、彼は心中で栗毛の牝馬に詫びていた。主
君を追って二十騎ほどで出発したのだが、速度にばらつきがあっ
たため、速い五騎が先行する形で王子を追っている。その中には、
シノンの他にグロス、エームの姿もある。後続の集団は、ルダー
クが率いていた。
「シノン、前の林だ」
 グロスの叫びにつられるように凝視すると、未だ小さく見える
林に騎影の群れが吸い込まれつつあった。
「エーム、側方に回ってくれ。我らは直進する」
 頷いたエームが、左へ道を外れて増速する。シノンの知る王子
は、敵方の兵に対してさえ、流血を厭うて剣先を鈍らせかねない
人物である。生きた主君と再び対面するためには、もはや一刻の
猶予もならなかった。鋭く入れた右鞭に、疲れ切っている筈の牝
馬は脚を速めてくれた。


 目前で二振りの剣が下方に向けられている。それらを見つめる
ルーンの表情は穏やかだった。
 イヨンの剣士ならば発する筈の圧力は、まったく感じられない。
それに、単独戦闘を重んじるイヨンが、二人同時に構えるわけも
ない。右頬に薄傷まである剣士達が、形だけを真似ているのは明
らかだった。
「君らがイヨン族を名乗っているとしたら、彼らに対する侮辱で
しかないな」
 怒気を閃めかせた相手に向けて、王子がイヨンの構えを取る。
長剣であるため、剣先が地に触れんばかりの体勢からは、凄みが
感じられた。
 ルーンがどんな修行を積んできたかを知る者は、ごくわずかな
身内と呼べる存在以外にはいなかった。たちまち、イヨン族の真
似事をしていた剣士らは気圧された。後方にいる騎兵達までが圧
迫感を覚え、馬が怯えはじめる。ルーンが一歩を踏み出しただけ
で、二人は先を争うように逃げ出した。
 くすんだ金髪の王子は、イヨンの構えを解かない。下方から剣
が浮き上がるその態勢は、特に初めて対する者には有効だった。
切り札をあっさりと失った馬上の敵将が、それでも剣を抜き放っ
た。
「恐れるな。いかな凄腕とて、包んでしまえば首を取るなど造作
もないぞ」
 やや上擦った声に、幾人かの兵が反応した。十人ほどが前進す
るが、ルーンと正対すると気迫に押されて足が止まる。殺意に近
い想いを抱いた王子からは、穏やかな表情とはそぐわない闘気が
溢れ出していた。
「臆病者共め」
 自分はどうなんだ、と配下の大半の者が思ったとき、下馬した
追撃隊の将が獲物に向けて走り出した。剣技に優れているわけで
はないその者には、ルーンの放つ剣気を測る術はない。
 全員が注視する中、細身の王子は繰り出された剣を一撃で弾き
飛ばし、腹に痛烈な蹴りを見舞った。ルーンの胸の激情が消え去
ったわけではないが、主将の死が部下達の闘志を燃やさせるのを
避けたいとの判断が優先されたのだった。 
 指揮官の突撃が呼び水となって、追っ手達が一斉に動きはじめ
る。未だ騎上の者には、弓を取る姿まであった。
 見通しの効く街道で、多勢を相手にするのは不利である。木立
に飛び込むべく構えたルーンは、ふと右方の林の奥に気配を感じ
た。急速に近付いてきている、懐かしい感覚。それは、馬蹄の響
きとなって、ルーンを狙う者達の耳にも届いた。
 すぐに騎影が、樹々の間を縫って急進してきた。動きを止めた
襲撃者達の前に、騎馬の小集団が林から飛び出し、追撃隊と獲物
との間が塞がれる。
「ルーン。無事か」
「マオ、久しいな」
 馬上からの叫びに、緊迫感に欠けるうれしげな声が応じた。
「何奴だ」
 立ち上がっていた追撃隊の丸腰の将が、きつい口調で誰何する。
波打つ黒髪の若者が、不敵な笑みを浮かべて応じた。
「名乗るほどの者じゃないさ。それより、矢を捨てて逃げないと
皆殺しにするぞ」
「ふざけるな。それしきの数でなにを言うか」
 マオの左右には、五騎がいるのみである。
「……そこからは見えないのか。あんたの部下は、みんな蒼くな
っているぞ」
 振り向くと、言葉通りの情景が見えた。彼の配下の多くが剣を
下ろし、ある者は両手を頭にやって降伏の意志を示している。林
の中から幾百かの矢が、追討隊の各員に狙いを定めていたのだっ
た。 
「王太子が旅立とうというからには、お前達の血で派手に祝って
やるのがいいと思うんだが、本人の意向も取り入れんとな。死に
たくなければ、ここから立ち去れ」
 配下の者達から縋るような目で見つめられ、追討隊の将は乗馬
の方へ歩き出した。素直に矢が打ち捨てられたのは、王太子に剣
を向けるのをためらう者が多かったためもあろう。
 整然とした退却行を見送ると、マオはかつて修行を共にした旧
友の前に馬を進めた。はぐれイヨンとなって仕えているリースも、
隣にやってくる。ぼさぼさの黒髪は、まるで変わっていなかった。
「助けてくれてありがとう。どうして、ここにいるのがわかった
んだい」
「どうしてだと思う」
 馬上のマオは、くすんだ金髪の剣士をまっすぐに見下ろしてい
る。
「エームが伝えたんだろうと思う」
「わかってるなら聞くな。あいつは、この機に俺がお前を斬ると
は思わなかったようだな」
 波打つ黒髪の青年は、いつになく締まった表情をしている。
「マオは、逃げる者を斬ったりはしないだろう。エームもそう思
ったんじゃないかな」
「斬りたい気持ちはある。王位を前にして逃げ出すなどとは。あ
れだけの民の支持を受けながら、しかも勝てる戦いであるという
のに」 
 出会って以来聞いたことのない、きつい口調である。大切な存
在同士の対峙に、マオの隣に侍するイヨンの若者は困ったような
表情を浮かべている。ルーンの声は、穏やかなまま変わらない。
「勝てたとしても、悲惨な戦いの末にだよ」
「お前なら、あのひねくれたガキよりも、よっぽどまともにこの
国を治められた筈だ。わかっているな」
「うん」
 悪びれず、細身の王子が頷く。それを見て、マオは一瞬で激し
た。
「だったらどうして」
「ぼくとクランとの差は、流される血に見合うほどのものじゃな
い」
 静かな口調でのその言葉は、マオを一気に沈静化させた。いつ
にない、まじめな表情に置き換わる。そうすると、黒髪の若者の
眉間に凛々しさが漂った。
「お前は間違ってるよ。考え方自体も、あいつとの違いの大きさ
についてもな。だが、そこがまたお前らしいんだろうな」
 ルーンは、穏やかな視線を馬上の友人に向けている。信頼する
友が示した見解によって、迷いがまったく生じなかったといった
ら嘘になる。だが、今から戻るとしたら、勝てたとしても闘いが
更に長引くのは間違いなかった。
「まあ、俺としては、お前がいなくなってくれた方が遠慮なく動
けるがな」
 その時、ルーンの背後に騎影が一つ現れた。林から飛び出して
きたのは、エームである。
「ルーン様、ご無事でなによりです」
「おう、遅かったな。……ルーン、こいつはしばらく借りておく
ぞ」
 手を上げて応じたのはマオだった。笑みを浮かべたくすんだ金
髪の剣士は、貸し出し対象となるらしい部下に目線を向けた。 
「エーム。貸すんじゃなくて、譲る形になっても構わないからね。
悔いなく生きてくれ」
「ありがとうございます。ですが、この方だと激しくなり過ぎて
しまいそうでして。英雄譚には、もう少し穏やかな方が好ましい
と思うのです。お帰りをお待ちしています」
 澄ました表情でそう評されては、自覚があるだけにマオも苦笑
するしかない。ルーンは、濃茶の髪の部下に向けて一礼を投げた。
 追っ手が消えた街道の先から、幾つかの騎影が近付いてきてい
る。それが王太子の臣下達であるのがマオにはわかった。波打つ
黒髪の主将の合図で、部下達が撤収をはじめる。手を小さく上げ
たリースも、名残惜しげな視線を投げながら去っていった。 
「主従の別れの場面とあっちゃ、邪魔者は退散するとしよう。こ
れからどこへ行くんだ?」
 すこし心配そうな色合いを瞳に浮かべて、マオが問いを投げる。
くすんだ金髪の若者は、吹っ切れたような明るい表情をしていた。
「うん、色んな土地を見てみようかと思うんだ」
「そうか……」
 黒髪の剣士の視線は、林を越えた、遠い空へと向けられた。秋
空は、蒼くどこまでも高い。
「きみが新たな王朝を建てたなら、その時には馳せ参じるよ」
「ああ。そしてお前に乗っ取られるんだな」 
 真情を口にしたルーンに、それを知覚してなのかどうか、マオ
は笑って返した。
「帰ってくるまでは、好きにさせてもらうぞ。こう見えても、だ
いぶ控えてたんでな。お前に討伐に出てこられたらたまらないか
らなぁ」
 マオが徐々に勢力を固めているのは、まだ王太子になる前の段
階から、ルーンは把握していた。エームが束ねる情報収集組織が、
なかなかに機能していたためである。表立って騒乱を起こすわけ
ではないので、王都でマオの存在を知る者はごくわずかだろう。
そして、エームを仲立ちとして、彼らは連絡を取り合っていたの
だった。
「あれで控えめなわけか。ならば、いよいよカルムは騒がしくな
るな」 
 にやりとマオが笑う。王太子が出奔して動揺が起こるのは、願
ってもない状況だった。拳を振り上げたのを別れのあいさつにし
て、マオも林の中へと馬を進めさせた。


「ルーン様、ご無事で」
 騎乗して歩を進めてきた主君を見つけて、シノンの声が弾んで
いる。笑みを浮かべて王子が応じた。
「危ないところだったけど、マオに救われたよ。皆にも手間をか
けさせてしまったな。……と言っておいてなんだけど、見送りの
必要はなかったのに」
 穏やかな主君の言葉に、シノンは安堵の表情を浮かべた。新月
号の轡を取るエームも、顔を綻ばせている。だが、笑みを浮かべ
た者ばかりではなかった。
「どうか、一緒に連れていってください」
 顎髭を生やした偉丈夫の叫びには、微かに涙が混じっているよ
うに思えた。初見の折りにはシノンを侮辱し、王子を怒らせたグ
ロスだったが、臣下となってからは、ルーンの剣術稽古の相手を
ずっと務めてきていた。ルーンから技術を学び取ったために、彼
も相当の腕前まで達している。剣技を通じて培われた信頼関係は、
言葉を越えたものとなる。総髪の剣士は、離れがたい思いを主君
に抱いていた。
 王太子が首を振るが、グロスは納得しない。なんとかなだめた
時、ルダーク率いる後続が追いついてきて、臣下の主力がほぼ勢
揃いした。
 シンク開港と手工業育成に手腕を発揮してくれたルダーク。王
子の英雄譚を著すのを生涯の目標と定めていた、諜報関係に通じ
たエーム。その場には他にも、ルーンが自ら見出した者達が多く
集っていた。戦闘に参加するつもりだったのか、情報官室を束ね
るグラディスの姿まである。
 うれしげに見回したルーンは、ふと首をわずかに傾けた。
「グーリーの姿が見えないけれど」
「残って、敵方への即応と、他の縁者への連絡をやってくれてい
ます」
「そうか。手間をかけてしまっているな」 
 裏方的立場で、全体の調整を黙々とこなしてくれていたグーリ
ーも、得難い人材であった。そして、なんといっても成長が著し
かったのは、副将格のシノンである。最も信頼を寄せていた部下
が、馬を近付かせて王太子に笑いかける。
「では、我々はルーン様の帰りを待っていればよろしいのですね」
 シノンの予想通り、彼の敬愛する主君は再び首を振った。
「いや、この国がまともに動くように、それぞれのやり方で働い
てくれ。王座を占めるのが誰であろうと、国内に住む人々のため
に尽くすべきであるのに変わりはない。……もしも、カルムが危
機に陥り、この身が必要とされていれば、その時には必ず駆けつ
けよう」
 下馬したシノンが、主君の馬に歩み寄り、恭しく跪く。他の者
もそれに倣った。ルーンは慌てて馬を降り、それぞれの手を取っ
て、別れの言葉を告げていった。ルーンの黒馬が嘶くと、幾頭か
が嘶きを返す。馬達までも別れを惜しんでいるのだろうか。戦闘
用に訓練された馬が嘶くというのは普通の状況ではないが、その
場のだれもが奇異には感じなかった。
 林の中には、涼やかな風が吹いてきている。紅く色づきはじめ
た陽光に染まりながら、主従はひとまずの別れを惜しんだ。


 歓呼の声が向けられたのは、新たに国王として立つ明るい金髪
の若者に対してだった。早馬が携えてきた報せが兵達に明かされ
たのは、ルーンが出奔した翌日の夕方だった。馬上で手を振るク
ランにも、それを取り巻く兵達にも、紅の光が落ちてきている。
 戦わずして陣営に勝利が転がり込むのは、戦陣に立つ筈だった
者からすれば喜ばしい事態である。一歩引いて考えれば、反対勢
力を一掃する契機が失われたという意味で、やや微妙な状況なの
だが。
 今後に想いを巡らせる余裕は、紅潮して歓声に応じる馬上のク
ランにはなさそうだった。やや離れた位置から、当地の公子が冷
ややかさの籠もった目つきで眺めている。
 コルナにとってもっとも望ましかったのは、ルーンが王太子の
地位を返上して、国内に留まる展開だった。処刑されようとした
ら、父公の意向には構わず、反対の意を表明しようかとまで検討
していた。波乱要因があり続けた方が、シムス公家が更に上に行
くためには、なにかと都合がよいためである。
 一番やりにくいのは、内戦になり、どちらかが完勝してしまう
形だった。そう考えると、開戦されないままに片方が即位するの
は、次善の状態だと言えるだろう。ルーンが即位していたら、発
想が突飛そうであるため、動きにくくなっていたと思われる。ク
ランの方が、付け入る隙は多くありそうだった。
 シムス公領を預かる老父は、宰相とともに新王の後見として影
響力を保持できれば満足なのだろう。担がれた王族の若者は、コ
ルナからすれば、ごく器の小さい人物に思えている。御しやすい
というのは、同時に打倒しやすいということになる。
 父公がどれほど生命を保つかが、公子にとっては大きな意味を
持ちそうだった。父親に対して抱く想いは、コルナと同い年の王
子とでは、まるで異なっていた。 
 シムス公家を継ぐだけでなく、更なる高みを目指そうというか
らには、勝者がルーンでないのを喜んでよい筈だ。その筈なのだ
が、なにか、抜け落ちたような感覚が公子の胸にはある。
 自分は、国王となったルーンに挑みたかったのだろうか。あの
者に先行させた上で、追いつきたかったのか。自問したコルナだ
が、答えは導き出せなかった。どうであれ、動いた状況は戻らな
い。退転した王子などに気を取られている場合ではなかった。
 目線を前方に転じれば、父親の背中が見える。もう老境に入っ
ているというのに、姿勢には気が籠もっていて大きく映る。圧力
めいたものを感じているコルナは、父王を失い、独自の道を歩き
はじめたルーンを、微かにうらやんでいた。しかし、父とて決し
て不死ではないのである。公家の長として立つまでに、できる限
りの備えをしておくべきだった。
 頬に冷笑を浮かべたコルナを、いつの間にかシムス公が見据え
ていた。気付いて、公子が表情を消す。歩み寄ってきた父親が、
明るい茶の髪の若者に声をかけた。
「ルーン殿は、随分あっさりと身を引いたな」
 どこか残念そうな口調が、自尊心の強い公子に反発を抱かせる。
「幾ら嫡流でも、人格が惰弱では仕方がありませんな。もっとも、
傍流の方も、弱さが目立つようですが。王家の血も、だいぶ薄ま
ってきたのでしょうか」
 王家を軽んじる言動は、この親子の間では特に問題とはならな
い。家柄の古い五公家では、程度の差はあれ現王家を軽視しがち
である。けれど、老齢の公は、息子の言葉に反応してすっと表情
を改めた。
 視線を強めたシムス公が、ゆっくりと薄い唇を開く。紅の陽光
のためか、白髪を肩まで伸ばした老人の顔には、どこか禍々しい
印象があった。
「お前は、儂の血を継ぐ者ではない」
「は……?」
 意味を理解できず、公子が素の表情になる。
「慣わしでは、来年になってから告げるべきなのだが、お前にな
らいいだろう。コルナよ。お前は儂の息子ではない」
「なにを」
 バカな、と続けようとして、コルナは危うく呑み込んだ。
「意味がわからないか。お前には、シムス公家の血など流れてい
ないと言ったのだ」
「そんな、お戯れを」
 周囲の喧噪が、コルナの聴覚には感じられなくなっていた。吹
きはじめた夕風によって、父と自分の間だけが世界から切り取ら
れたように思える。
「信じられないのは無理もない。だが、我がシムス公家ではあり
ふれたことなのだ。 
 公位にある者の血を分けた息子が、跡取りとして適格とは限ら
ない。それは、お前の王族に対する評価の通りだ。成人せずに死
んだお前の三人の兄は、いずれも資質が不充分だった。そのうち、
儂の実の息子は一人だけだ」
 真顔で、老公は言葉を重ねていく。コルナの思考は、あっさり
と混乱していた。
 自分は、父親に顔が似ていると一度でも言われただろうか。仕
種なら、表情なら、よく言われている。だが、顔の造形は……。
「嘘です。私は、」
「我が言葉を偽りだと言うか。だが、どうやってそれを証明する
というのだ」
「いや、しかし……」 
「同じ血が流れていようと、いまいと、お前は儂の息子だ。公家
の跡取りであるのを証明する手段は、一つしかない。シムス公家
を護り、次代に引き継ぐことだ」
 どうやら本当らしいと、コルナは感じはじめていた。兄達は、
いずれも十代半ばで命を落としている。事故や病のためだと聞か
されていたが、公家を継ぐのに不適格だと判定された結果なのだ
としたら。そう考えれば、父親の自分への接し方にも得心がいく。
育てるつもりなら、もう少しやりようがあるだろう。だが、生活
の総てが判定の過程だとしたら、常に圧迫をかけるのは確かに有
効だと思える。
 心中でひとまずの整理がついたとき、公子の怒りが向けられた
先は、父親ではなかった。逃げた王太子に、コルナの怒気は向か
っていた。
 高貴な血を受け継いでいながら、手を伸ばせば届くところにあ
った王座を打ち捨て、国外へと立ち去る。シムス公家の血を継い
でいない自分には、そのような振る舞いはどうやってもできない
のである。胸に燃えているのは、怒りというより嫉妬に近いかも
しれない。
 逃げ出したルーンよりも、自分は明らかに優秀である。それを
証明するためには……、そう、実力で王位を手に入れるしかない。
クランを見据える瞳には、憎悪に似た色合いが溶け込んでいる。
コルナの視線は、歓呼にうれしげに応じる若い王族を通り抜け、
別の者の姿に向けられていた。
 そんな公子を、白髪の老公は測るように見つめていた。かつて、
先代に同様に告げられた時の自分と、姿を重ね合わせながら。陽
は傾き、周囲の風景には暗色が混ざりつつあった。
 跡継ぎが実子であっても、血のつながりはないと宣告するのが、
シムス公家の慣わしだった。実子でないと言われた結果、公子が
血脈への強いこだわりにとらわれるのは、よくある事態である。
王族との対比も、しない者の方が少ないかもしれない。
 シムス公家の当主であれば、機会さえ選べば、王位を得るのは
可能かもしれない。けれど、獲得した権力を安定して保持するた
めには、単に王座につくのとは較べものにならない勢力と沈着さ、
冷徹さが必要となるだろう。そして、それだけの能力を持つ者の
ほとんどは、王位を得る意味に疑問を抱くのだった。
 しかし、コルナの場合は。シムス公にも、息子が見据えている
のがクランではなく、王位を捨てて出奔した王子なのだとわかっ
ていた。
 王族と張り合うのはいい。だが、この息子は、ルーン王子に惹
きつけられた結果として、反発しているのではあるまいか。コル
ナの進む先が見えず、老公の胸には戸惑いが拡がっていた。
 もしや、間違った選択をしてしまったのではないだろうか。惰
弱に見えた二番目の候補のロクトこそが、公家の長に適任だった
のではないか。公位継承の失格を宣告し、自死を迫ったとき、ロ
クトは穏やかな表情を見せていた。当時のシムス公は、それを自
分の決断が正しい証だと考えていた。けれど……。 
 今となっては、別の後継者候補を育てるのは困難である。とな
れば、監視を続けなくてはならない。まだ、死ぬわけにはいかぬ
な。兵達の歓声に応じ続ける若い王族は、薄影に包まれつつある。
新たに国王となる少年の姿を眺めつつ、白髪の公は息子とは別の
覚悟を固めていた。


 出奔した王子の進路は、エームの勧めを容れて北方へと転じら
れた。南方へ向かったのは敵方に把握されているため、逆を行こ
うというのである。シノンらは、敵の目を欺くためにこのままシ
ンク近くまで赴き、王子はエームと共に裏道を進んで、バースの
東方へ抜けると定められた。
 もちろん、諜者達がルーンの護衛を行っている。それと悟られ
ては行く手が明らかになってしまうため、同時に各方面に攪乱役
の者達も散っていた。
 三日目の昼過ぎ、人通りのない細道で騎行を続ける主従に、近
付く一騎があった。馬上にいる外衣姿の人物は、まとめた金髪を
頭布に収めたメイナである。舞姫でもある彼女が、マオに対して
王太子出奔の情報と、護衛の依頼を伝達したのだった。
「メイナ。もう踊りは教えてもらえそうにないな」
 ルーンの言葉に、馬上の娘はにやりと笑う。開けた視界の中を、
風が穏やかに通り過ぎている。
「王太子たるのをやめたのなら、二人で旅芸人でもやらないか。
そうすれば、踊りを教えられるし、あたしも剣技を高められる」
 メイナの提案に、くすんだ金髪の若者は残念そうに首を振る。
「そういうわけにはいかないよ。皆の同行を断っているしね」
「そうだよ、メイナ。優先権は、記録者たるこの身の方にこそあ
る筈だ」
 冗談めかしたエームの言葉に、舞姫は怒りを閃かせた。
「自分が望むものを得られないからって、人の邪魔をするのか」
 メイナの真剣な口調に、普段はなごやかさを崩さない諜者の長
が、すっと目つきを鋭くさせる。
「ルーン様の意志を尊重したまでです」
 交差する視線に込められた意味を、ルーンは理解できていない。
すぐに、諜者達は雰囲気をやわらげた。王子の黒馬が、ふっと安
堵したような吐息を漏らす。 
 ルーンがこの国をひとりで出て行きたがっているのは、彼女に
もわかっている。総てを背負おうとしていたのだから、それも仕
方ないのだろう。心の穴を埋めてくれる存在と、別れなくてはな
らない。つらくはあったが、これまでに得たものを失うわけでは
なかった。
 くすんだ金髪の王子は、ちょっと申し訳なさそうな表情を踊り
の師匠に向けた。
「引き受けておきながら、中途半端に放り出すのはすまないが、
望むように生きてくれ。マオが、きっと歓迎してくれるだろう」
「ああ。好きにさせてもらう。……元気でな」
「メイナ、君も」
 携えてきた布袋をエームに渡すと、舞姫は未練を感じさせない
風情で馬を走らせはじめた。それが強がりであるのは、メイナ自
身がはっきりとわかっていた。
 袋の中にあったのは、旅行用の装備と、最新情報を書き記した
グーリーの書状だった。エームが読み上げた書状の内容は、宰相
によって公表された、クランを後継者に指名するという王の遺言
の概要に、有力者達の反応と、王都の情勢などだった。その中に、
一つの訃報があった。
「そうか、ターニャ殿が」
「はい。自死とされているそうですが、実際のところは……」
 宰相夫人の哀しみに触れた若者達は、ラエルによって殺された
のではないかという疑念にとらわれていた。
 息をついたルーンが、口にしたのは別のことだった。ターニャ
を憐れんでも、死者を苛立たせるだけだと考えたためである。
「それにしても、てっきり弑逆の大罪を犯したと、盛大に非難さ
れると思ってたのにな」
「はい。……宰相殿には、複雑な心持ちがおありなのかもしれま
せん。ルーン様を徹底的に不利な立場に追い込むのは簡単だった
でしょうし、命を絶つ機会もあったと思います。けれど、渋りな
がらも立太子を認め、行動を妨げなかったのですから」
 ちいさく首を振って、王子はエームとの話を中断させた。宰相
の心裏に迫るには、自分には人生経験が不足している。ルーンは
そう考えたのだった。
 舞姫が届けてくれた旅装に着替えた王子は、革鎧を包むように
黒麻の上着を身に着け、腰帯に無銘の剣を吊すという姿である。
革で造られた靴も一般的なものであるし、背負う布袋にも変哲は
ない。旅人だといって、おかしなところはどこにもなかった。革
鎧の中には、換金が容易な金銀の棒が、幾つも仕込まれてはいた
けれど。
 後は雰囲気であるが、その穏やかな立ち居振る舞いから、王族
だと考える者はいまい。せいぜい貴族の使いの者か、世慣れしな
い商家の息子といったところだろうか。それはそれで、盗賊なり、
詐欺師なりを呼び込むかもしれなかったが。
 馬車でもなければ、国境はなんの障碍もなく通り抜けられる。
笑顔のエームに見送られて、ルーンは徒歩でバース公国領内へと
入った。いや、これからの彼は、名乗りをレイに改めると決めて
いた。さすがに、ルーンの名のままでは、危険が大きいと判断し
たためである。
 レイにとって、カルム国外に出るのは今回がはじめてとなる。
けれど、街道にそれほど変わりのあろう筈もない。旅人の足取り
は、秋風に後押しされているように軽やかだった。


 ダームの町は、バース公国の東方に位置している。バースの都
と、北東のハノームの都へ、そして南方のカルムへと続く街道が
集まっている割に、賑やかさは見られない。その理由は、やはり
盗賊が多く、商いが活発でないせいだろう。
 ハノーム王国では、特にシーナ以西で大規模な盗賊団による被
害が多く、バース公国では中規模な盗賊が出没するという。カル
ムで盗賊や追い剥ぎがあまり見られないのは、取り締まりが厳し
いためか、土地が豊かなためになり手が少ないからか。
 ハノームでもバースでも、統治者の出費が税収を上回るようで、
増税や臨時徴税が頻繁に行われている。課せられる酷税が民のや
る気を損ない、税収がさらに細り、同時に治安が悪化するという
悪循環が続いているように思える。まあ、流浪の旅人には必要の
ない視点ではあるのだけれど。
 ダームには市壁がなく、木製の防柵が周囲に張り巡らされてい
る。外からでも見渡せる街並みは、様々な様式が混じっていて、
眺めていて退屈しない。カルム風の造りも、少なくはあるが見受
けられた。要衝に位置するためか、旅人には優しいようで、レイ
は審査もなく町に入りこめた。
 辺りを見回した新米の旅人は、ひとまず宿屋に足を向ける。角
張った石造りの建物は、いかにも頑丈そうな姿だった。
「いらっしゃい」
 小太りの女性の喉から発せられた、張りのある愛想の溢れた声
が、暖かい空気と共にレイを迎えた。調度はしっかりとした造り
で、だいぶ年季の入った宿屋のようだ。
  室内の暖かさは、食堂から見える暖炉の活躍によるのだろう。
初秋の時期から暖房をしているからには、ここの主人は寒がりな
のかもしれない。
 宿を訪れた細身の若者は、穏やかな風情を漂わせている。こち
らも年季の入ったおかみさんは、にこやかな笑みを浮かべていた。
「一人なんだけど」
「何泊ですか」
「とりあえず一泊でお願い。明日以降は、まだわからないや」
 黒板に目線を落としたおかみさんが、承諾の頷きを一つして、
問いを続けた。
「旅の方ですか」
「うん。カルムから来たんだけど、急がない旅なんでね。この町
では、なにか仕事はありそうかなあ」
「そうだねえ……。腕が立つのなら、用心棒なんてどうだい」
 にこやかな視線が、客人の帯剣に向けられていた。この地では
商人でも剣を携行しているが、長剣となると少しめずらしいかも
しれない。
「なにか、揉め事でもあるのかい?」
「いや、そんな派手なんじゃないんだけど、世の中物騒でしょう。
隣の酒場の用心棒が、酒の飲み過ぎで倒れちゃって、急いで探し
ているんだよ。隣っていっても、あたしの兄さんがやってるんだ
けどね」
「へー。じゃあ、その用心棒が元気になるまでってことか」
「飲んだくれでも腐れ縁で、辞めさせるわけにはいかないみたい
でね。紹介しようか」
「うん、頼めるかい」  
 にっこりと頷いたレイは、おかみさんによって同じ建物の裏手
側にある酒場へと連れられていった。
 宿屋よりも更に調度が古びて見えるのは、取り込まれている光
量の差だろうか。杯を磨いている、既に初老の域にある人物が、
この酒場の主人だった。宿屋のおかみさんが、若者を連れてきた
経緯を説明する。
「腕は立つのかい」
 目を細めて、値踏みをするかのような視線を投げてくる。旅の
剣士は、穏やかな表情と口調で答えた。
「自信はあります」
「来い」
 酒場の主人は、奥へと回るように顎で命じた。手を振っている
おかみさんに一礼して、レイが後に続く。
 階段を上がる時、二階の奥まった部屋から投げつけられる視線
が気になったが、そのまま老人の後に続いて部屋に入る。あっさ
りと、旅立ち以来はじめての仕事が見つかった。
 こんなに故国から近い場所で安住するわけにはいかないので、
短期であればちょうどいい。酒場の用心棒をする日が来るとは想
像していなかったが、これからのことをじっくり考えるにはぴっ
たりの仕事に思えた。今や、くすんだ金髪の若者には、具体的な
目標はなにもないのだった。


 元王太子がハノームへの国境を越えたのは、出奔から半年が経
過した春次月の初めのことだった。
 最初の仕事だった用心棒は、酒場の踊り子に言い寄られてしま
って、ほんの五日でくびになってしまった。酒場での仕事がきつ
いから連れて逃げて、というのなら別の展開もあったかもしれな
い。お金が貯まったので一緒に商売でもしないかという誘いでは、
レイは応じるわけにはいかなかった。断ろうとして押し問答にな
ったところを酒場の主人に見つかって、それまでである。
 その後に携わった仕事は、煉瓦運び、庭師の手伝い、隊商の用
心棒に、老女の世話役だった。中でも長く続いたのは、寝たきり
となっている老婦人の話し相手である。給料は食事のみという条
件だったので、仕事というより居候に近かったが、祖父母を持っ
ていないレイにはくすぐったいような体験だった。
 故国の色々な話をすると、若い頃にカルムを訪れたという老婦
人はとても喜んでくれたし、聞かせてもらった昔話はレイにとっ
て新鮮だった。それだけに、老婦人の娘の夫が出稼ぎから戻って、
財産目当てと間違われて追い出されたのは、なんとも残念だった。
 老女の住む家があったのが、バース公国の北端付近の村であり、
自然と旅人の足は北の隣国、ハノーム王国へと向けられたのだっ
た。
 シーナまでは、徒歩で三日の行程である。目に映る人々の暮ら
し向きや風景を、記憶の中の情報官報告と較べながら歩けば、退
屈とは無縁でいられる。
 城市シーナの南方には、荘園が点在している。その中には、旅
人のために宿泊所を設置しているところもあって、旅はしやすか
った。屋根と壁がある程度の施設なのだけれど、農民に追い払わ
れたり、木陰で野宿するのよりはだいぶましである。そして、そ
んな施設を使うような者は、まず盗賊に狙われはしないのだった。
 この辺りの荘園は、騎士身分を持つ者に所有されている。ハノ
ームとカルムでは、騎士という言葉の意味は大きく異なっていた。
 カルムでは、騎士というのは騎乗の兵士である。歩兵よりもな
にかと優遇されるが、身分としては変わるところはない。
 対してここハノーム王国では、歩兵は民から徴兵された者達で、
戦闘階級の騎士とは区別されている。そして、騎士の中にも区分
けが設けられ、最上位の者は黒騎士、続いて青騎士というように
序列があり、戦闘だけでなく行政も、この階層構造の中で行われ
るという。専任の行政官はいるのだけれど、高位の騎士の補佐的
な役割に留まっていた。
 騎士達は王家に仕えており、統治者達は形として一体となって
いる。カルムの、各地方が独立性を維持する在りようとは、かな
り違いがあった。もっとも、外形としては一体でも、中がまとま
っているかどうかは別問題だけれど。ランスという有力な黒騎士
が所有する荘園を抜けて、街道は城市シーナへと続いていた。見
渡せる位置にある耕地は、そろそろ整えられつつあるようだ。
 春の陽射しは、だいぶ柔らかみを帯びるようになってきている。
緩やかな風にも、もう冷たさは感じられない。ゆっくりと街道を
進んでいくと、やがて目指すシーナの姿が見えた。城壁の中に、
方形を組み合わせたような城の姿が見える。ハノームの西部を束
ねるこの城市は、規模的にはかなり大きそうで、城壁の外にまで
家々が溢れていた。
 都市に人が集まるのは、このシーナの場合はあまりいいことで
はなさそうだ。周辺の農民が耕地を捨てて、流入してくる場合が
多いためである。それで食べていければいいのだろうが、困窮す
る者が多いというのだ。農業生産の方から見ても、農夫が減るの
は好ましくない。
 櫓を備えた市門は、攻城戦の際には攻め手が集中する場でもあ
り、なかなかに堅牢な造りだった。ただ、巻き上げ式の扉は開け
放されていて、門衛は一人のみ。厳重な警戒とは言えないだろう。
 それでも、見慣れない若者の姿に気付いた門番は、立てかけて
あった槍を手にして誰何した。既に、彼我の距離は長槍の長さに
満たない。ここまで近付いてから槍に頼ってもしょうがないよう
な……という思考は、旅の剣士は顔には出さない。
「カルムから来ました、レイと申します。旅の途中で、何日か逗
留しようと思っています」
 うららかな陽射しの中で、短い沈黙が旅人と門衛の間に流れた。
「……それだけか」
「は?」
 複雑な表情を、その衛士はしていた。なにか他に告げるべきこ
とがあっただろうか。考えを巡らせているようすの若者に、門番
は立てたままの槍を押し出した。
「ここは通せない。失せろ」
 なぜか、恨みがましい表情で睨みつけてくる。天を向いたまま
の槍が脅威になる筈がない。臆するようすもなく穏やかに理由を
訊ねる旅人を、門衛は疎ましく思ったようだ。慣れない手つきで
槍を構えようかという動きを見せたため、やむなくレイは退却し
た。戦って負けるとは思わなかったが、捕り物の対象になるのも
気が進まなかったためである。 
 なんとしても入城したいわけではないが、この城市で糧食を補
給するつもりだったレイは、どうしたものかを迷ってしまった。
入城する方策を考えるか、東にあるハノームの王都へ向かうか。
あるいは、別の国へ抜けてしまうか。
 考えながら歩いていると、春の陽射しの中で、草の緑が眩しく
映った。野鳥の軽やかな鳴き声が、風景にのどやかさを加えてい
る。
 新芽が吹きはじめた樹の近くに、若い旅人は腰を下ろした。通
り抜ける風が、春の活気を運んできていて心地いい。寝ころんで
蒼い空を眺めていると、いつしかレイは寝息を立てはじめていた。
 
 ……暗闇の中で、かつて夢で見た、母親のような気配が感じら
れていた。懐かしい、柔らかな感覚。その中に浸っていたかった
が、意識はやがて覚醒へと向かいはじめた。頬に、微かな風が感
じられる。
 ゆっくりと目を開くと、真上から覗き込んでいる顔があった。
空から降ってくる溢れるような光が、小柄な身体で遮られていた。
紅い髪の少女のふっくらとした頬には、自然な笑みが浮かんでい
る。
「おはよう」
 親しみが感じられる口調に、レイはあまり考えもせずにあいさ
つを返していた。
「おはよう」
 肌に感じる柔らかな空気は変わっていない。草の寝床から、レ
イはゆっくりと上体を起こした。しゃがんでいる髪を束ねた少女
と、目線の高さが同じになる。年の頃は、十四、五といったとこ
ろだろうか。
「ここは、シーナの城外よ。もうすぐ入城が締め切られちゃうけ
ど、今晩は野宿?」
 どこか楽しげな響きが、レイの耳に心地よかった。頭の中で思
考が回りはじめ、ここにいる理由が思い出された。
「ああ、そうか。城市に入ろうとしたら、追い返されたんだった」
「賄賂を渡さないからよ」
 あっさりと、紅毛の少女が謎を解き明かした。
「賄賂? あぁ、そういうものか」
 わかってしまえば、門衛のなにか言いたげな態度も納得がいく。
情報官報告だけではわからないこともあるなあ。レイはぼんやり
とそう考えていた。
「二十ハンナもあればいいんじゃないかな。よく知らないけど」
「へー、そんなんでいいんだ」
 二十ハンナといえば、金貨二枚である。酒場の用心棒なら、二
日分の給金にあたる。賄賂というほどの金額ではない。
「あ、でも、受付を締め切られちゃったら、それじゃあ駄目ね。
時間外に入ろうとしたら、もっと必要かな」
「ふーん」
 やはりレイには、金銭感覚が未だ身についていなかった。物価
はだいたいわかるのだが、金で窮した経験がないためだろう。特
にその金額が惜しいという思いは、旅人の心の中に生じていなか
った。
「ねえ、十ハンナで、抜け道から入れてあげようか」
 少しだけ声を潜めて、紅毛を後ろ頭で束ねている少女が提案す
る。軽く首を傾げた彼女の瞳には、悪戯っぽい光が浮かんでいた。
「ふむ」
 レイの頷きに、少女がにっこりと笑った。
「はい、じゃあ、決まりね。あたしはジーノ、よろしく。そこの
穴から地下水道を抜けて、城内に入れるの。ついて来て」
 ぴょんと立ち上がりながら、説明が行われた。
「ああ。ぼくの名はレイ」
 のんびりと立ち上がると、紅毛の少女が歩き出した。足取りに
同調して、紅毛の束が軽やかに揺れる。その懐からなにかが落ち
たのを見て、レイは彼女を呼び止めた。
「ジーノ、落としたよ」
 しゃがんで草の中から拾い上げると、薄い青色の宝石が填って
いる、見覚えのある耳飾りだった。親しい友人の蒼い瞳が思い出
される。
 一気に間合いを詰めた紅毛の少女が、レイの手からそれをもぎ
取った。なかなかの足捌きに感心していると、彼女はちょっと困
った表情になっていた。
「いや、もらい物よ。うん」
「聞いてないけど」
 安心させるためにそう言うと、慌てたようすだった少女がちい
さく深呼吸をした。その所作からは、子供っぽさが滲んでいた。
「さあ、行きましょう」
 改めて宣言して、紅毛の少女が歩き出す。見送るレイの脳裏に
は、まだ夢の中で感じた気配が残っていた。
 振り返って見つめてくる少女の顔には、柔らかな笑みが浮かん
でいる。後を歩きながら、流浪の王子はなぜか懐かしい雰囲気を
感じていた。
(了)


祖国のために、できること 8.王太子の選ぶ道 (二)


 公領都の館に、コルナ・シムスの姿はあった。公子のごく近く
に跪いているのは、フォーリ家の当主であるリクトゥだった。髭
面の諜者は、王都からの報告事項を運んできたところである。
「……というわけで、ロムル家のグーリー殿は、内通を拒絶しま
した。タクト殿は再考を促すつもりのようですが、状況は動かな
いでしょう。更に圧力を強めるためには、タクト殿の夫人への働
きかけを考えなくてはなりません」
 室内には多くの灯明が配され、夜とは思えぬ明るさとなってい
る。茶の髪の公子は、唇を噛んで苛立ちをこらえていた。利で釣
ろうとする際には、内通工作がうまくいかなくても仕方がない。
だが、相手はロムル家の者ではないか。一族の者すら御せぬとは、
タクトはいったなにをやっているのだ。……とはいえ、報告者を
怒鳴りつけるわけにはいかなかった。諜者であるリクトゥの前で
は、父親に対するのと同等の自制を心がけるべきである。
「そうか。だが、タクトの妻の……キーラと言ったか。あの者を
傷つけるわけにはいかん。ロムル家の長の妻であるだけでなく、
父公が気に入っていた者の娘なのだからな」
 髭面の諜者が、無言のうちに頷く。話題に上がっている兄妹の
亡父であるツートは、気の利く小者としてシムス公に愛されてい
た人物である。グーリーへの脅しは、実行するつもりのないもの
だった。あくまでも現段階では、だけれど。
「開戦の気配が濃くなっているからには、敵方の内情を得ておき
たいが、まあ仕方ない。諜者は、無事に潜入しているのだろうな」
「はい。ただ、少数の側近が権限を握る状態は変わっていないよ
うです」
 リクトゥの言葉に、公家の跡取り息子が頷く。会話の合間に流
れる沈黙には、とげとげしさは含まれていなかった。灯明が立て
るちいさな音が、幾つも重なって聞こえている。
 明るい茶の髪の公子は、眉根を寄せて苛立ちを抑え込んでいる
ようだ。やがて、問いが発せられた。
「リクトゥよ、やがて起こる戦いが終わったとき、シムス公家は
更なる力をつけているだろうか」
「はい、どちらに転んでも、いよいよ盤石な態勢を築けるでしょ
う」
 訊ねたコルナは、将来の王位奪取を視野に入れ、その足がかり
を得られるかどうかを考えている。対して、フォーリ家の長の返
答は、現体制下での勢力伸張についてに限定されていた。
 想定通りにクラン側が勝利すれば、新王の許で大きな影響力を
握れるだろう。仮に、加担している陣営が敗北しそうな場合は…
…。宰相の謀略を言い立てて、シムス公家単独で王太子と講和を
結ぶ。それが、コルナの父親が考えている筋書きだった。
 どちらかの勝利に家運を賭けるのは、ひどく愚かな振る舞いで
ある。そして、内乱を厭うルーンは、止戦を求めれば必ず応じて
くる。父公の読みを、コルナは理解していた。
 けれど、秘かに王位を目指す公子には、混乱が続く展開が望ま
しい。その可能性を探りながらも、コルナは思考の内容をフォー
リ家の長に話そうとは考えない。跪いているリクトゥは、シムス
公の信頼が厚い人物である。能力と見識は認めつつも、父親に報
告される危険を考えると、迂闊な相談はできないのだった。
 黙考する公子を、髭面の諜者がじっと見つめている。明るい茶
の髪の公子を見つめる表情は、普段のリクトゥに似合わぬ柔和な
ものだった。
 シムス公領では、内々に戦備が整えられている。リクトゥも、
忙しく王都との間を行き来していた。いざ開戦という際には、シ
ムス公も公領都に戻る予定である。クランもまた西下し、この地
が反王太子勢力の根拠地となるのだった。
 総ての行動については、宰相であるラエルを通じた王命に従っ
ているとの体裁が取られている。シムス公家としては、その点に
抜かりはなかった。


「ヨート様、前方にいるのはシャール公の騎列のようです」
 馬を寄せたマルトゥースが、主君に声をかける。公同士が街道
で接触すれば、あいさつを交わすのが通例である。シムス公とサ
スル公のように、幾代にもわたって怨恨が重なった組み合わせの
場合は、その限りではないが。
 乗馬の脚を緩めさせたミトルナ公は、ちいさく息を吐き出した。
気乗りがしないのだと、マルトゥースにはわかっている。しかし、
他ならぬシャール公が相手であるからには、接触するしかなかっ
た。
 シャール公の側でも気付いたようで、やがて三騎がミトルナ公
の騎列を目指してきた。先方には、こちらのような迷いはないの
だろう。
「奇遇ですな、ミトルナ殿。所領に戻られるのですか?」
 公同士の会話では、公という称号は外して呼びかけられる場合
が多い。頷いたミトルナ公は、交渉用の表情をとっていた。
「ええ。シャール殿もですか」
「なにやら、騒がしくなってきましたからなあ。引き締めておこ
うと思いまして」
 シャール公の笑みに、屈託はない。ミトルナ公とは、共に王太
子陣営に属する間柄である。それに、もう十年来、どこで挙兵が
行われてもおかしくない状況が続いており、各公の間にも慣れが
出てきているのだった。
「戦いが近いと考えられているのですか?」
「さて、どうでしょう。ですが、公領を預かる身としては、備え
はしておきませんとな」
 ミトルナ公が争いを厭うているのは、有力者のだれもが知ると
ころである。シャール公の言い回しは、微妙なものとなっていた。
鞍の下で、栗毛がわずかに身を揺する。
「武力で王権を得ようとするのは、愚かしい振る舞いです」
 王太子の養育者の呟きに、シャール公が微かに唇を歪める。そ
う考えるのなら、クランを説得すればいいではないかと思いなが
ら。
 王子を引き取った以上、跡目争いの際には状況を主導しなくて
はならない。シャール公にとっては常識的な帰結なのだが、ミト
ルナ公の言行を見れば、違う考えもあるようだ。確かに幼い王子
が都を追われた時点では、王権争いに加わる可能性はごく小さか
っただろう。だが、想定はしておくべきだったのではないか。シ
ャール公は、若き王太子に同情していた。
「あの若者が王位を、権力を望むだけなら、話は簡単だったので
しょうな」
 そして、預かったのがミトルナ公でなければ……。続く言葉は、
喉までで止められた。口にしても、この場合はまったく意味がな
い。
 沈黙しているミトルナ公は、迷いを捨て去れていないようだ。
夏の終わりが近づき、風と陽光から熱気が失われつつある。手綱
を揺らしながら、シャール公は意識してなごやかな表情を作って
いた。
 側に仕えるマルトゥースにも、主君のためらいの理由はわから
ずにいた。初見の折りに目にしたという王子の激情が、今でも公
の判断を縛っているのだろうか。ともあれ、開戦となれば、ミト
ルナ公家はどうあっても無関係ではいられない。マルトゥースは
独断で戦備を整えはじめており、公はそれを黙認している。白髪
の老騎士は、公領に戻ったらシャール公を訪問し、協調について
の打ち合わせをしようと考えていた。
 オール王が倒れて以来、カルムに緊迫感が漂うのは、もはや日
常的な状態となりつつある。そのまま、夏が過ぎていった。


「ルーン様」
 初秋の空を眺めていた王太子の背後に、エームがついた。王子
は外を見るとき、窓まで歩み寄るくせがついている。東宮の広々
とした居室に、未だなじめていないためである。
 呼びかけに振り返った太子の顔には、いつもの柔らかな表情が
浮かんでいる。
「お父上が亡くなられたようです」
「そうか……」
 父王が死んだと聞いても、王太子に取り乱すようすはない。今
朝届けられた、クランがシムス公領に到着したとの報せと重ねる
と、破局の時が近づいたようであった。
 東宮に移っても、ルーンの居室には母親の肖像が飾られている。
オール王の死の報せを、かつての寵姫はどう感じたのか。リオの
哀しげな視線が、室内に投げられていた。
 クラン陣営との講和は可能だろうか。最終的には王位を譲って
もいいから、内戦は防ぎたい。王子の望みを知る者は、エームも
含めたごく少数しかいなかった。 
「医師が死亡診断の準備をしたとのこと。もしも遺言が偽造され
でもしますれば、いよいよ苦しい状況になりかねませんが」
「遺言か。それはもう仕方ないが、せめて最後にあいさつはした
い。父上の居室に入れるかな」
 軽く首を傾けての王子の問いに、エームは大きな動作で頷いた。
「警備が緩んでいるようで、医師の居室からなら入れると思いま
す。参りましょう」
 応じるまじめそうな表情が、いつもよりも硬く感じられる。エ
ームの先導によって、父子のひさしぶりの対面が行われようとし
ていた。


 薄暗い寝室は、どこか寒々としていた。皺一つない寝布は、死
後にかけられたものなのか、横たわる者の頭部までを覆っている。
それにしては、少し古びた感じがしたが。
 エームは、扉のところで周囲のようすを窺っている。謀略を行
ったとの誹りを避けるためには、見つかるわけにはいかない。し
かし、王の居室付近には人の気配はまるでなかった。
「父上……」
 沈痛な面持ちのルーンが、白布に手をかける。ゆっくりと引き
上げた時、息が呑まれた。不審そうに見やったエームの視界の中
で、軽く震えている王太子が一気に寝布をまくり上げた。
「ルーン様、いかがなさいました」
 押し殺した問いを放つエームの目に、国王の死体が……ある筈
のところに横たわる、木製の人形が映った。ところどころに黴が
見られるからには、今日になって置かれたものではあり得ない。
「どういうことだ」
 呟いたルーンの目に、やがて怒りの色が閃いた。オール王は、
ラエル以外との謁見を拒み続けていた。となれば、こんな状況を
つくり出せる人物は一人しかいない。
「宰相殿の仕業か……」
 振り向いた王太子の一歩は大きい。エームは、再び主君の目的
地へ向けて先導をはじめた。


「ラエル。聞きたいことがある」
 いつになく、細身の王子の口調が鋭い。人の居室に断りもなく
入り込むなど、ルーンにとってははじめての振る舞いだった。
 宰相の居室には、ルーンの住む東宮の部屋と較べてもなお豪奢
な装飾が施されている。さすがに中央奥の、ずっと使われていな
い国王の在所には及ばないが。
 王太子の侵入時、室内にいたのは婦人が一人のみだった。今も
容色はそれほど衰えていない、ラエルの妻女である。
「ルーン様……。夫は不在にしておりますが」
 突然の太子の訪問に、宰相夫人のターニャは驚いたようすだっ
た。無理もない。なにしろ、まもなく夫との間で闘争を繰り広げ
そうな人物である。
「悪いが、探させてもらいます」
 一礼したルーンは、制止を無視して奥の間へと向かう。駆け足
の王太子の後にエームが続いて、ターニャの妨害を防ぐ壁となっ
た。書斎に宰相の姿がないのを確認し、ルーンの手が隣の部屋へ
通ずる扉へとかけられる。
「やめて」
 宰相夫人の鋭い叫びに構わず、ルーンが一気に扉を開く。部屋
に踏み込んだ王太子の顔を、柔らかな視線が見下ろしていた。
「はは…うえ?」
 寝室の壁にあるのは、間違えようもない、ルーンの母、リオ・
レイ・ミオクの面差しである。居室にかけられているのとは違う、
初めて見る肖像画だった。薄物を纏った姿は、どこか艶めかしい。
「ふはっ、ふぁははは」
 エームに抱きとめられるように束縛されていた宰相夫人の口か
ら、異様な笑声が立つ。
「わかるようだね。そう、あんたの母親さ。その女が、あいつの、
ラエルの想い人なのさ。寝室に、女の肖像画を飾るだなんて」
 吐き捨てるようにターニャ。憎しみの炎が眼窩に満ちる。
「ラエルが……、母上の恋人だったというのか……」
「恋人だなんて、とんでもない。いつだったか、あいつが酔い潰
れたときに聞いてやったのさ。片思いで、しかも二十五の時の初
恋だったんだと。陛下を弑したのも、その息子のあんたを除こう
とするのも、みんなあの下らない男の横恋慕が原因なのさ。とん
だ笑い話さね」
 再び耳障りな哄笑が寝室に響いた。しばらく黙考していたルー
ンが、穏やかな口調で訊く。
「ラエルは、いつ父上を手にかけたのです」
「王子達を殺した後も、薬で喉を潰していたぶっていたようだけ
れども、弑したのはあんたが王太子になった頃だったろう。オー
ル王を殺したのは、愛しい女を手にした者への憎しみからさ。そ
の子供達を殺したのは、邪魔だったからじゃないのか。
 ……けれど、あんたは違う。あんたへの思いは、憎しみだけの
筈がない。なんといっても、あの女の息子なんだ。その顔には、
はっきりと面影が残っているのだからな。もっとも、ただで殺す
には惜しいってだけなのかもしれないけれどね」
 ため息をついたルーンを、宰相夫人が嘲笑う。ターニャはふと、
腕を掴んでいたエームの哀れみの籠もった視線に気づいたようだ。
一瞬で再び激し、叫びを発する。
「わかったふうな顔をするんじゃないよ。あんたに、あんたなん
かに、他の女の肖像を見ながら抱かれたあたしの気持ちがわかる
ものか。あたしは、だからあいつの子供はみんな……」
 泣き崩れるターニャ。宰相夫人が、懐妊のたびに流産をくり返
していたというのは、王宮では公然の秘密だった。その泣き顔か
らは、この婦人の夫に対する感情が憎しみだけでないのが察せら
れる。かけるべき言葉を見つけられず、ルーンは部下と共に裏庭
へと出た。
 初秋の風は、裏庭にのどやかな雰囲気をもたらしている。微風
に吹かれながら、ルーンの思考は回転をはじめていた。
 こうなれば、宰相を誅すべきだろうか。殺せば、それはクラン
陣営との開戦を意味する。とはいえ、ラエルを殺さなくとも、こ
のような事情があるのなら、もはや交渉による決着は不可能に思
えた。
 ルーンはこれまで、事態を打開するには、宰相と話をする以外
に手段はないと考えていた。従弟と交渉ができるとは思えないが、
ラエルとなら論理的に落としどころを見つけられそうな予感を持
っていたのである。けれど、それは大きな誤解だったようだ。自
分の考えの甘さを、王子は痛烈に実感していた。
 それにしても……、とルーンは思う。
従弟であるクランが王座を目指す動機は、ルーンを殺そうとし
て、そのために命を落とした父親が、逆にルーンに謀殺されたの
だと思い込んでの復讐の念からだ。支援する宰相の理由は、かつ
て恋慕した相手と、その女性を手にした者の間に生まれたルーン
への憎しみからのようである。
ラエルは、恋しい女を我がものにした主君を弑しており、更に
は王子達までも毒殺した。総てが、個人の憎しみや恨みの感情だ
けで動いている。ルーンは情けなさで、危うく涙が滲みそうにな
った。だが、動機はどうあれ、動員される軍勢は現実の力を持っ
ている。
ルーンが宰相の所業を明らかにして兵を募れば、ミトルナ公、
シャール公のみでなく国軍の大半もこちらについて、クラン側を
凌ぐ兵力が集まろう。当然、クラン陣営はルーンの告発を否定し
てくるに違いない。逆に、父殺しの罪を被せてくる可能性もある。
 戦うとなれば、勝算は胸の中にあったが、シムス公をはじめと
する有力者が味方するクランを一蹴はできない。また、劣勢とな
れば、宰相らが隣国の兵力を呼び込む場合もあり得た。国を二分
した戦いは、短期で決着はつけられないだろう。凄惨な内戦は、
禍いを将来に残す。恨みに縛られて、人々がどうして安んじて生
きられよう。
 宰相のこれまでの施策からも、漏れ聞こえるクランの言葉から
も、少なくとも極端な圧政を行う懸念は感じ取れない。ならば…
…。
 考えながら歩いていると、行く手に春風の祠が見えてきた。引
き込まれるように近寄り、祠と墓石と、そして白木蘭の若木の前
に跪く。脳裏には、晒された首を見つめる幼い自分の姿が浮かん
できた。隣には、心配そうな表情のミアナが座っている。
 遠くから、師の懐かしい声が聞こえてくる。私の言動に縛られ
ているのだとしたら、それはいけません。人それぞれに、役割は
違うのですから。
 でも、ほんとうにそうするのが正しいと思うんだよ。縛られて
いるのだとしても、ホアンの想いによる縛めで、幸せだと思うん
だ。
 幼い自分が、師の声に応える。少し哀しげな風情が、ルーンの
周りを取り巻いていた。
 ホアンが生きていて、近くにいてくれたなら、違う行動を求め
られていたのかもしれない。そう思いながらも、王子の胸に悔い
はなかった。
 ……親しい気配の中で、ルーンは師と、黒髪の侍女に別れを告
げた。目を開いたとき、王太子の心は決まっていた。
「でも、なにをして生きていこう。ミアナ、ぼくが死んだら、き
みは悲しむよね。もし……、もしもミアナが生きていたなら、一
緒に……」
 頬を涙滴が伝う。色付きはじめた樹々が、くすんだ金髪の若者
をやさしく見下ろしていた。
 やがてルーンは、涙を拭って立ち上がった。離れた場所に跪い
ていたエームに、柔らかな笑みを投げる。
「エーム。ぼくがどうしようとしているかわかるかい?」
「はい。尊いご判断だと思います」
「残念だけど、英雄譚はこれで終わりだな」
 主君の言葉に、エームの頬が緩んだ。
「どうか、我々もお連れください。間違いなくお役に立てるもの
と思います。そうすれば、続きが書けますし」
 ルーンの顔が綻ぶ。染み入るような笑みは、エームの心に深く
刻み込まれた。
「どちらかというと、著述のためが主な目的のようだね。理由は
どうあれ、連れて行くわけにはいかないよ。カルムは変わるだろ
う。だが、どんな世でも、有能な人材は必要だ。一時は疎んじら
れようとも、風向きはまた変わるさ。……それに、大人数での出
奔じゃ、目立ち過ぎて見つかっちゃうって」 
 付け足しの言葉に、エームがめずらしく吹き出した。笑いを収
めて主君に問いかける。
「では、他の者にはいかが伝えましょう。皆、心配すると思いま
すが」
 すこし考えたルーンは、心を決めて指示を発した。
「シノンには、君の見た総てを話してくれ。で、他の者へ話す内
容と、ぼくの出奔を公表する時機は任せると伝えてほしい」
「マオ殿には?」
「後は頼むと。いや、また会おうと伝えておいてくれ」
「エレナ様と、マルトゥース様には」
「すまない、と」
「わかりました」
 平伏したエームが走り出す。祠をもう一度見やって、ルーンは
足を踏み出した。どこか、ここでない遠くを目指して。


 主君からの伝言を聞いたシノンは、すぐさま古参の同僚達をか
つての王子の居室へと呼び集めた。ルーンの想い出の詰まったそ
の部屋は、今では王太子の部下達の控えの間となっている。
 シノンは隠さずに、全員に総ての事情を説明する。衝撃と落胆
が、ルーンの腹心達の間に広がっていた。
 王子の考えに触れていたため、シノンに大きな驚きはなかった
が、胸の喪失感の量とは関わりがない。けれど、欠損感に長く捕
らわれているわけにはいかなかった。ルーン王子がなにを望んで
いたかを考えれば、為すべきことは多くあった。まず、ここにい
る以外の主君に近しい者達を守る道を探らなくてはならない。エ
ームを通じて託されたものは大きかった。
 最初に口を開いたのは、こんな時でも平静さを失っていないグ
ーリーだった。
「エーム、なぜ供をしなかったのだ。幾ら、ルーン様の剣の腕が
立つとは言っても」
 訊ねられたエームは、返答に窮してしまう。事情を説明しよう
としたとき、グラディスが走り込んできた。ルーンの部下達のあ
まりの若さに、未だ三十代であるのに長老役を務めている情報官
が、めずらしく慌てている。
「追撃隊が出陣したそうだ。数は百二十騎。まずいぞ」
 全員が、即座に立ち上がった。
「すぐ追いかけよう」
 シノンの言葉に、応ずるのはルダークだった。
「しかし、この人数で互角には戦えないぞ」
「殲滅するのでなく、逃げ延びていただくだけならなんとかなろ
う。グーリー」
 二人の視線が絡まる。それだけで、意志は疎通された。
「わかった。後は任せてくれ」
 グーリーは残留し、ここにいる以外の王子の縁者達との連絡と、
敵方の動きへの対応を担当する。シノン達は、主君の後を追うた
めに部屋から飛び出した。


「追撃隊は、とりあえず百二十騎を出しました。例のイヨンの者
達も加えてあります。更に増やした方がよろしいでしょうか」
 報告役の問い掛けに、宰相は反応を見せない。不必要との意な
のだと捉えて、宰相府の下役が言葉を続ける。
「それと、シムス公領に出す早馬には、どのような指示を託しま
しょう。彼らには、王都に進軍させるべきでしょうか。あるいは、
クラン殿だけを急いで来させた方がよいですか」
 虚ろな影に占められたラエルの眼には、腹心の男の顔は映って
いなかった。いつもなら、斬りつけるような指示が飛んでくる筈
の場面だけに、報告役の首が傾げられる。
「……ラエル様?」
 名を呼ばれたのまでは、知覚しているのだろうか。眼からぎら
つくような光が消え失せると、カルムの宰相がまるで害のない存
在のように映る。立ち上がったラエルは、緩やかな足取りで扉へ
と向かった。呆然と、下役がその姿を見送る。
 いつもと異なる雰囲気を纏った宰相は、廊下に一定した歩調を
刻み続けていた。すれ違う侍女や小者の姿にも、目線は向けられ
ない。ラエルの足は、王宮と裏庭との端境へと向かっていた。
 出入り口で立ち止まると、視線は裏庭を飛び越し、遠い空へと
向けられた。眼には、力がまったく感じられない。ラエルの胸に
あるのは、鋭い喪失感だけだった。
 最初にルーン王子と顔を合わせたのは、この裏庭に通ずる出入
り口でだった。既に十年近く前になるあの夕、王宮内で地歩を固
めつつあったラエルは、少年の顔立ちにかつて恋した女性の面影
を見た。
 生じた想いの色合いは、単調なものではなかった。純粋な親愛
ではなかったけれども、憎悪でもない。それらを含めた様々な彩
りが重なり合った、強い感情だった。
 心の揺らぎによって、想い人の忘れ形見へのラエルの対処は、
一見すると矛盾の多いものとなった。王子が自らの意志で都を離
れた今では、胸中には大きな欠落が生じている。ルーンを叩き潰
したいという想いと、打倒されたいとの願望とが、ともに叶わな
いものとなってしまったためである。
 自分を乗り越えてほしいという願いが胸にあったのを、ラエル
は今更に痛切に気付かされていた。兵を挙げさえすれば得られて
いただろう王位を捨てて、国を去ってしまうとは。
 虚脱感に支配された宰相は、出入り口を通り過ぎていく幼い日
のルーンの気配を探していた。涼やかな秋風は、宰相の裾をも揺
らしていた。


 高い秋空の下で、黒馬がルーンを背にひた走る。王都ルイナか
ら、南部地方へ。下整備が行われたシンクへの街道は、石畳より
も騎行に適していた。
 馬体の色から新月と名付けられた黒馬は、王都に帰還する際に
マルトゥースに見立ててもらって以来、ずっとルーンの相棒であ
った。
 エレナとの上都行、黒髪の侍女を背にした旅、初陣での突撃に、
森の奥への再訪や、カルム各地の巡回まで。今ではやや衰えを見
せている愛馬であるが、旅立ちに際してこの馬以外を選ぼうとは、
王子は考えもしなかった。
 息の合った相棒との騎行を楽しむルーンは、不思議な解放感を
覚えていた。人々のために力を尽くせるのを幸いに感じ、それを
目標としてこれまで歩いてきたのだが、心の中で負担になってい
た面もあるのだろう。クランは、背負っている重荷を感じている
のだろうか。王位を手に入れた従弟がなにを目指すのか、ルーン
にはまったく想像もできなかった。
 国王としてどちらが有能に振る舞えたかを考えれば、冷静に考
えて自分の方だろうとは思う。けれど、従兄弟の間での能力差は、
内戦から生じる混乱と将来に続く憎しみとを考えれば、問題にな
らない程度のものでしかない。ルーンは、そう確信していた。
 蹄の音が生じる度に、王都が遠のいていく。安堵と寂寥とが、
王子の胸中で混ざり合っていた。


 秋の陽が、勢いよく高度を下げる刻限。騎行を続けるルーンは、
来た道に騎馬の群れの姿があるのに気づいていた。その数は、遠
目で見ても百を越える。どうやら、追っ手であるようだ。
 シノンによって、自分の出奔が宣せられる前に動き出した者達
だろうか。国外に出るのではなく、シャール公領へ向かったと誤
解されているのかもしれない。それとも、出奔したとしても、こ
の機会に殺してしまおうというのか。
 クランの邪魔はしないから、放っておいてほしいと思いつつも、
そうもいかないだろうのもわかる。宰相らの支持があるとはいえ、
彼の従弟の権力基盤はそれほど強固なものではない。逃亡が本当
だとしても、元王太子が命長らえているのは、クラン陣営にとっ
て好ましい事態ではないだろう。
 だが、新王の安心のために死んでやろうという気は、馬上の王
子にはなかった。クランの最も望んでいるものを譲ってやったの
だ。これ以上、なにかを与えてやる必要はない。明るい金髪の従
弟殿にしてみれば、譲ってほしかったのではなく、奪いたかった
のだと叫びたいところなのかもしれないが、そこまではルーンに
してみれば知ったことではなかった。
道はまもなく、木立の中へと入っていく。とにかく先を急ぐか、
林を利用して転針を図るか。考えながら、ルーンは憂鬱な想いに
とらわれていた。追っ手も、立場は違えどカルムの剣士達である。
できれば殺したくはない。
 また、王子はこれまで、直接その剣で他者の命を絶った経験が
なかった。戦場で指揮を執って、敵味方に千人超の死者を出して
いるからには、両手だけでなく全身が血塗られている。しかし、
内戦を避けるために出奔したのだというのに……。
ルーンの剣技が優れているのは、よく知られている。となれば、
追っ手には手練れが選抜されている筈だった。手段を選ばずに来
るなら、手加減している余裕はないだろう。本気でかかっても、
逃げ切れるかどうかは怪しかった。
 陽射しからは、徐々に熱気が失せていっている。馬を走らせな
がら、どこかへ行ってくれないかとの儚い期待を胸に眺めるが、
そうはいかないようである。ルーンは愛馬を林を通る街道へと進
めていった。追っ手は、更に速度を上げたようだ。
 林の中程で、逃走者と後続の距離が狭まった。もう、武装まで
もが視認できる。軽騎兵の伝統的な装備で、弓矢と剣、それに手
斧を携えている。
 先頭の芦毛の一騎が、弓を取って矢を番えた。狙いは、明らか
に低い。追撃隊の将が矢を向けたのは、王族の若者が乗る黒馬の
尻だった。引き絞って、射放す。
 まっすぐに飛来した矢は、ルーンの一薙ぎで斬り落とされた。
そして、若き王太子が手綱を絞る。主将だけが弓を使うというの
は、剣をもって事を決しようとの意思表示に他ならない。止まら
なければ、今度は全員が弓を手にするのだろう。この距離で一斉
に矢を射られては、ルーンとていつまでも凌げるわけはなかった。
 下馬した王子は、抜いた剣で愛馬の尻を斬りつけた。カルムで
は将を殺す場合、馬も殉じさせるのが慣わしである。充分に尽く
してもらってきた愛馬に、彼はもう自由を与えたかったのだ。だ
が、黒馬は計算された浅い傷の痛みに耐え、ルーンの背後に寄り
添った。見つめると、落ち着いた視線が返ってくる。ルーンは首
を撫で、謝罪と感謝の意を表した。
 付き合ってくれるものがいるからには、ここで人生を終えるの
もいいか。一瞬そんな考えが過ぎったが、すぐに自ら否定する。
それでは、彼を王子としてではなく、人として考えてくれた人達
の意に、どうしようもなく反してしまう。
 もはや、追っ手を蹴散らす以外に切り抜けるのは不可能だ。覚
悟を固めると、自らの中から闘気が溢れるのが感じられた。ルー
ンには、その心の動きはちょっと意外なものだった。高揚した、
殺意と呼んでよい感情が流血を望むが、意識の中で押し止める動
きが生ずる。
 街道から外れれば、修行時代に親しんだ地形である森林が拡が
っている。死ぬつもりは、彼にはなかった。
 心に生じた渦を消し去れないままに、ルーンはゆっくりと口を
開いた。せめて流血を少なくするために。 
「クラン配下の者達であろう。このルーンは、今よりカルムを離
れる。国を二分して戦えば、多くの血が流れ、将来が恨みで縛ら
れよう。それを避けるための行動だ。邪魔をしないでもらえまい
か」
 王太子の言葉に、驚きの表情となる兵が多い。彼らは、なんと
言われて今回の追撃に参加したのだろうか。
「問答無用。殿下の相手は、この二人が務める」
 下馬して進み出てきたのは、質素な身なりをした剣士達である。
騎兵にはとても見えない彼らは、歩み寄ると剣を構えた。わずか
に反った短めの刀の先を、突き出した手を捻るように地に向ける。
それは、イヨン族に特有の構えだった。

祖国のために、できること 8.王太子の選ぶ道 (一)


8.王太子の選ぶ道


 季節が巡り、立太子式から一年近くが過ぎようとしていた。そ
の間に、シャール公の奮闘もあってシンクの港は活況を呈し、織
物と染め物をはじめとする手工業も順調な立ち上がりを見せてい
た。しかし、それらよりも目立ったのが、宰相の全面的な支援を
受けてのクランの勢力拡大だった。
 かつて兄達を殺害したとの嫌疑をかけられ、叔父二人と明白な
対立関係を結んだルーンには、やはり敵が少なくない。ラエルが
国軍方面からの人望があまりないために、未だ王太子側が優勢と
しても、公の中で最大の実力者たるシムス公をはじめとして、は
っきりとクラン、ラエル側につく者が増えてきていた。
 王族が力を養おうと、討伐の対象にはならない。ましてラエル
によって、王命に従っているという形式は整えられており、ルー
ンとしては異の唱えようがないのだった。
 オール王の存念はどこにあるのか。不在となって久しいとはい
え、王は王である。王宮の者達の不安は高まりを見せ、夏を迎え
ているこの時期、王都ルイナはまたも不穏な情勢に包まれていた。


 都から南へ向かう街道は、カルムでも交通量の多い道の一つと
なっている。外国から流入する物品のうち、ほとんどは交易都市
経由で入って来ているし、海路でどこかを目指す際にも、南の内
海沿岸へ向かう必要がある。二つの自治都市に加え、シンクの港
が新設されたのは、この道の更なる活況に結びつくだろうか。
 石の敷かれた街道は、馬車や馬の往来があるため、歩行者は道
からちょっと外れた草むらを歩くのがふつうである。前方や後方
から蹄が近付くたびに避けるよりは、最初から石畳を離れていた
方が楽なのだろう。それならば、馬車の通れない小径を旅する選
択肢もあるのだが、街道の方が襲撃を受ける危険が少ないのであ
る。
 街道警護の状況は、行政区分によって濃淡があり、シャール公
領などでは特に手厚い目配りが為されている。統治者があまり熱
心でない地域でも、ルーンの施策によって国軍の小部隊の駐留、
巡回が行われているため、盗賊による被害はかつてから較べれば
激減していた。警護兵の駐留地近くでの野営も許されているため、
徒歩でも比較的安全な旅が可能となっている。
 シャール公領を抜ける夜の街道を、一人の軽装の旅人が南へ向
かっていた。頬骨の張った輪郭と、生彩の乏しい眼はやや不調和
な印象である。風体自体はどこにでもいそうな感じなのだが、辺
りを警戒する頻度がだいぶ高いようでもある。王都からの道中、
その旅人は不安な旅程をこなしてきていた。
 密使には、大胆な者よりも小心な者の方が適任である。だが、
主君の館を出た時点で怪しいと思われていては、なんらかの手立
てを講じぬ限り、任務の成功はおぼつかなかった。見張っている
者達が手練れであればなおさらである。
 人の気配のない路傍で、旅人は野営の準備をはじめた。そのよ
うすを見つめる眼に、油断はなかった。
 夜更けの街道は、半月と星々のみが光源である。柔風に波打つ
草原は、月が放つ弱い白光に照らされ、秘め事めいた風情を生じ
させていた。道からやや離れた木陰に佇む小男には、監視してい
る相手の素性までもがわかっている。地縁によって今の主君に拾
われた、元地方役人の男には、寝たふりをして逃げ出すような芸
当ができるとは思えない。横になった追跡対象への視線はそのま
までも、意識の幾らかは揺れざわめく草の海へと移された。
 木陰に立つ監視者は、薄闇と同化している。その背後から、ゆ
っくりと接近を図る者がいた。気配の消された影が間合いを詰め
てきても、監視対象と風景とに意識を等配分していた小男には、
気付くようすはない。
 抜き撃てば仕留められる距離で、影は気配を顕した。一瞬、驚
いた小男が殺気を閃めかせる。
「トザム、あたしだ」
 発せられた声には、どこか悪戯っぽい響きがある。 
「メイナ。おどかすなよ……」
 緊張を解いた小男は、すこしだけ苦さの混じった笑みを同僚に
投げた。新来者の頭布から覗く髪は、月に照らされて銀光を帯び
ている。
 諜者仲間の中でも、踊り子出身のこの娘の身体能力はずば抜け
ているのだが、どこか仕事を遊びながらこなしているようなとこ
ろがある。その気質は、彼らを束ねるエームにも通じるもので、
トザムも普段は仲がいい。だが、仕事中にからかわれてしまうと、
やや苛立ちに近い想いが生じるのだった。
「悪い。どのくらいで気配がわかるのかと思って。けど、風景に
見惚れてたんじゃないのか」
「見ていたのは確かだが、緩めていたつもりはないぞ」
「ふむ。これはほんとに美しいな」
 二人の諜者は、並んで眼前の光景を眺めていた。舞姫出身のメ
イナの方が、頭一つだけ背が高い。言葉を交わす間も、薄闇の草
原に目をやりながらも、トザムの意識は監視対象から外されては
いなかった。
 街道端で就寝した旅人は、メイナを含めた三人に追われている。
馬も一頭が動員され、王都にあるラエルの別宅を出て以来、男か
ら目は離されていない。
 他にも幾組か、宰相の動向を探る者達がいた。諜者網を束ねる
エームは、やがて破綻が生じるのは間違いないと考えている。い
ざ手切れとなったとき、主君である王太子の立場を守るべく、彼
は配下を動かしているのだった。諜者達は、今では王子から扶持
を得ているのだが、どう動くかは完全にエームに任されていた。
 この国においては、間諜が活躍する場面はあまりない。ここし
ばらく王宮で毒の噂が絶えないが、カルムの歴史の中ではめずら
しい事態である。王家内や公家同士での内紛は、多少は騙し討ち
めいたとしても、ほとんどの場合は剣によって決着がつけられる。
ために、諜者は情報収集が主要な役割となるのだった。
 専門的な技術を持つ諜者はそれほど多くなく、エームが教えを
受けた小集団を含めて、片手に収まる程度となっている。そもそ
も情報収集だけならば、あまり手業に優れている必要はないので
ある。
 金髪を頭布で隠す娘がトザムに接触したのは、宰相側の動向を
伝達するためだった。追跡対象である旅人を援護する動きは、ま
ったく捉えられていない。それは、意外な状況ではなかった。
 宰相も、王太子への対抗意識をむき出しにするクランも、諜者
を使っている気配はない。ラエルには密偵上がりの部下もいるの
だが、エームのように組織的な活動はしていなかった。諜者とし
ての能力と、組織構築力は同じものではないため、築こうとして
いながら失敗しているのかもしれない。
 ラエルらに近しい勢力では、シムス公家が伝統的に諜者を重用
している。十一人の公の中でも最大級の力を持つシムス公は、亡
きアトマ王子の外祖父である。娘の生んだ男児を国王にする企て
が潰えた後も、王弟同士の争いに介入していたシムス公は、現在
は反王太子勢力に与していた。宰相と同じ側であるため、それほ
ど危険な行動ではない。
 エームの探った限り、クラン陣営でのシムス公の活動は積極的
ではない。ルーン王子が王位に就いた場合を考えて控えているの
か、既にクラン王統治下での勢力図を頭に入れているのか。老練
なシムス公は、どこまでも油断のならない存在だった。
 早朝。トザムが見張る相手は、行き過ぎる馬車の立てる喧噪で
目を覚ました。それまでの間、小柄な諜者は野が朝焼けに染まっ
ていく様を堪能していた。
 仕度を整える男のようすを見つめながらも、トザムはゆったり
と構えている。夕方には、メイナと交替して一休みとなる。この
分だと、それまで何事もなく済みそうだった。


 港町の雰囲気はどこか開放的で、メイナはくつろいだ感覚を楽
しんでいた。かつて彼女の養親が率いていた旅芸座も、幾度かこ
のピノムを訪れて公演を行い、その度に歓迎されていた。商人が
多いだけに金払いもよく、町を離れたとたんに襲撃を受けたりと
いう事態も生じなかった。
 だが、自由なように見えるピノムの町も、悩みのない楽園なわ
けではない。出身地ごとに分けられた居住地内では、それぞれの
風俗が保たれている。内海を見渡せば、混住している町も少なく
ないが、文化習俗の違いは対立の芽となるため、だいたいの通商
都市では民族別の棲み分けが行われている。ただ、分住の形は、
日々の生活の安定は保つのだが、いざ衝突という際には双方が集
団で対峙するため、事態を深刻化させる側面もあった。
 また、各居住地には母国の統制が及ばない場合がほとんどで、
専横的になった大商人が領主のように振る舞い、他の住民の反発
を招く事態も見られるという。  
 ここピノムは、遙か東南にあるラシズムの商人が根拠地とした
のに起源を持つ。当初から住んでいたラシズム商人の子孫を中心
に、内海を挟んだ南方にあるエクトムスの商人、それにラシズム
を呑み込んだ形の東南の新興勢力、クターファの商人達が多く住
む。これに西方の通商都市ハルナの名が加われば、内海西域、通
称「日暮れの海」での交易の主役達がほぼ出揃う。この地にハル
ナ商人が少ないのは、少し西に行ったところにハルナ起源の通商
都市、イザナがあるためだった。もっとも、個人主義が目立つハ
ルナだけに、仲間が少ないピノムを拠点とする者もいたけれども。
 メイナが歩いている街並みは、ラシズム風のあまり装飾のない
家々によって構成されている。彼女が望んでこの町にやって来た
わけではない。追っているカルム宰相の密使が、一街区ほど先の
邸宅に入っていったためだった。
 追尾対象がピノムへ向かったとの報告に、エームは投入人数を
増やしていた。カルムで内紛が生じる際に介入してくるのは、北
隣のバース公国と並んで両沿岸都市が想定される。東のマコール
とはあまり接触がないため、まず危険はないだろう。侵攻の可能
性が皆無なわけではなかったが、情報官からの報告を見る限りで
は予兆はなかった。バース公国の北方にあるハノーム王国にも、
動きは見られない。
 沿岸通商都市の動員兵力は大きくないが、資金力は豊富である。
金銭面での援助と共に、傭兵を雇って仕掛けてくる可能性もある。
王太子はシンク開港を主導した経緯から、新たな商売敵を身近に
抱えることになった両市にとって、疎ましい存在となっている。
動向には注意を払う必要があるのだった。 
 密使が訪問しているからには、警戒が厳重となっている可能性
がある。編んだ金髪の先の瑪瑙飾りや、羽織っている紗織りの薄
衣が明らかに人目を引くメイナは、あざとくならない程度にその
付近を行き来していた。注意が逸れている間に、他の者がようす
を探ろうというのである。
 人通りはわりと多く、カルムからの使者が訪ねた建物にも、通
行人の中から幾人かが入って行った。メイナにはもちろん、だれ
であるかはわからないが、服装から様々な地の商人が集ってきて
いるのは明らかだった。
 しばらく道を探しているふりを続けていたのだけれど、さすが
に目立ちすぎるとまずい。踊り子出身の諜者は、離れた通りで仲
間の流れを整えていたトザムのところへ向かった。指示に従い、
臨時の根城となっている宿屋へ歩いていく。
 夏次月の空は、高く澄みきっている。青空を見上げていると、
陰謀や諜報に精を出すより、道端で踊っていたくなるメイナだっ
た。自然と足取りが律動的になり、頬には軽やかな笑みが浮かぶ。
なんなら、宰相の手下との剣舞でも構わないのになとまで、金髪
の舞姫は思っていた。とはいえ、現在の王太子が際どい状況にあ
るのも理解できている。
 あれだけの剣技があれば、なにをやっても成功者になれるだろ
うのに、王族などという厄介きわまりない仕事をしているルーン
に、彼女は深く同情していた。まあ、あいつなら王太子として、
また王としてもきっとうまくやれるだろう。楽しげな風情のまま
で、メイナは広めの通りに歩を進める。街では昼食の準備が行わ
れているのだろう、微かないい匂いと活気が漂ってきていた。
 宿屋に戻ると、意外な人物の姿があった。ほっそりとした印象
の若者が、メイナに笑みを投げてくる。上司であるエームまでが、
この地にやってきていたのだった。
「エーム、ひさしぶりだな」
 王太子を踊りの弟子だと思っている彼女は、直属の上司も目上
とは捉えていない。友人扱いを、エームは抵抗なく受け容れてい
た。そもそも、彼は手下達とも対等のつもりで接している。前代
からの部下は、エームを長として扱う方が落ち着くようであり、
濃茶の髪の若者はそれも許容していた。
「だいぶ慣れてきたようですね」
 にこやかにそう言うからには、働きについての報告が上がって
いるのだろう。メイナはこれまで、王子の護衛や諜者間の連絡役、
侍女見習いなどをこなした後、諜者を務めるようになっていた。
そのうち、失敗に終わったのは侍女見習いのみである。
「まあな」
 見透かすような視線を向けられると、メイナの心中がやや落ち
着かなくなる。けれど、それを隠すのは、イヨンの技を仕込まれ
た彼女にはむずかしくなかった。
「胸にあいていた穴は、埋まりましたか」
 なにげない口調で問いを投げられ、金髪の舞姫がにやっと笑う。
「同じものを得ようと必死なお前になら、わかる筈だ。この渇き
は、きっと充たされはしないんじゃないかな」
「ふむ。そうかもしれませんね」
 メイナは、濃茶の髪の若者に同類の気配を嗅ぎ取っていた。エ
ームの方も、おそらくそうなのだろう。
 幼い頃に母親に捨てられた彼女は、拾ってくれた養親の期待に
応えるべく、必死に剣と舞を修得した。上達ぶりを喜んでくれる
シャイフルとの仲は、決して悪いものではなかった。けれど、同
時に胸中には常に不安があった。かけられている期待を決定的に
裏切ったとき、自分はどうなってしまうのだろうか、と。
 強迫的な想いが少女時代のメイナを突き動かし、剣技も舞踊も
飛躍的な進歩を遂げた。もしかしたら、抱いていた怖れは単なる
思い過ごしで、剣技など全然だめでも、娘としてやさしく扱って
くれたのかもしれない。けれど、上達した際に養親が見せる喜び
の大きさは、世界の狭い少女に確信めいたものをもたらしていた
のだった。
 幼い頃をくわしく語ろうとしないエームだが、どうやら境遇は
似たようなものだったらしい。エームが部下達を家族のように扱
うのも、王子の家臣群の雰囲気を好んでいるのも、得られなかっ
たものを必死に補おうとしているようにメイナには思える。そし
て、自分もまた……。
 侍女服を着たとたん、ルーンから隔意を向けられたあの時、ど
うしてあそこまで取り乱したのか。今から考えれば、ようやく手
にした家族的な関わりを、断ち切られるのが怖かったのだと思え
る。
 家臣と親密に接してはいても、ルーン王子はメイナ達の同類で
はなさそうである。似たもの同士ではこの欠乏感は補い合えない
のだと、金髪の舞姫は直感でわかっていた。 
 けれど、このような話題は、言葉を尽くして語り合うべきもの
ではない。不器用に、メイナは話を転換させた。軽く振られた首
の動きで、瑪瑙の髪飾りが弧を描く。
「で、ようすはどうだ」
 黙考していたエームも、すぐに諜者の長としての立場に戻った。
かすかなにこやかさは、普段と変わるところはない。 
「どうやら、あの建物には各地区の代表者が集まっているようで
す。この町での意志決定は各地区の合議制なので、決を採ろうと
しているのでしょう」
 ピノムにも首長はいるのだが、各勢力の調整役のような存在で
ある。
「となると、議題はクランとの同盟か。それなら、いいようにか
き回してやれそうだな。なにしろ、密使はあたしらの手の平の上
にいるんだから」
 メイナの声には、やや複雑な感情が籠もっている。彼女には、
王宮で侍女として務めていた際に、クランと接触した過去がある。
自分には、この無意味に思える対立をどうにかできていたのだろ
うか。胸にあるそんな想いが、舞姫の口調を激しくさせていた。
苦笑を閃かせたエームの表情が、ふと真剣になった。
「ルーン様が、どうお考えになるか」
「だって、あいつへ対抗する企みなんだぞ。握り潰すなり、逆に
利用して声高に非難するなり……」 
「すると思いますか?」
 問われて、メイナの視線は宙を漂った。海からほど近い宿屋に
は、湿り気を含んだ風が入り込んできている。
「うーん、いくらなんでもやるんじゃないかと思うが、確かにあ
いつなら……」
 悩ましげな美しい部下に対して、笑みを浮かべたエームが言葉
を続ける。 
「ルーン様は、内戦になるのを避けたがってますから」
「しかし、それは衝突を先延ばしにするだけだろう。立場が逆で、
ルーンがただの王族なら、身を引けば済む話だが、そうではない
のだから……」
 エームは無言である。もしも、彼の主君が単に権力を目指して
いるのなら、動き方はまるで異なっていただろう。
「まさか……。だが、あいつならもしかすると」
 混乱しているらしい相手に、濃茶の髪の若者は静かな問いを投
げた。
「もしも、ルーン様が王族でなかったなら、メイナの付き合いは
違っていましたか」
「いや、あいつは踊りの弟子で、剣の師匠だ。なにも変わらない
さ」
 それは、エームにとって予想していた答えだった。   
「では、王都に戻ってルーン様に現状を報せてください。帰り道
で捕らえるという計画も」
「わかった。馬で行った方がいいか?」
 上司が頷いたのを見届けて、メイナが部屋を出る。馬で行けば、
王太子が望めば捕縛を取りやめるのも可能となるのだった。


 報告を受けたルーン王子は、部下達の働きに感心したようすだ
った。エームが組織している諜報網は、以前と比較して、人数の
面でも構造的にも格段に進歩している。メイナやトザムのように、
能動的で、場合によっては荒事までこなす配下の他に、各地に静
かに潜入している者もおり、情報提供者まで含めた全容は、エー
ムにも把握しきれないほどだった。
 もたらされる情報は、陰謀や不穏な動きについてのみでなく、
事件や天災などによる不作情報なども含まれる。そのような情報
が得られたとき、エームは懇意にしている商人を通して、不足商
品の先回り買いを行うようにしていた。やがて広く知られるよう
になり、先高感から値がつり上がった段階で商品を放出すれば、
利益が得られるのと同時に、価格高騰による混乱を小さくする効
果がある。巨利を得ては反感を買うため、やりすぎないようにし
ているのだけれど、これまでのところ、それらの取引で諜者達の
活動費程度は楽に稼いできている。
 ルーンとしては、宰相と通商都市の交渉の存在までが分かれば
捕縛は必要なく、中止するようにと指示を出したのだが、密使が
帰路は馬を使ったため、間に合わなかった。往路で何事もなかっ
たために、安心していたのだろう。役目を成し遂げたと高揚して
いた密使は、あっさりとトザムの手に落ちた。
 王太子には、すぐさま密書の概要がもたらされた。カルム側に
名の挙がっていたビーザムというのは、ラエルに近しい者である。
密偵上がりの人物であるため、秘密交渉に使われたのだろう。そ
の者には、少なくとも密使の適任者を選ぶ眼はなかったようであ
る。
 内容は予想通り、秘密同盟についての交渉だった。通商都市側
は、ビーザムの提案を承諾している。新たに開かれた港の活況が、
商人達に危機感を与えているためか。
 ルーンは、密使を放させるように命じた。この局面で破綻を生
じさせても意味はないという判断である。
 王太子に近しい者達にも、不満がだいぶ高まってきている。ク
ラン側の密謀の内容が明らかになれば、これを理由にして一気に
戦端を開こうと逸る者が現れかねなかった。王太子となった今で
は、様々な人間が近付いてきており、ルーンの意志を尊重する者
ばかりではなくなっている。わずかな従者だけを連れていた流浪
の王子には、もう戻れないのだった。
 闘うのなら先手を打っていくべきという判断は、必ずしも間違
いではない。仕掛けるなら、密約の確証は絶好の口実となる。だ
が、ルーンにその気はなかった。
 不満を抱えて自発的に集まった者達には、行動を起こさない王
太子に対し、失望まで生まれてきていた。ルーンの内戦をなによ
りも厭う想いは、シノンをはじめとする腹心らにしか明かされて
いない。
 密使をそのまま放したのは、逆にクラン側の疑心を呼んだよう
だ。裏切りを疑われた使者は斬り捨てられ、ビーザムは獄に繋が
れたという。内容の書き換えを恐れているようであるからには、
通商都市との密約は機能しないだろう。そのように報告を受けた
王太子は、苦笑するしかなかった。
 この混迷した状況も、オール王の意志がはっきりと示されれば
一気に打開される。その希望が絶たれていたなら、ルーンはとっ
くに行動を起こしていただろう。くすんだ金髪の若人と、そして
穏健さを好む者達の期待は、まもなく違った形で達せられようと
していた。


 夏次月も下旬に入ると、王都を熱気が覆う。だけれど、居室で
時を過ごす王子には、あまり暑がるようすはなかった。
 ルーンが座る簡素な椅子は、幼い頃から使っているものである。
かつての部屋から移る際に、運べる調度はみな持ってきたのだっ
た。結果として、室内の豪奢さと不釣り合いになっているのだが、
王子に気にするようすはなかった。
 円卓の向かいにはシノンがおり、情勢報告が行われている。主
君より四つ年上なのに、同い年くらいに見えるこの若者は、様々
な事柄を任せられる存在になっていた。
 ただ、年長の家臣らからは、若さを理由として反発を受ける場
合がままあるようだ。シノンが苛立ちを生じさせ、王子がなだめ
て収まるという流れが、月に一度ほどの頻度でくり返されている。
 ルーンの腹心は、ごく初期に集められた者達が中心となってい
る。その後に加わった者にも、有能な人材はいるのだけれど、シ
ノンとグーリーが臣下群を統括する形となっている。諜者網を束
ねるエーム、情報官室を実質的に預かるグラディス、シンク港の
整備関連に携わるルダークにも、それぞれ部下が配されていた。
王子は、なるべく多くの家臣と言葉を交わすように努めているも
のの、実務面はシノンをはじめとする腹心達に任せている。
 居室には、茉莉花の香の名残がたゆたっている。あどけなさの
残る若者の報告は、まとまっていて聞き取りやすい。
 穏やかだったシノンの表情が、話題の変わり目でやや硬さを帯
びた。
「そして、ヴィット公がクラン殿の陣営についたようです。これ
で、公としては四人目です」
「そうか」
 ルーンの表情は、柔らかなまま変わらない。 
「有力者がこの勢いで相手方についていくと、ますます苦しくな
ってきます。国軍の将軍達までが動揺したなら、形勢が逆転しか
ねません。……仕掛けるべきではないでしょうか」
 シノンの主君は、沈黙を守っていた。不同意なのは、聞くまで
もなく明らかである。
 もしもルーン王子が権力を望むだけなら、とっくに行動を起こ
しているだろう。なにがもっとも民のためになるのか。主君がそ
う考えているのが、茶の髪の若者にもわかっている。だから、そ
れ以上は言い募れないのだった。
 たとえ内戦になっても、王権を得た上で民のためになる治世を
行えば、犠牲に見合う価値はある筈だ。頭でだけ考えれば、そう
も言える。だけれど、実際に戦いになれば、多くの者が死に、苦
しむのは確実だった。
 両親を王族同士の闘争で失っているシノンには、犠牲はやむを
得ないと考えるのはつらかった。いや、仕方がないのだとは思う。
だけれど、かつての自分のように、憎しみに縛られる者が多く出
てしまうだろう。
 ルーン王子と出会い、恨みから解き放たれなければ、今でも王
家の打倒に生涯を捧げていたに違いない。内戦が起きたなら、ど
ちらかの将と差し違えようと考えていたかもしれない。そう考え
ると、シノンはぞっとしてしまう。
 もし、主君が開戦を決断したなら、シノンは全力で従うつもり
だった。たとえ、ルーン王子が犠牲をできるだけ少なくするよう
努めたとしても、多くの人が死に、憎しみが重なり合うだろう。
恨みの少なくない分量が、くすんだ金髪の若者に向けられるに違
いない。かつて、シノンが王族全体を憎んだように。
 そうなったとき、苦しむ主君を護るのは、自分の役目だ。ルー
ン王子は、内戦の犠牲者の遺族に剣を向けられたなら、斬り伏せ
られないかもしれない。その際には、盾にも、剣にでもなろう。
やさしげな顔立ちの若者は、そう思い定めていた。
 と、ノリスが二人のためにお茶を運んできた。冷やした緑茶が、
音を立てずに置かれる。
「ありがとう」
 王子の感謝の言葉には、まだぎこちなさが残っている。目の細
い侍女は、にこやかに頷いて下がっていった。ちいさく息をつく
主君を見て、シノンの口許は綻んでいた。 


 黒髪の若者の手には、妹から届いた書状が握られていた。文字
の背の高さは幼い頃から変わらず、グーリーに微笑をもたらす。
ただ、内容については、笑顔で読むわけにはいかない深刻なもの
となっていた。シムス公領からのキーラの手紙に書き連ねられて
いるのは、裏切りを勧める文言だった。シムス公家に内通しろと
いうのである。妹は、帰順という言葉を使っていたが。
 猫のちびについては、平気だから気にしないでね。最後に添え
られた一言だけが、妹の真情なのだとグーリーにはわかる。ちび
というのは、キーラの幼女時代の呼び名である。かつて飼ってい
て、殺されてしまった猫に自分を重ねて、その犠牲は気にするな
との意味だった。 
 心中で妹に礼を述べたグーリーが、主君の居室へ向うと、報告
を終えたシノンが退出するところだった。やさしげな顔立ちの若
者は、同僚の表情を見て心配そうだったが、言葉をかけまではし
なかった。
 迎えた王子は、なにかを察しているような気配である。妹から
の手紙を示した黒髪の若者は、総てを主君に話した。
「おそらく、公子殿下の指示で、キーラの夫であるロムル家の当
主が書かせたのだと思います。やはり、あきらめられてはいなか
ったようです」
「そうか。妹さんにまで苦労をかけてしまっているんだね。去就
を決するのは、いざ開戦となってからで構わないよ」
 ルーンの穏やかな表情は、こんな時でも変わらない。湿り気を
帯びた空気も、王子の心を乱してはいないようだ。
「いいえ、私はルーン様に従うと決めています」
 断言した部下の瞳を、王子が覗き込む。ルーンの表情は、より
柔らかなものになっていた。
「焦る必要はないさ」
 なだめるように言われても、グーリーの心に反発は生じない。
見透かされている感覚があるためだった。
 ロムル一族の若者が表明した決意に偽りはない。そして、王子
に忠誠を疑われているわけではないのも、グーリーにはわかって
いる。だが、彼は実際のところ、将来の自分が現在と同じ考えを
保つのか、確信を持てていないのだった。
 キーラの幸せを壊したくないのも本心だが、それだけではない。
妹のためと理由をつけて、シムス公家に仕えたいとの想いが生じ
てしまう危惧を、捨て去れていないのである。
 グーリーが主君への臣従を明言したのは、未来の自分を縛るた
めでもあった。それを察して、ルーン王子は焦るなと言ってくれ
ている。忠誠を受け容れる方が、この場合は親切だろう。けれど、
そうできるような主君ではないのを、グーリーはよく知っていた。
 夏の暑気を、吹きはじめた風が少し散らしてくれている。空気
が動き出すと、香の名残が再び嗅覚を刺激した。王子が、ゆっく
りと口を開く。
「ところで、シノンによれば、ヴィット公までが宰相側についた
そうだ。人望のない身はきついなあ」
 穏やかに話を逸らされて、黒髪の若者は笑みを含んだ。
「クラン殿に人望があるとは思えませんから、権力への思惑があ
るのでしょう。開戦となった際の手筈を修整しておきます」
「うん、頼む」
 主従にとって、内戦勃発は想定外の事態ではない。特に、オー
ル王が崩御した場合には、すぐに戦端が開かれてもおかしくなか
った。
 クラン側が挙兵すれば、国軍の一部とシャール公、ミトルナ公
と合力し、対抗して勢力を集めるしかない。内戦を厭うているに
しても、避けられない場合に勝利するための努力を惜しむつもり
は、ルーンにはなかった。ただ、同時に講和の可能性を探りはす
るだろう。相手に交渉に応じさせるためにも、勢力を少なくとも
拮抗させねばならなかった。
 手紙の末尾にある猫について問われて、黒髪の若者は言葉を濁
した。妹に重ねられている猫が死んだと知れば、グーリーはいよ
いよ王子にあきらめられてしまうだろう。キーラが殺されるかも
しれないとまでは、この時のロムル一族の若者は考えていなかっ
た。


 グーリーとの会見を終えた王太子は、裏庭へと散策に向かった。
従者も連れずの行動は、状況を考えればかなり不用心である。け
れど、部下達は王子を放し飼いにしていた。ルーンの剣技は、彼
らが護衛につくのが無意味だと思える域にある。
 裏庭に出るとき、ルーンは決まった出入り口を使っている。そ
こまで行くには、東宮の外縁部を半周する必要があった。のどや
かな表情で歩いていると、すれ違う侍女達が深い礼を投げてくる。
金髪の王子は、今では平静に紺服を見られるようになっていた。
 夏の陽射しが廊下を眩しく切り抜き、影の存在を強調している。
王子の軽やかな足取りが、石板の上を滑っていった。暑気を含ん
だ風が、少し長めの金髪を揺らす。
 角を曲がったルーンは、いつもの出口に人影を見出した。そこ
にいたのは、ぎらつく目をした中背の人物だった。なんとなく得
心めいた思いを抱いて、王子はラエルが立つ場所に近づいていく。
宰相からは、既に強い凝視が送られてきていた。
「ラエル殿。この場所でお会いするのは二度目ですね」
 穏やかな王子の言葉に、ラエルは気のない風情で返す。
「そうでしたかな」
「はい」
 にこやかなルーンに、宰相はややたじろいだような表情を見せ
た。湿り気を帯びた夏風が、二人の間を通り抜けていく。
 ラエルが自分に向ける視線には、憎しみ以外のものが含まれて
いる。だけれど、それがなんなのか、王子はわからずにいた。
 色合いが複雑なのは、目つきだけではない。宰相のこれまでの
行動も、ルーンの道を狭める方向で統一されていたわけではなか
った。シンク開港には、ラエルの裁可で少なくない国費が投じら
れているし、様々な施策もどうにでも邪魔ができた筈である。
 もしも、ただ憎悪されていたのなら、状況はもうちょっと単純
だった。そう考えながら、くすんだ金髪の若者が宰相を見つめて
いる。沈黙のうちに向かい合っていても、きつさは感じられなか
った。
 先に動いたのは、宰相の方だった。呪縛を破るかのように、視
線を王子から逸らす。柔らかな表情のルーンは、一礼を残して裏
庭へと足を向けた。
 陽光の中を歩くルーンは、背中に粘着性のある凝視が刺さって
いるのを知覚していた。幼い頃に覚えた圧力は、今では感じられ
なくなっている。やがて敵対する可能性があるにしても、少なく
とも王子の側には、憎悪の念は存在していなかった。
 ラエルのぎらつく視線が、やがて転じられた。口許が歪んでい
るのは、笑っているのだろうか。まっすぐに前方を見据えて、宰
相は廊下を踏みしめはじめた。


 波打つ黒髪の若者は、苛立ちを隠していない。それを見つめる
リースは、口許を綻ばせていた。
 マオを不機嫌にさせているのは、王都の情勢についての報告で
ある。王太子の対抗勢力が同盟者を増やせば、内戦の可能性が高
まる。となれば、マオにとっても勢力を伸ばす好機なのだが、く
すんだ金髪の友人に不利な方向に進んでいる点が気に障るようだ。
 かつてルイトン一族の所領だった地に、マオは拠点を築いてい
る。とはいっても、領主でもないのに城塞を持つわけにはいかな
い。機能重視の屋敷が、波打つ黒髪の若者の根城だった。
 現在のマオは、カルム南西部を活動域としている。凶悪な賊の
討伐請負や、隊商の護衛、開墾支援といった正業もすれば、評判
の悪い代官を威圧して上前をはねたり、辺鄙な集落を実効支配し
たりもしている。少なくとも表向きは、悪事は行っていない。討
伐の対象となる愚は避けるべきだし、現状では利益を得るより、
人心掌握を優先すべきだと割り切ってもいた。
「あまり不機嫌にするな。長というものは、どっしりと構えてい
るものだ」
 はぐれイヨンの若者の言葉に、マオが口を尖らせる。
「いや、しかし、ルーンの動きの鈍さはひどすぎる。俺があいつ
なら、とっくに国政の全権を掌握してるぞ」  
「お前はルーンではない。ルーンもマオではない」
 ややぶっきらぼうな口調で返されて、一味の首領が頬を膨らせ
る。波打つ黒髪の若者が、このような生の表情を見せるのは、リ
ースと二人きりの時だけである。はぐれイヨンの若者は、マオに
とって背中を任せて安心な相手なのだった。
 彼の許にも、人材は集まってきている。けれど、他の部下の場
合には、能力と忠誠を秤にかけなくてはならない。小勢力の長に
過ぎないマオにとっては、仕方のない状況だった。そんな中で、
なにも考えずに信頼できる相手がいるのは大きい。波打つ黒髪の
若者は、リースをすっかり頼りにしていた。 
 イヨン族出身の部下の言葉を真実だと思いながらも、どうして
もマオは、自分をくすんだ金髪の友人と引き較べてしまう。ルー
ンは、いい家臣を数多く得ているらしい。そしてそれは、王族だ
からというだけではなさそうだ。マオの修行仲間は、見込んだ相
手には誰にでも背中を預けているようなのである。
「そりゃあ、王家が混乱してくれた方が動きやすいさ。でも、リ
ースだって、あいつが負けるのを見たくはないだろう?」 
 突っかかるような問い掛けに、リースは真顔で応じた。
「ルーンの剣はやさしい。お前にはそれがわかるだろう」
 それだけ言ったリースは、視線を窓へと転じさせた。ぼさぼさ
の黒髪の若者が瞳を向けているのは、王都の方角である。遠く離
れた修行仲間を思うとき、リースは決まってこの態勢になる。
 こうなったら、なにを話しかけても応えないのがマオにはわか
っていた。ふっと息をついて、波打つ黒髪の若者は黙考をはじめ
た。夏のざわつく気配は、殺風景な室内をも支配している。
 内乱になれば、マオのような小勢力でも、だれかに求められる
可能性が高い。有力者の配下に組み入れられれば、一気に地歩を
固められる可能性がある。従う相手を選ぶ際には、つく相手が勝
者側かどうかよりも、どれだけ必要とされるかの方が重要となる。
負ければ皆殺しにされるという事態は、カルムにあっては考えに
くいためである。ましてや、勝者がルーンの側であったなら。
 開戦の際にどう動くか。マオは、既に腹を固めつつあった。
「お頭、エシュルの代官から、盗賊の討伐依頼が来ました。どう
しましょう?」
 扉を開けて入ってきたのは、頬の柔らかそうな少年である。頭
目であるマオへの呼びかけ方は、各自の趣味に任されていて、お
頭というのは少数派だった。
「おう、すぐ行く」
 立ち上がったマオは、ちらっとはぐれイヨンの剣士に視線をや
る。ぼさぼさの髪の若者は、変わらず遙かな王都へ視線を送って
いた。

祖国のために、できること 7.主のいない都 (五)



 晩秋の風が、緩やかな丘を登る道を吹き抜けていた。歩を進め
る婦人の髪飾りだけでなく、常よりもだいぶゆったりとした男達
の服の裾までもが揺れている。中でも、神官に導かれて参道を歩
くルーンの裾は長かった。地に裾先を引きずりそうな長衣が、王
族の儀式用の正装となっている。
 荘重な造りの神殿は、王都を見下ろす小高い丘の頂きに建てら
れている。祀られているのは月の女神で、カルムの主神であった。
年次の祭事などは、王宮の隣にある仮神殿で挙行され、この本神
殿では登位式、立太子式、戦勝報告などの重要な儀式のみが執り
行われる。普段は神官以外の姿はほとんどない丘に、今日は多く
の人々が登っている。
 登位式なら、各国から賓客も招くのだが、今回の立太子式は内々
に行われている。参列者は、王族や各公に、行政官、軍の要職に
ある者、従者と警護を合わせて二百人ほど。そして、神殿内での
儀式には加われないにしても、将来の国王の姿を見ようという一
般の人々、幾万人かが丘への参道に集っていた。同じ刻限、かな
り人口が減った都の市街では、ルーンの指示で衛士を動員した警
備態勢が敷かれている。自分の立太子式が、盗人の被害と共に思
い出されるのではかなわないと王子は考えたのだった。
 一般の参列者が異常に思えるほど多いのは、ルーンを好ましく
思う者には善きことだったが、そう考えない者ももちろんいた。
剣術に秀でて、王都を気楽に散策する若い王子は、民からは好か
れている。嫌う者達が問題視するミオク公家の血も、あの叛逆は
謀略だったと信ずる人々には、むしろ好印象となるのだった。
 オール王が民に不人気だったわけではないのだが、その不在は
長過ぎた。また、ルーンの亡き兄達の目線が自分達には向けられ
ていなかったのを、人々は知っている。若い王子には現状の、ど
こか停滞した雰囲気を変えるのではないかとの期待がかけられて
いるのだった。
 ルーンが即位後になにを為そうとしているかは、今のところ明
かされていない。けれど、これまでの行動のうち、街道警備の強
化と、そしてなにより初陣での活躍は歓迎されていた。押されて
いた戦闘を勝利に導いたのももちろんだが、同時に野兎を助けた
話までもが広まっており、より親しみを持たれる効果を生んだよ
うだ。
 民からいかに支持されようと、直接に王位への道を縮める効果
はないが、親しまれるかどうかは実際にはとても大切である。人々
が笑顔でいる時間の長さは、税の負担感や戦乱の多寡と並んで、
後にどんな時代であったかが語られる際の重要な指標となるのだ
から。加えて、人気の有無は王の評価を大きく左右する。
そう考えているエームは、主君の評判を高めるため、もちろん
本人には内密に、功績が噂として拡がるように努めてきた。これ
までのところは、虚偽の情報を流す必要はなかった。
 ルーンの思わぬ人気を最も苦々しく感じていたのは、ラエルだ
っただろうか。慣れぬ正装のせいで一層小柄に見える宰相は、隣
を歩む明るい金髪の少年へと視線を向けていた。眼光は常と変わ
らず強いが、ルーンに対する時の粘着性は感じられない。
 その少年、クランもまた王族用の礼装を身に着けていた。単に
列席するだけなら、長衣に包まれる必要はない。亡き王弟の遺児
には、皆を代表して祝いの言葉を述べる役割が与えられていたの
だった。
 現王が病で出席できず、王弟のザンダも欠席するからには、最
も血の濃いのがクランなのは確かである。だが、年少の者に祝い
を述べさせるのは、やや奇異な感があるのも間違いのないところ
だった。
 クランの代わりに、王子が少年期に身を寄せていたミトルナ公
がその役を務めていたなら、誰も疑問を感じはしなかっただろう。
そこから、式を取り仕切ったラエルの意図を読み取ろうとする者
も多かった。宰相には、他人に胸の裡を探られても気にするよう
すはない。クランの方は、緊張した面持ちで歩を進め続けていた。
 ほぼ先頭を歩くルーンは、年若き従弟とは対照的に穏やかな風
情である。歩調を取る神官に合わせ、ゆっくりと足を進める。こ
うして参道を歩むのも、儀式の重要な一部とされているのだった。
 参道は斜面を掘る形で設けられている。両壁が低くなりはじめ
ると、程なく丘の頂に神殿が見えてくる。前王家時代の建立にな
ると伝えられる神殿は、弓弧構造が多用された華麗な造りをして
いる。決して大きくはないのだが、威厳が感じられた。
もしも振り返ったなら、王都ルイナの街並みと、周辺の広い野
が見渡せる。だが、ルーンは慣わしに従い、その光景を目にしよ
うとはしなかった。神と対面する前に背中を向けるのは失礼とい
うだけでなく、振り返れば後悔が人生の伴侶になると言われてい
る。
 後悔が怖いわけではなく、無縁で過ごせようとも思っていなか
ったが、言い伝えを信じる人々に不安を与える必要はない。王族
や有力者にも、民の中にも王都を振り返る者はいなかった。全員
が信心深いわけではなかったが、帰り道には幾ら見下ろそうとも
問題はない。敢えて振り返る必要はないのだった。
 入り口では、神女役を務める黒髪の女の子がルーンを待ってい
た。かつて戦勝報告に訪れた際に顔を合わせた少女は、にこやか
な笑みで王太子にならんとしている王子を迎えた。ルーンの手が
取られ、引っ張られるように中へと導かれる。
 美しい造形を誇る神殿内には、壁画や天井画の類はない。壁面
の石材が造り出す幾何学的な模様のみで、既に美しい調和に満ち
ていた。
 ルーンがこの神殿に入るのは、今回が三度目となる。幼い頃と、
バース軍に勝利した報告の際に訪れ、どちらの時にも深い安らぎ
を覚えていた。かつて、現カルム王家の祖の許に現れ、この地を
攻め取るよう命じたとされる月の女神は、王家の守護神ともなっ
ている。
 現王家の支配がはじまるまでは、月の女神は突出した存在では
なく、他の精霊信仰との並立状態となっていたようだ。それらの
事情を考え合わせれば、支配者の交代を民に納得させるために、
女神のお告げが利用されたのはほぼ間違いない。そう思うルーン
だけれど、この神殿を訪れると得られる安らぎは、王家の守護を
してくれるかどうかは別として、敬虔な思いを彼の胸に生じさせ
るのだった。 
 中央の聖堂で、立太子式は執り行われる。儀式といっても、一
同で女神に祈りを捧げた後、王子が王太子になると自ら宣言し、
祝いの言葉が述べられて完了である。国王の同席によって正当性
の保証が為されるのが常であり、現王の姿が見られないのは、や
はり好ましい事態ではなかった。
 過去には複数の王族が自ら立太子式を行い、争いとなった事例
もあるだけに、今後を憂慮する声も強い。輿を使ってでも参列す
るよう、言上しようとした者もいたのだが、病状が思わしくない
のを理由にラエルに謁見すら断られていた。
 ミトルナ公のいつにない強硬な交渉によって、病床の王に対し
て立太子式挙行の具申が行われ、ラエルを通して実施の指示が下
されたというのが今回の経緯である。病床のオール王は、宰相以
外を近付けない状態が続いていた。
 聖堂には、澄んだ空気が充ちている。天窓から降ってくる微光
が、祭壇近くに跪く王子をやさしく照らしていた。黒髪の神女が、
あどけない笑みをルーンに向けている。
 祈りが捧げ終えられると、促されたルーン王子が立ち上がり、
振り返る。参列者は、神に祈る姿勢のままでいる。ただ一人、顔
を上げていたクランを除けば、であったが。
 太子として立つと宣する言葉は、古くから伝わる短いものとな
っている。語句を変えたなら、人は旧来の伝統を無視すると見る
のと同時に、変えられた部分から意図を探るだろう。間違ったこ
とを言うわけではないため、ルーンはそのまま使うと決めていた。
「ここに、我はカルムの王太子たることを宣する。女神の力を借
り、王を扶け、民のために力を尽くすであろう」
 穏やかな声は、聖堂の隅々まで響いた。父王が同じ宣言をした
際には、明らかな力みが感じられたという。かつてそれを聞いた
年長の者達は、ある者は微笑し、ある者は苦い顔をしていた。穏
やかであるのは、国王としてはいい面と悪い面の両方があろう。
もっとも、ルーンが単に穏やかなだけの若者でないのは、戦場と、
かつての審問会で示されていたが。
 続いて、王族の少年から祝いの言葉が述べられる。その時には、
居並ぶ全員が顔を上げていた。女神像と向かい合った彼らは、ク
ランの祝いの感情とはかけ離れた、きつく見据える視線を目にし
た。自らの宣言で王太子となったルーンは、穏やかな瞳でそれを
受け止めていた。
 申し述べられたクランの祝辞は、これも変哲のない言葉の羅列
である。やや高い声には力が籠もっており、場違いに強い視線と
共に列席者に不安を感じさせた。
ルーンは、顔には出していなかったが、従弟の胸中を訝ってい
た。父親の謀略を潰したのを恨んでいるのだろうか。それとも、
王位に就くための障壁だと見られているのか。そこまでで式は終
わり、再び神女に先導され、ルーンが出口へと向かう。
 仄暗い神殿から出ると、外界は光に満ち溢れているように感じ
られる。雲が散らばる秋空は、高く蒼い。眩しい光よりも、ルー
ンの視線は集まっていた人々に引き寄せられた。衛兵達が設けて
いる参道への通路を除けば、神殿の境内は人で埋め尽くされてい
る。長身の王太子の頬に、自然と笑みが浮かぶ。
 ふと、ルーンはある一点を凝視した。目線の向かう先には、波
打つ黒髪の青年の姿があった。だいぶ背が伸びているようだった
が、間違いようのない不敵な表情はマオのものである。
 思わず手を上げると、静まり返っていた群衆が、弾けるような
歓声を発した。気づいて、ルーンはにこやかに全方向に手を振る。
そう、彼が先ほど行った宣言は、ここに集った者達の象徴として
生きていくのを意味しているのである。手を振り上げて叫ぶ者も、
涙を流している者すらいる。
 自分一人の行動が、ここに集った人達の、そしてカルムに住む
総ての人々の未来を左右する。確かに重かったが、一生を捧げて
悔いがあろう筈もなかった。歓喜の渦は、王子の背後の神殿内に
も響いていく。この地を守護するという月の女神は、人々の声を
聞いて微笑んだだろうか。


 新たな王太子に向けられた歓呼は、神殿の主聖堂に響きわたっ
た。儀式の主役が入り口で立ち止まったために、参列者達は待機
を余儀なくされている。歓声を王家に向けられた支持だと捉えて
喜ぶ笑顔もあれば、苦い想いを隠さない者もいた。父親の背後に
いるコルナ・シムスは、心中の苦々しさを冷然とした表情で隠し
ていた。
 父王が病床にあるのに、太子として立つのがここまで遅れたと
いうだけでも、ルーンの王者としての資質は疑わざるを得ない。
王弟達が退場し、競争者が見当たらなくなった時点で、すぐに動
くべきだったのだ。シムス公家の跡取りは、そう考えている。退
位を迫るまではいかなくとも、共同統治者と認めさせ、実権を握
ってしまえばよいのだから。
 自分のように、父親が強大だというならともかく、病で弱って
いるのに越えられないとは。王子を嘲笑う想いが、コルナの胸に
はあった。結果として乗り越えられないのでは大差はない、とい
う考えには行きつかないようだ。 
 民は、ルーン王子の惰弱さを知らぬから、あのように歓声を上
げられるのだ。もしも、はっきりと有する力を示せたなら、支持
は自分の方にこそ集まる筈だ。明るい茶の髪の公子は、更に多く
の民から歓声を浴びせられる日を想像してみる。晴れがましいそ
の情景は、浸るべき夢想ではなく、達成すべき目標だった。
 想いを巡らせながらも、コルナは周囲の人々のようすを抜け目
なく探っている。間近にいる父公は、いつもながら不機嫌そうな
風情に包まれていて、感情は読みとれない。他の各公には、苛立
ちを隠さない者が多かった。
 もっとも留意すべき相手は、出入り口から漏れる光を睨みつけ
ている、線の細い少年だった。王弟の遺児であるクランの耳には、
民の声はどのように響いているのだろうか。
 王族の従兄弟同士の対立に乗じれば、自分にも目があるかもし
れない。となれば、どちらか一方が勝利するのでは不足である。
目の前に立つ父親とでは、コルナの行く道は分かれようとしてい
た。
  
 夕方が近くなった頃合い。着飾ったままのエレナが、王太子と
なった幼なじみの居室にやってきた。ここも明日には引き払い、
東宮へと居を移すと決まっている。西宮には、既にクランが入っ
ており、どうやらどこまでも張り合うつもりのようだ。
「どうして、クランがあんな大役を任されたのかしら」
 めずらしくきちんと化粧を施した顔が、不満げにふくれる。そ
の微かな動きで、耳飾りが揺れた。
 このエレナも、王宮の他の場所では清楚な貴婦人で通っている。
幼い頃から近くにいる存在の前では、自然な姿が出るものなのだ
ろうか。応じるルーンの顔には笑みが浮かんでいる。
「クランが嫌いかい。悪い子ではないと思うけどな。むしろ、ま
じめ過ぎるくらいだ」
 王位は彼の亡き父親に渡されるべきだった。若い従弟はそう考
えているのだろう。
 クランの父親であるトゥホークが、あの隣国との戦いの折りに
どんな卑劣なことを為そうとしていたか。成就していたなら、バ
ース公国の軍勢が王都まで攻め入っていたかもしれないのである。
事後の調査で、バース軍の侵入は両王弟の手引きであるのが判
明していた。となれば、ルーンの帰参で彼らの計画が修整された
のだというのは、容易に推察できる。その事実を知ったなら、ク
ランの現状認識はどうなるのだろうか。だが、もしもルーンが告
げたとしても、従弟がそれを信じよう筈もなかった。
 バース公国からの戦後情報をまとめた報告書は、別に秘匿もさ
れず、情報官室に置かれている。王族ならば当然、総ての情報が
閲覧可能である。けれども、漏れ聞こえる発言から察するに、彼
はルーンの尊ぶ総てを否定しているようだった。
 情報官制度を軽んじ、手工業育成も、交易強化策もカルムの本
来の姿を損なうものとして非難しているという。そのクランが情
報官室に現れる日は、これからもずっとこないのだろう。
 不当に従兄に奪われようとしている王位を得れば、クランの執
着も消えるのか。即位した後で、いったいなにを求めていくつも
りなのか。ルーンには、それがわからなかった。王位に就くのは、
目的ではなくてなにかを為すための手段である筈だ。それとも、
そうではないというのだろうか……。
 晩秋の日暮れ時には、緩やかな風が窓から入り込んでくる。友
人の問いに考え込んでいたエレナが、結論を口にした。
「嫌いじゃないのだけど、なんだか虫が好かないのよねえ」
 どう違うのだろう、という王太子の疑問には気付かず、公女は
言葉を続ける。
「でもまあ、あとはあなたが子供を作れば、クランの出番はなく
なるわ。縁談は来てるの?」
 ルーンの目が覗き込まれる。応じる王太子の声には、情けない
響きが含まれていた。
「結婚に、子供かぁ。実感は湧かないけど、国の安定のためには
早い方がいいのだろうなあ」
 心中の嵐を隠して、エレナが問いを重ねる。
「あなたには、好きな人はいるの?」
 訊かれた瞬間、ルーンの目線が遠くを彷徨う。けれど、すぐに
この場に戻ってきた。
「いや。そもそも王族の結婚は、個人の好き嫌いの問題ではない
し」
「そう……」 
 俯いたエレナは、目をきつく閉じていた。どうやら、自分の想
像は当たっていたようだと考えながら。顔を上げると、彼女はい
つもよりも元気な声で続けた。
「でもまあ、陛下の決められることだもんね。そういえば、陛下
は今日までも姿を見せなかったわね」
「そうだね……」 
 今度は、ルーンが目線を落とす番だった。出席がなかったのは
ともかく、あいさつに出向いたルーンとの面会までもが拒絶され
たのである。
 オール王への取り次ぎは、ラエルの腹心の者が一手に仕切って
いる。ここ数年、宰相であるラエル以外と顔を合わせたという話
は聞かれず、ルーンに至っては実子であるというのに、幼き頃に
病床で会ってきりだった。疎まれているのかと考えると、暗然と
した思いに捕らわれる。ラエルからの報告だけを判断材料とされ
ては、仕方のないところだろうが。
 もちろん、息子としての悲しみもあるのだが、それ以上に王と
王太子が疎遠であるのは、国に悪い影響しか及ぼさない。
 王太子になった以上、どこかの時点で主導権を握るべきなのか
もしれなかった。財政状況が破綻に瀕していたなら、すぐにでも
動かなくてはならないのだろうが、幸いにしてそうではない。ル
ーンはひとまず、次の動きを待つつもりでいた。晴れがましい筈
の日にも悩みを抱えた息子を、壁のリオの肖像が見つめている。
「快復されるとよいのだけれど……」
 エレナでなければ、あるいはいっそ崩御された方が、と心中で
付け加えたかもしれない。王の不在は、それほど長きにわたって
いた。公女が目を伏せた動きで、薄青色の宝石が填め込まれた耳
飾りが揺れた。王太子の視線が、エレナの瞳よりやや淡い、その
宝石の輝きに吸い寄せられた。
「綺麗な耳飾りだね」
 その言葉に、公女は虚を突かれた表情になった。そして、くす
くすと笑い出す。
「ルーン、あなたがあたしの身に着けてるものをほめるのって、
これがはじめてね」
「えー、そんなことないよ、子供の頃から一緒なんだから。例え
ば……」
「例えば?」
 彼女には、絶対の自信があった。見つめられて、ルーンが首を
捻る。若い二人の間には、ミトルナ公領で過ごしていた頃と同じ
空気が流れていた。
「なにかあった?」
 重ねて問い詰められた王子は、仕方なく両手を挙げて降参の意
を表した。
「思いつかないや。ごめん」
 自分は、こんなに長きにわたって近くにいる女性をほめたこと
がないほどに失礼だっただろうか? 悩んでいるようすのルーン
の顔を見て、蒼い瞳の公女は吹き出した。
「いいのよ、そのままで。あなたが服をほめちぎるところなんて、
不気味だもの」
 不気味だとまで言われると複雑な気もしたが、王太子はひとま
ず頷いた。そんな友人の所作を、エレナはにこやかに見つめてい
た。  
 紺服を身に纏ったノリスが、来客があるのを告げるために入っ
てきた。やがて姿を現したのは、ミトルナ公領時代の指南役、マ
ルトゥースだった。すっかり髪が白くなった老騎士が、立ち上が
って迎えた王太子を見つめる。薄闇色の瞳には、光るものが浮か
んでいるように見えた。
「ルーン様、立派になられましたなあ」
 慨嘆を、王太子は穏やかな笑みで受け止めた。
「マルトゥースの指導がよかったからね」
「なにを仰います。私のしたことなど」
「いや、剣技に自信が持てたおかげで、ここまで来れたんだと思
う。感謝してるよ」
 真実味が溢れるルーンの声に、老境に入った教育役の顔が綻ぶ。
マルトゥースは、王子が兄達の葬儀のために公領を離れて以来、
あまり共に時を過ごせていなかった。
 老騎士自身は、カルム国内を飛び回るルーンについていたかっ
たのだが、そうしては公領の留守が手薄になってしまう。ミトル
ナ公には文官の部下は揃っているのだが、軍政面となるととたん
に陣容が薄くなる。中級指揮官なら、他の公達がうらやむほどに
豊富なのだけれど、平時の役に立つものはそれほど多くない。も
っともマルトゥースには、若者が多いルーンの家臣群に入って、
浮いた存在にならない自信はなかったけれど。
 ひさしぶりに、エレナも交えての歓談に花が咲いた。即位が済
んだなら、その時こそ主君に暇を乞うてルーンの許へ参じよう。
マルトゥースは、そう心に決めていた。   


 立太子式が済んだ晩。市街は祝祭のように浮かれているという
のに、会見の場には冷えた空気が漂っていた。カルム王国の宰相
であるラエルと、十一人の公の中で実力は随一と目されるシムス
公が、他者を交えずに会うのははじめてだった。話される事柄は、
当然と言うべきか、カルムの将来についてだった。
 痩身のシムス公は、既に老齢の域に達している筈なのだが、冷
徹な空気に取り巻かれているためもあって、衰えたようすは見受
けられない。醒めたようでいながら力のある公の視線を、ラエル
のぎらつく眼が正面から受け止める。
 二人の間に、あからさまな敵意は生じていない。どちらも、交
渉の場で必要もなく感情を閃かせるような人物ではないのだった。 
「クラン殿に、王者としての器量はありましょうかな」
 シムス公の口調は、場繋ぎのために食卓の皿について言及して
いるかのような、素っ気ないものである。
「王位にあるものが必要以上に力を持つと、なにかとやりにくい
ものです」
 応じる宰相の声にも高揚はない。彼らの口振りからは、王家へ
の忠誠心は感じ取れなかった。唇を歪めたラエルが、言葉を繋げ
る。
「王太子殿下を、いや、ミオク公の血を嫌う者がおるようです。
後ろめたさからでしょうか。過去は消し去れませんからな」
 ラエルが暗に指しているのは、シムス公の仇敵的存在であるサ
スル公である。ルーンの外祖父であるミオク公が自死した経緯に、
サスル公が裏で大きく関わっていたというのは、有力者の間では
公然の秘密となっている。
「ふっ。儂がクラン殿に肩入れすれば、あやつは行き場を失うな」
 公の呟きに、灯明が立てる微かな音が重なった。シムス公とサ
スル公は、ルーンの兄達の対立の時にも、王弟二人の勢力争いの
際にも、違う陣営に立ってきた。その行動は、いがみ合ってきた
両家の伝統でもある。
 サスル公が王太子の味方にはなれないとすれば、シムス公が反
王太子陣営に立ったなら、両家の関係に変化が生じるだろう。
 もちろん、シムス公はラエルに言われなくとも、そんな事情は
承知している。この場合は、持ちかけられるのに意味があるのだ
った。
 会談は、互いに示唆を投げ合う形で続いていき、言質を取り合
ったりはしない。彼らには、それで充分なのだった。
 ラエルにとって、白髪の公の行動原理は理解にむずかしいもの
ではなかった。前王家時代にまで遡る家柄を誇るシムス公家は、
幾度か起きた王家への叛乱にも参加せず、代を重ねるごとに着実
に勢力を増してきている。いつか、王家が瓦解して自分達の出番
が来るのを待っているのだと、宰相は確信していた。単独で王家
に対抗するには、十一公家の中で最有力だとはいえ、実力が大き
く不足している。
 一方のシムス公には、ラエルの望むところが判然としていない。
宰相の地位を保つのだけが望みなのか、それとも……。オール王
が倒れて以来、国政を主導しているラエルだったが、シムス公か
らすれば、その方向性は一定していないように思えるのだった。
ルーン王子への扱いようが、方針の揺らぎの最たるものであろう。
 ともあれ、有力者同士の協調体制は成立した。ただ一人の王子
が太子となったのを契機として。


 会談を終えて居室に戻ろうとしたラエルに、家臣の影が近付い
てきた。ビーザムというその男は、足音を立てない。
「ラエル様。お耳を……」
 宰相は、ためらわずに男が近寄るのに任せる。無防備な首筋に、
その者は打撃を加えるつもりはないようだ。夜が更けてきて、薄
暗い廊下にも冷気が転がりはじめている。
 囁きを聞き終えたラエルは、すぐさまオール王のいる部屋へと
足を向けた。宰相の後ろには、ビーザムが続いている。
 警備の者は扉から距離を取って、廊下の闇に半ば溶け込んでい
る。宰相だけが、この場を自由に往来できるのだった。ラエルが
入室すると、薄暗い中にいる主君が精気のない視線を向けてくる。
 大股に寝台へと歩み寄った宰相は、オール王の細い身体を押し
のけ、敷布と寝台を覆う布をたくし上げる。あらわになった木板
には、長い文字列が刻まれていた。国王の弱った爪で、すこしず
つ彫られたものであるようだ。
 内容を一読したラエルの口許に、凄惨な笑みが浮かんだ。それ
は、息子に向けられた手紙だった。宰相を見つめる王の眼からは
霞が消え去り、往年の強い視線が甦っている。
 室内には、城外の闇よりも深い沈黙が流れていた。



祖国のために、できること 7.主のいない都 (四)


 盛夏を迎えても、立太子式が執り行われる目途は立っていなか
った。王子の臣下の、特に早くから仕えている者達は、ほとんど
意識していない。そんな中で、唯一気を揉んでいるのがルダーク
だった。
 家臣群の有力者の中では、グラディスに継ぐ年長である彼は、
この年の春に息子を得ていた。母親になると女は変わると聞いて
いたものの、やさしげだった妻のラズがたくましさを備えつつあ
るのに、ルダークは戸惑いを覚えていた。ただ強くなるのならい
いのだけれど、夫に向上心を持つように言ってくるのである。
 赤子の世話に追われる妻をよろこばせようと、ルーン王子に立
太子の話が出ていると伝えたのは、どうやら失敗だったようだ。
臣下にとって、仕える主君が国王になるかならないかでは、大き
く出世の可能性が変わってくる。ラズは、立太子式がいつ挙行さ
れるのか、夫にくり返し訊ねるようになっていた。これまでは、
ルダークの家臣団内での立場だけを気にしていたのだけれど。
 本来なら、ラズの夫は出世欲には縁遠い人物である。シンク港
の整備のような、物事を効率化させる作業に没頭していたいのだ
が、妻のラズはそれでは満足できないようだった。
 ルーン王子の臣下の中で、最年長のグラディスは専門分野であ
る情報官室を仕切っている。となれば、それに次ぐ年齢の夫は、
家臣団の首座についてもおかしくない筈だ。あまり世間を知らな
いラズの脳裏では、この発想に破綻は感じられていない。もしも
ルーン王子が王位につけば、最有力な家臣というのは、宰相の座
を狙える位置となる。
 実直さが顔立ちに出ているルダークにとって、宰相就任などは
想像もつかない事態である。妄想だと片付けてもいいところだが、
息子の世話に忙しい妻の言葉だけに、無下に否定するわけにもい
かない。若い同僚に後れをとっているわけじゃないんでしょう、
などとくり返し焚きつけられているうちに、自分もやがて感化さ
れてしまうのではないか。ルダークは、その想像に恐怖を抱いて
いた。
 現在の彼は、人の上に立つ器ではないと自らを分析している。
まったくの役立たずだと思われるのは耐えられないが、評価して
もらえていれば、若いシノンの下についたとしても、不快感はま
ったくない。そんな自分に対して、ラズが情けない夫だと苛立つ
のは、仕方ないかとも思う。慣れぬ育児に翻弄されているからだ
と納得していても、継続的にせっつかれるのはきついもので、心
楽しい状態ではなかった。 
 年若の同僚に相談できる内容ではないし、主君に話そうものな
ら、じゃあ首座を任せようかとでも言いかねない。彼の相談、い
や、愚痴は、グラディスへと向けられていた。
「……というわけで、妻と話をしていると疲れて仕方がないので
す。かといって、あいつが私との会話で気を晴らしているのも間
違いありませんし」
 ルダークの杯には薄めの果実酒が充たされ、情報官室副長官は
お茶の椀を口に運んでいる。グラディスにとって、この話は幾度
となく聞かされた内容である。対応策を教えてほしいわけではな
く、話せさえすれば発散されるのだろう。なので、一通り聞いた
後は、話題を小転換させるか、まったく別の話をはじめるのがい
つもの流れだった。グラディスにとって、この同僚との対話は苦
痛ではない。
「妻というのは、勝手なものなのかもしれませんな。うちなどは、
仕事なんて辞めちゃえばとまで言うんですよ」
「ほう、辞めさせてどうしようというのです?」
「食べていくくらい、どうやってもできるのだから、旅でもしな
がら過ごしたいというのです」
「ははぁ」
 夏の夜には、王宮内もどこかのびやかな雰囲気が漂う。灯明の
火が、二人の表情に濃淡をつくりだしていた。
「都で仕事をしていてすらそうなのですから、単身で異国に赴任
したなら、いったいなんと言われますやら」
「仲のよろしいことですな。まあ、そのような関わりは、子供が
できるまでかもしれませんが」
 経験者の言葉に、グラディスは軽やかな打撃を受けていた。そ
れに気づかず、ルダークが続ける。
「ですが、情報官として異国に赴く際には、家族を同伴してもよ
いのでしょう?」
「そうなんですが、危険も多いですしね」
 グラディスは、実体験を挙げて危険性の説明をはじめた。どこ
ででも争乱に巻き込まれる可能性はあるが、異国では家族にとび
きり心細い思いをさせてしまう。
 話しながら、グラディスは同僚のようすを観察していた。愚痴
を吐き出したために、気分の転換は果たせたようだ。遠い異国で
は、特殊な薬を飲ませた上で、同じ内容を際限なくくり返し、い
つの間にか本人にそう思いこませてしまう手法があるという。ま
さか、ルダークの妻がその地の出身なわけではないだろうが。
 ともあれルダークは、王子の配下にあっては飛び抜けて実直な
人物である。グラディスは、あまり心配していなかった。
 ほろ酔い加減の同僚を王宮外へと送り出し、情報官室副長官は
主君の居室へと向かった。やや湿り気を含んだ風が、足許を通り
抜けていく。その感覚は、なかなかに心地いいものだった。と、
廊下の先から歩いてきたのはシノンだった。深刻さが感じられな
いルダークの悩みについては、報告するまでもないだろう。そう
考えたグラディスは、笑みを浮かべて声をかけた。
「シノン殿。今日は夜番かな?」
 眉根を寄せていた茶の髪の同僚は、すっと表情をやわらげた。
シノンが笑うと、少年のような風情が漂う。
「いえ、違うのですが、またちょっと揉め事がありまして。ルー
ン様が王子の段階でこれですから、立太子してしまったらどうな
るのやら」
 黒髪の情報官が、ふっと笑みを漏らす。副将的な立場にあるシ
ノンが、主君が王太子となるのを疎むような口振りでいい筈はな
い。ルーン王子の性格に伝染力があるのか、似ている者達が集ま
ってきたのか、グラディスとしては判断に迷うところだった。背
丈の低い情報官は、シノンと並べば見上げる形になる。けれど、
互いにまったく気にしてはいなかった。
「まったくだ。王弟お二人が健在だった頃が懐かしいな。一つの
円卓に全員がつけていたのだから」
 シノンもまた、同僚がごく少数だった時代を想い出していた。
とはいえ、過去を振り返ってばかりもいられない。
「で、揉め事はどうなんだい」
「ええ。単に、公然と宰相批判をする者が出ただけなのですが、
どうにか押し止めました。ルーン様の意向を無視して、どこが臣
下だと言うのやら」 
 ルーン王子の許に集まっている者達には、現状に不満なだけの
人物も紛れ込んでいる。簡単に排除するわけにもいかず、シノン
やグーリーは対応に苦慮していた。家臣団を仕切るのが若者達で
あることへの反発とも絡んでいるだけに、なかなかにむずかしい
事態となっている。
 シノンのやさしげな顔には、このところ苛立ちの色合いが含ま
れている場合が多い。そんなようすを見ると、グラディスは素直
に申し訳なく思ってしまう。顛末を聞き取った黒髪の情報官は、
想いを口に出した。 
「力になれずにすまんな」
 床置きの灯明が立てる微かな音が、庭からの虫の声と混ざり合
っている。王子が信頼する若者は、笑みを浮かべて応じてきた。
「いえいえ、情報官室の方を任せっきりで、こちらこそ申し訳な
く思っています。夜番はエームが務めています。声をかけてやっ
てください」
 ていねいに一礼して、茶の髪の若者は歩み去った。やや髪の長
い情報官は、同僚の後ろ姿を見やっている。
 シノンについては高く評価しているけれど、王子の家臣団にお
いて、年長のまとめ役的存在の不足感は否めない。情報官のグラ
ディスには、かつてルーン王子を高く評価していたというアエラ
の死が惜しまれていた。
 もしも、長い顎髭の先輩情報官が生きていてくれたら、情報官
室の束ねだけでなく、若者達の相談役にもなれていただろう。そ
して、自分はだいぶ楽ができていたのにとも思う。
 ふっと息を漏らして、グラディスは歩みを再開させた。ルーン
王子の立太子がかなえば、状況は変わるだろうかと考えながら。


「ヨート様。ここは、強気で行くしかないと思います」
「そうだな。わかってはいるのだが……」
 信頼する家臣の言葉にも、ミトルナ公は迷いを断てずにいた。
ヨートというのは、公の本来の名前である。公位を継いでから二
十年以上が経つ今では、ミトルナ公をその名で呼ぶ者は、白髪が
増え、黒い毛の方が稀になったマルトゥースしかいなくなってい
た。
 王都よりはだいぶ内海に近いミトルナ公領では、定期的に吹く
風のために、夏の暑気はさほど気にならない。陽射しが差し込ん
でいる居間で、主従の対話は続けられていた。
「やはり、ルーン様を信頼できぬのですか。しかし、他に王位を
継ぐべきお方は見当たりません」
 本当にそうならば、オール王がとっくに太子に定めているので
はないのか。口にしない想いが、公の薄い唇をちいさく歪める。
 かといって、対抗馬として現れつつあるクランを、積極的に推
すつもりもない。年若い王族から、公は暴虐さの影を感じ取って
いた。他の者達は、それを覇気と呼ぶのかもしれないが。
「ルーン様は、カルムに安穏とした世をもたらそうとしています。
その目標は、ヨート様のものと合致すると思うのですが」
 マルトゥースには、王子とミトルナ公の関係がどうして冷やや
かなのか、本気でわからずにいる。どちらも和を尊び、穏やかな
世を求めている筈なのに。
 ミトルナ公はと言えば、若い王子と考えが近いという感覚は抱
いていなかった。最終的な目的は同じでも、公はその過程も平和
裡に進んでほしいと思っている。対して、ルーン王子は……。
 初見の折り、晒された首の前に座っていた少年との対話を、ミ
トルナ公は今も忘れていない。自分の尊ぶなにかが踏みにじられ
ようとするとき、王子はきっと、あの時のような激情を発するの
だろう。九年前には、力のない子供だった。けれど、王権を手に
した者が激したなら、誰に止められよう。
 そう考えてしまうと、ルーン王子を太子とするよう強く求める
というのは、どうしてもためらわれるのだった。責任を回避した
いという想いがあるのかもしれない。
 煮え切らぬ主君を、初老の騎士が見つめている。万事に柔軟そ
うに見えるミトルナ公だけれど、同時に頑迷さも備えているのを、
マルトゥースはよく知っていた。王子の後見役としては、適任で
なかったのかもしれないとも思える。とはいえ、ルーンがこの公
領で過ごした時間が無駄だったとまでは、初老の騎士は考えてい
ない。功績を誇るつもりはないが、剣技を高めて得た自信と、の
びやかに過ごした少年期は、現在の王子に好影響を与えているだ
ろう。
 もしも、権力志向の強い公が後見役についていたなら。今頃は
その者の娘を妻に迎え、まっすぐに王位を目指していたのかもし
れない。それが現状よりもよい状態だとは、マルトゥースには思
えないのだった。もちろん、王弟達との権力闘争を生き延びられ
ていたかどうかはわからないが。
 沈黙が流れていた居室に、来客を告げる侍女の声が響いた。や
がて入ってきたのは、やさしげな顔の若者だった。あいさつを済
ませたシノンは、すぐに本題へと入った。
「こちらへ参りましたのは、シャール公からの提案への対応を相
談させていただくためです。シャール様は、立太子式を挙行する
よう、陛下に働きかけようかと言ってくださっています。ありが
たいお申し出ですが、受けるべきでしょうか」
 穏やかな表情で、シノンが状況を伝えた。あどけなさの残る彼
の顔には、主意を汲まぬ同僚に対する折りのような苛立ちは見当
たらない。ミトルナ公が、動きの鈍さを嘲られているように感じ
たのは、本人の心中の方に理由があったと言えるだろう。
「ルーン殿は、そこまでして王位に就きたいのか」
 突き放した言葉に、シノンは小首を傾げる。
「カルムの安定を図るためには、当然だと思うのですが」
 若い折衝相手の言葉に、ミトルナ公の胸中はざわついていた。
この者は、どうしてルーン王子が王位に就くべきだと考えている
のだろうか。
「それでは、シャール公と連絡を取り合ってみ……」
 場を収めるためのマルトゥースの切り出しを、公はあっさりと
蹴飛ばした。
「独力で太子となれない者が王になって、国を安定させられるだ
ろうか」
 あなたの交渉姿勢が甘いから、立太子式が実現していないだけ
だ。新参の過激な言動をする者達なら、そう言い放ったかもしれ
ない。けれど、王子の副将として経験を積んだシノンは、既に慎
重さを備えていた。
「勢力が集まらないのは、ルーン様が利によって人を誘っていな
いためだと思います。地位や見返りを約束して助力を得るような
やり方では、王位についてもまともな治世が望めないと考えてお
られるのでしょう。それは、若年による青さなのかもしれません。
ですが、シャール公のように、力を貸してくださる方も出てきて
います。利で人を釣るやり方よりは、国を安定させられる可能性
は高いと考えます」
「シャール殿とは、共通の利益があるようにも思うがな。しかし、
そこまでがルーン王子の限界だとしたなら……」
 主君の思わぬ言葉に、マルトゥースが息を呑む。対してシノン
の方は、考えを巡らせているようだった。
 この時の茶の髪の若者は、効果的な返し方を計算していたわけ
ではない。王族の擁護をしている現状は、昔の自分が見たならど
う思うのだろうかと考えていたのである。けれど、シノンの胸に
あるのは羞恥ではなかった。時間を尽くして説明すれば、過去の
自分を納得させられる自信を、彼は抱いている。
 ミトルナ公は、迷っているのだ。本心から王位に適さないと考
えているのなら、そもそも宰相への申し入れもしなかっただろう。
そう考えたシノンは、想いをぶつけてみようと決めた。
「もしも、ルーン様が国王に向かないとお考えなら、陛下にクラ
ン殿を後継者とするよう言上していただけないでしょうか」
 唖然としたミトルナ公の代わりに、初老の騎士が問い返す。
「なんだと?」
 公に向けた視線は逸らさず、シノンが続ける。穏やかな口調は
変わっていない。
「陛下が倒れられてから、カルムの政情は揺らぎ続けています。
王太子になるのがだれかよりも、だれかが太子になる方が重要で
あるように思うのです」
「その言葉は、ルーン様の指示なのか」
 マルトゥースの声音に、めずらしく厳しさが籠もっている。
「いえ、私の判断です」
「臣下の身で、主君に不利な申し出をするというのか」
「ルーン様は、国王になるのを目的とされてはいません。国を安
定させるために、王位を目指されているのです」
 ルーン様は、得難い部下を手に入れている。マルトゥースの薄
闇色の瞳は、柔らかな色合いを帯びていた。対して、ミトルナ公
は衝撃を隠していない。目の前の若者については、主君に心酔し
ているだけの視野の狭い人物だとしか思っていなかったのである。
王族への復讐を生涯の目的にしていたなどとは、当然ながら想像
もできていない。
 相手を打ちのめすのは、シノンにとって本意ではない。口調は、
更に穏やかなものに変えられた。
「ルーン様の養育役を務められたからには、王位への適性を判断
する責任がおありなのではないでしょうか。……シャール公と、
会見を持ってみていただけると幸いです」
 深い礼をしたシノンは、初老の騎士に視線を転じた。マルトゥ
ースが、ゆっくりと頷きを返す。その意味は、重いものだった。
 ふっと息をついたミトルナ公は、口許に笑みを含んでいた。い
つにない、どこか突き抜けたような表情である。初老の騎士は、
やや不安な想いを胸に、白髪を軽く撫でつけていた。


 島と砂州を遠望できる視界の中で、絹目のような海面の上方に
初秋の陽が浮かび、眼下の街並みは薄紅色に染まっていた。シャ
ール公に招かれて、王子は新装開港成ったシンクの町を訪れてい
る。美しい情景に、ルーンのない絵心が疼いた。
 ミトルナ公の屋敷で暮らしていた折り、はじめて描いた絵をエ
レナに酷評されてから、彼は絵筆を手に取るのを避けてきた。も
っとも、事情を知ったマルトゥースにきつく叱られた公女は、泣
いて謝ってきたのだけれども。
 エレナの描く絵は、その頃のままに今も見事で、王宮の中にも
幾つか彼女の手になる絵画が飾られている。較べれば、ルーンの
はじめての絵が児戯に見えたとしても、まだ子供だったのだし仕
方のないところだろう。王子自身としては、地図程度が描ければ
それ以上を望む気はなかった。
 情景に見惚れていた長身の王子に、較べると少し背の低いシャ
ール公が声をかける。四十代後半の公領主は、精悍さと柔和さを
併せ持っていた。
「ルーン殿。この港がここまで整備されたのは、あなたの功績で
す。これで、カルムの物流も一層円滑になるでしょう」
「ええ。商いが盛んになれば、総てが活性化します。それによっ
て税収が増せば、より国内が安定し、余裕も生まれるでしょう。
商業が加熱しすぎるとついていけない者も出るでしょうが、まあ、
カルムの土地は地味豊かですから、やる気さえあれば再出発がで
きますのでね」
 開墾すればその者の土地になるという時代は過ぎているが、ど
この地方も小作農を広く受け入れている。負債額がものすごかっ
たり、犯罪者として追われてでもいない限り、地方を移ってしま
えば、新たな生活がはじめられる状況だった。十年ほども小作を
行えば、やがて自作農になれる。そこから上を目指すのは、簡単
ではないけれども。
 シャール公は、王子の言葉に満足げである。国庫に入る税も増
えようが、公領の収入ももちろん多くなる。自分の所領を豊かに
したいというのは、領主であればだれもが持つ望みだった。自身
の下品な嗜好を優先させる、少なくもない例外を別として。
 物見台から港を見つめている二人は、年若の王子の方が頭半分
だけ背が高い。ルーンの唇から、呟くような言葉が漏れた。
「築かれた港は、たとえこの身や、あるいは王家がどうなろうと
も、関わりなく栄えてくれるでしょう」
 耳に入った声に、シャール公の目の輝きが増す。応じる壮年領
主の口調は静かだった。
「もしや、虚無に取り込まれておいでなのではあるまいな。恥ず
かしながら、かく言う自分も若かりし頃、領主などという仕事が
無意味に思えた時期があります」
「シャール殿が?」
 ルーンの瞳が、めずらしく純粋に驚いている。にたりと笑うシ
ャール公の頬には、年輪を感じさせる緩い皺が刻まれていた。
「ええ。まあ、流行病のようなものでしょうな。若者が患う」
「いや、この身が必要とされる限りは、力を尽くすつもりです。
ですが、ぼくの存在によって国が乱れるのであれば……」
 王子の言葉から、公は何事かを察したようだ。苦い想いが表情
に混じると、目つきまでが鋭くなったように思える。
「ラエル殿か。あの者も、怪しい動きを重ねて一体なにを目指し
ているのか。だが……」
 向き直ったルーンの顔を見て、公は続く言葉を飲み込んだ。王
子の表情は、十九歳の若者には似つかわしくない、熟成されたも
のであるように思える。
「公は、どうぞ領内の人々を安んじてください。領主や行政官が
民のことを考えていれば、だれが王座についていようと……。そ
れが、ぼくの望みです」
 壮年の公の視線が、陽が傾きつつある秋空に転ぜられた。微か
な戸惑いが、その顔には浮かんでいる。
「こんな話を、ミトルナ殿にもされているのか?」
「いえ、ここまで具体的には」
 ルーンの頬にはえくぼが浮かんでいる。シャール公も笑みを含
み、頷いた。
「そうだな。あやつは弱いようで強く、強いようで弱い。話さな
い方が無難かもしれぬな。
 ……このヒストゥ・シャールは、貴殿が命を賭けてでもなにか
を成し遂げようという際には、よろこんで力になろう」
 黙礼するルーンに、公の柔らかな視線が投げられた。親子ほど
の年齢差の二人の間に、これまでになかった繋がりが生じていた。
 彼らが立つ砦の見張り台からは、まだ小さなシンクの町が一望
できた。港には、幾隻かの帆船が停泊している。寄港税を安くし、
水と糧食を格安で提供する優遇策を打ち出した効果か、滑り出し
は上々と言えた。
 町の周辺には空き地が確保され、市壁も水道の基礎も、だいぶ
ゆとりを持った造りになっている。思惑通り、拡張工事が行われ
る日は来るだろうか。港町を見つめる王子の心には、我が子を見
るような愛着が生じていた。


 ルーンは、居室近くの裏庭に佇んでいた。目を閉ざし、周囲の
気配を感じ取れば、心地よさがもたらされる。胸に吸い込まれた
息が、ゆっくりと吐き出される。
 王宮裏の夏緑樹も、まもなく色づきはじめる頃合いである。小
動物の動きも活発で、風も柔らかい。今の時期には、長時間をこ
の場で過ごしたとしても、退屈はしないだろう。
 やがて総髪の剣士が現れれば、朝稽古がはじまる。ルーンにと
っては、剣技を高めるためというより、戦士としての自分を忘れ
ないようにとの儀式的意味合いの方が強い。実力的に劣るとわか
っていても、がむしゃらに向かってくるグロスは、相手役として
適任だった。
 けれど、近づいてきた気配は、大柄な剣士のものとはかけ離れ
た優美なものだった。目を閉ざしたままで、ルーンがそちらに顔
を向ける。
「メイナ。戻っていたんだね」
 だいぶ距離があるのに声をかけられてしまって、舞姫の頬にか
すかな憮然がよぎった。彼女としては、気配を消して近づいたつ
もりだったのである。
「ああ。これから稽古か?」
 踊り子の機嫌は一瞬で直ったようで、口調は楽しげなものとな
っていた。
「うん。グロスが来たらね。……と言ってたら、やってきたよう
だ」
 王子の言葉通り、大柄な剣士が接近してきていた。急ぎ足のグ
ロスは、あきらかに鮮やかな金髪の舞姫を睨みつけている。総髪
の剣士とメイナとは、なぜか顔を合わせるたびに衝突をくり返し
ているのだった。
「なぜここにいる。稽古の邪魔だぞ」
「今日もお主が相手か。たまにはあたしが代わろう。ルーンだっ
て、同じ者とばかりでは飽きるだろう」 
「なにを言うか。そのような細腕で、ルーン様の相手ができるも
のか」
「腕の太さは関係ない。それに、お主のような剛剣遣いとだけや
りあっていたのでは、ルーンの剣が汚くなってしまいそうで心配
なんだ」
「……そこまで侮辱するからには、手合わせしてもらおうか」
 グロスの怒気は本物であるらしく、構えられた木刀からは闘気
が生じている。けれど、メイナの方に動揺したようすは見られな
い。
「事実しか言ってないつもりなんだが、いいだろう。美女と野獣
か。旅芸座の演目によく見られる構図だな」
 王子の足許の木刀群から長めのものを選んだメイナが、変わら
ぬ口調で挑発を重ねる。うなり声を発して、グロスが間合いを詰
めた。朝風が、王宮の裏庭を穏やかに通り抜けている。
 強烈な斬撃を、メイナは正面から受け止めた。さすがにきつか
った筈だが、軽々とした風情を保つ辺り、イヨン族の影響が強く
感じられる。驚いた大柄な剣士が飛び退くと、すがさず舞踊にも
似た連続攻撃がはじまった。けれど、グロスの力による防御は崩
せない。
 束ねた髪の先についた瑪瑙飾りが、宙に軽やかに弧を描いてい
る。一方の総髪の剣士の木刀は、敵手の攻撃を弾き飛ばさんばか
りの動きを見せている。派手やかな攻防を、ルーンは楽しげに見
守っていた。美女と野獣は、この場合にはほぼ互角であるようだ。
総合力では舞姫が勝るかもしれないが、グロスの膂力は劣勢を一
気に覆す可能性を秘めている。そして、どちらも王子の剣技には
及ばないだろう。  
 白熱した対決を観戦していたルーンは、胸に湧いてくるわくわ
くする想いを自覚していた。この両者が力を合わせたなら、自分
は互角に戦えるだろうか。欲望は止められず、二本の木刀を握っ
たルーンは、ぶつかり合う剣の間に飛び込んでいた。
「邪魔するな、ルーン。すぐに片付けるから」
「そうです。ここは白黒をつけさせてください」
 動きを止めた美女と野獣は、口々に勝負の続行を主張した。
「ぼくがいっぺんに相手になろう。それでどうかな」
「勝てると思ってるのか?」
「いくらルーン様でも、それは無理です」
 軽んじられたととった舞姫と、心配げなグロスが同時に反対の
言葉を口にする。
「やってみなくちゃわからないさ」
 王子の両刀が、臣下達の木刀にぶつけられる。激戦を繰り広げ
ていた二人は、どちらも挑まれれば黙っていられない気質の持ち
主である。あっさりと戦端は開かれた。
 二対一での戦いは、さすがに王子に分が悪かった。けれど、幾
度仕留められても、ルーンはあきらめずに立ち向かっていく。両
者とも一対二の戦闘に急速に適応し、戦いは激しさを増していっ
た。
 息が切れ、やがて三人はその場に倒れ込んだ。ここまでやるの
は、くすんだ金髪の若者にはめずらしい。 
「ルーン……、お前は、かなりの、負けず嫌い、なんだな」
 激しい息の合間に、メイナが評を投げる。
「うん……、こんなに、戦いに集中、したのは、イヨンの森での、
修行以来、だ」
 王子の呼吸が乱れているのを、グロスははじめて目にしていた。
大柄な剣士はというと、言葉を発せられる状況にはなかった。激
しい息づかいは、まさに野獣のようでもある。
「メイナ、暇があったら、また顔を出してくれ。両刀の使い方に
も、慣れておきたい」
 息を整えつつあるルーンの意向を聞いて、舞姫は驚きの視線を
投げていた。イヨン族では、戦闘はどこまでも一対一のものとさ
れている。無意識のうちに縛られていたと悟った王子は、改める
のをためらいはしなかった。
 翌日から、ルーンの朝稽古の相手は複数が基本となった。エー
ムやシノン、グーリーも加わり、一度に五人に対することすらあ
った。戦いの雰囲気を失わないためだった稽古は、更なる高みを
目指すものへと変わっていた。 

祖国のために、できること 7.主のいない都 (三)



 春が深まると、東宮外縁を抜ける廊下には、茉莉花の香の匂い
が漂うようになる。情報官室へと向かうルーンが歩いているのは、
かつて次兄の母と対峙して、亡き師によって救われた想い出の回
廊である。次兄であるアトマ王子も、その母のセユラも、病によ
って既に世を去っていた。
 王子の服装は軽装で、黒絹の肩掛けを羽織っていなければ、王
族には見えないかもしれない。少なくとも王宮にあっては、黒絹
の衣服を着るのは王族の特権とされている。ルーンとしては、形
式ばった感じであまり好きではないのだけれど、黒絹さえ身に着
けていれば、他の服装が簡素でもごまかせる。その意味で、とて
も便利ではあった。
 現在のルーンの活動範囲は、摩擦をなるべく避けるため、宰相
や各長官の手の届かないところに限られている。海外との交易準
備、街道警備の強化、手工業の育成、それに情報官制度の拡充が、
これまでに手がけた施策だった。軍事と農政には、領地を持たぬ
身である故、触れてきていない。
 宰相であるラエルとは、必要な折りには普通にやりとりをする
し、互いの道を妨げようとはしていないが、やはり冷たい関係で
あると言えよう。宰相から隔意を持たれる理由を、ルーンは今も
わからずにいた。自分を見つめる目線に、どこか狂おしい色合い
が感じられるのである。
 かつての審問会での振る舞いが、嫌われている理由のひとつか
もしれない。けれど、そもそも証拠のない告発を取り上げる方が
どうかしている。その点は、おそらくラエルもわかっている筈だ
った。
 王位に就いた後で、操縦できそうにないと思われているためだ
ろうか。それとも、簒奪を狙っているのか。もっとも、ラエルに
は子がおらず、王位を得たとしても、それを受け渡す相手は見当
たらないのだが……。
 ルーンが考え事をしながら歩いていると、ふと視界に自らを見
つめる眼が入ってきた。線の細い少年が、はっきりとこちらを睨
んできている。
 身なりのいいその金髪の少年は、十代半ばといったところだろ
うか。姿勢がよく、離れていても目つきの鋭さがわかる。その姿
にどこか見覚えがあるような気がしたが、歩み寄って身元を確認
する必要までは感じられず、ルーンは角を右へと折れていった。
 長身の王子を見送った少年の背後に、中背の男が現れた。一見
すると穏やかそうな顔の中には、明らかな力を感じさせる眼があ
る。それは、宰相のラエルだった。
「クラン様、あの者が王子殿下です」
 若き王族は、ルーンの姿が消えた角に燃える視線を注いでいる。
「あいつが父様を謀殺し、王位を奪おうとしている……」
「トゥホーク殿が王位に就いておられたら、あなた様が王太子に
なっていたでしょうに」
 ラエルの頬には、薄い笑いが浮かんでいた。憎き従兄の残像を
睨むクランには、他者に気を配る余力がなく、宰相の表情に気付
く筈もない。亡き王弟の遺児の肩に、ラエルの手が置かれる。明
るい金髪の少年は、かつて父が使っていた居室へと導かれていっ
た。
 
 部屋に入ってきた若い王子を、情報官のグラディスが笑顔で迎
えた。彼は、ルーンが組織した情報官を束ねる組織で、副長官職
を務めている。
 これまで、情報官が各地から送ってくる報告をまとめるのは、
慣習によって引退した情報官と専任吏員の仕事とされてきた。赴
任する場所や期間については、王か宰相、あるいはその下僚が、
経験者の意見を聞いて定める。任地の決定にあたっては情実が介
在する場合が多く、適材適所とはとても言えない状態だった。
 その状況を改めるため、引退後の情報官と、現役情報官、それ
に見習いと専任吏員で支援組織をつくろうというのがルーンの発
案だった。報告のまとめを担当すると共に、人事についてもこの
組織で案を出し、国王の裁可を得る形にしようというのである。
 情報官経験者らと協議を重ねて組織案をまとめ、宰相をはじめ
とする関係者に諮ったところ、反対する者はなかった。王子がご
く幼い頃から報告原文を読んでいたのは、半ばの呆れと共に知ら
れているため、その動きも不思議には思われなかったのだろう。
 構築された組織は、現役の反発を防ぐためにあくまでも支援を
行うという形にした。長老級が参画していることもあってか、表
だった反対意見は出されていなかった。
 設置された場所から情報官室と通称されるようになるこの組織
は、情報官制度の質を更に高めるだろう。と同時に、集めた情報
を独占しかねない危険を孕むのは、ルーンにはわかっていた。
 その歯止めとするため、王族と長官級には全情報を開示し、秘
匿すべき情報以外は望む者には公開するとの一項を、定め書きの
はじめに置いた。たとえ厳格に守られなくても、一応の抑止効果
はあるだろう。ルーンとしては、そう期待したいところだった。
 副長官役のグラディスは、再び他国へ赴きたがっているのだが、
王子からもう少しと頼まれ、国内に留まっている状況だった。
「ルーン様、新着の資料をまとめておきました」
 そう告げたグラディスは、組織が固まってきたためもあってか
穏やかな表情である。 
「いや、特別扱いはしなくていいのに」
 困ったようなルーンの口調に、目鼻立ちのはっきりした情報官
が、首を振って説明する。
「あ、いえ。新着の報告を読みたがる者が増えたので、一つ棚を
作って、一旬ほどそこに置くようにしたのです」
「へー。熱心なのがいるもんだな」
 本気で言っているらしいようすに、グラディスは心中で苦笑し
てしまう。王子が総ての報告書の隅々まで目を通しているという
のに、情報官を目指す者や、なんでも把握しているという顔をし
たお歴々が読まずにいられようか。彼自身も、ルーンを見習って
総ての文書に目を通すようにしていた。
 新たに設けられた棚の前には、閲覧用の机まで置かれている。
王子が先客に会釈をすると、情報官志望の黒髪の若者は、机に額
をぶつけんばかりの礼をした。
各地域の棚を探さなくても、新着情報が確実にそこにあるのだ
と思うと、楽なのだがちょっと調子が狂う。そんな思いも、一つ
目の報告を読みはじめるまでで、すぐにルーンは異国の現況に没
入していった。斜め前の席に座る同年代の情報官の卵が、憧憬を
込めた視線を送ってきている。ハノーム西域の盗賊団の活動につ
いて読み込んでいるルーンは、それにはまったく気付かなかった。


「クランという少年を知ってる? あなたの従弟だそうなんだけ
ど」
 居室を訪れていたエレナが、不意に王子に向けて問いを投げた。
彼女の視線は、向かい合って腰掛ける、やや高い位置にあるルー
ンの瞳に注がれている。
「今は亡きトゥホーク叔父の遺児だね。顔は見たことないけど。
……もしかして、明るい金髪で線の細い、十四、五の少年かな。
生真面目そうな」
「会ったの?」
「廊下で睨まれた。なるほどなあ」
 ルーンが天井を仰ぐ。直子でなくても、王位の継承権はある。
その王族の少年は、ほぼ隠居状態にあるザンダに続いて三番手と
なる。ルーンに子が産まれるまでは。
 登場した亡き王弟の遺児が、有力者の支援を受けて積極的に王
位を目指すのなら、ルーンに失態があった場合、王座への道は必
ずしも平坦なものではなくなる。王子がひとりだけなのに、十九
歳になっても立太子していないというのは、かなり異常な状態な
のだから。
 心配そうに幼なじみの横顔を見つめるエレナは、椅子に背中を
預ける王子の小さな呟きを聞き逃さなかった。
(王位なんて、いつでも譲るのに)
 くすんだ金髪の若者の紅い唇は、どこか疲れたような動きだっ
た。
「ルーン! いま、なんと言ったの」
 立ち上がったエレナは、足を踏ん張り、睨みつける。束ねた髪
を揺らしながらのその体勢は、彼女を一層子供っぽく見せるのだ
が。若い男女のやりとりを、壁に掛かる婦人の肖像が見つめてい
る。
「父上は、勇退される気はないのかな、って」
 ルーンは小首を傾げて、友人の反応に不思議そうな表情すら浮
かべていた。聞き違いだったのかしらと思いながら、蒼い瞳の公
女は問うた。   
「あら、王位に就く覚悟がついたの」
「覚悟は最初から固まってるってば。言ったろ。人々が安んじて
暮らせる国にしたいって」
 そして、目的のためには王位にこだわるつもりはないのだけれ
ども。返答の続きは、口中の呟きにとどめられた。
「それなら、いよいよ立太子式をしなくてはね。お父様から働き
かけていただきましょうか」
「いや、それも手数をかけるし……」
「うん、早速お願いしてくるわ」
 聞いていないエレナは、その思いつきに引っ張られるかのよう
に、素早く部屋を出ていった。
 ルーンは成長した今でも、幼い頃のままの三室のみを使ってい
る。想い出の詰まった場所を、窓から身を乗り出せば祠を囲む樹々
が見えるこの部屋を、離れたくないのだった。そのため、東西の
両宮は今のところ空き室となっている。中央の本宮にも主の姿は
ないが、その辺りには宰相をはじめとする行政官達の執務室があ
るため、人の出入りは多かった。
 二人分の果汁水を運んできた侍女が、ルーン一人であるのを知
って戸惑ったようすを見せる。立ち上がった王子は、濃茶の髪の
侍女から一つだけ杯を受け取った。ルーンの視線は、辞去するそ
の娘からすぐに離れ、窓外へと移る。
 裏庭からの春風が、窓を通り抜けて入ってきている。柔らかな
風に包まれ、ルーンの心は和んでいた。


 盆を持って王子の居室を離れたノリスは、唇からちいさなため
息をこぼした。亡き友の代わりになりたいと思っているわけでは
ないし、なれる筈もない。けれど、ずっとついているのに、言葉
をほとんど交わさないというのは、やはりふつうの状態ではない。
 すぐに寝所に連れ込もうとするのに較べれば、仕えやすいのは
間違いない。けれど、ミアナがどのように王子に接していたかを
知る身にとって、現状はきついものだった。
 ルーン王子の臣下達は、だれもがノリスのことを気遣ってくれ
る。居心地はいいのだけれど、亡き友人の想いを考えると……。
 もうひとつ、ちいさなため息がこぼれ落ちた。女官長のキュシ
ルに相談してみても、彼女を悩ませてしまうだけだろう。ともか
く、今はにこやかに仕えていよう。笑みをつくったノリスは、待
機部屋へと足を向けた。口角を上げているうちに、自分の行動が
滑稽に思えてきて、笑みは本心からのものに切り替わっていた。
弓弧から廊下に入ってくる柔風が、ノリスの紺服の裾を軽やかに
揺らしていた。


「父上。ミトルナ公が宰相殿を通して、陛下に立太子式の開催を
言上しているそうですが」
「そうか。早耳だな、コルナよ」
 白髪のシムス公が、息子に冷たい視線を送る。ほめ言葉をかけ
られている筈なのに、明るい茶の髪の公子は圧迫感を覚えていた。
けれど、コルナも既に十九歳となっている。怯んでいられる状況
ではなかった。
「陛下は、立太子を認められるでしょうか」
「ふむ。問題は、陛下に伝わるかどうかの方ではないかな」
 沈香の匂いが漂うシムス公の居室では、灯明の数は控えめとな
っている。大量の灯りで夜闇を打ち消したがるのは、若者である
場合が多い。微風が灯明を揺らめかせ、壁の親子の影が大きく動
いている。室内の薄暗さは、公子に落ち着かぬ思いをもたらして
いた。
「では、ここまで立太子式が行われていないのは、ラエル殿の意
向なわけですか」
「さてな。オール王は、ルーン殿を気に入っていたようではある
が……」
 父親の口振りが、コルナをいらつかせる。シムス公は、ごく幼
い頃から非力な王子を認めているようである。それが、明るい茶
の髪の公子には納得できないのだった。
 競争者が相次いで退場した現状でも、ルーン王子の権力基盤は
極めて弱い。コルナには、自分が次代の国王に名乗りを上げれば、
いい勝負ができそうにすら思えている。
 だが、そんな想いを父親に見せつける必要はない。口にしたの
は別のことだった。
「ラエル殿は、王子を嫌っているのでしょうか」
「そこがわからんのだ。単に排除したいのなら、幾らでもやりよ
うがある筈なのに、甘い顔を見せたり、きつくあたってみせたり。
あやつは、一体なにがしたいのか」
 父親が疑念を抱える理由が、公子にはわからない。コルナには、
宰相が王子の弱さに苛立っているようにしか見えないためである。
「父上は、立太子式についてはどう働きかけるのですか?」
「新たな手駒を得たばかりの宰相殿は、すぐには応じないだろう。
となれば、中立でいるしかないな」
 あっさりと、公子が頷く。ラエルが亡き王弟の遺児を手中にし
たとの情報は、クランの到着前にシムス公家にもたらされていた。
従兄弟同士での権力争いがはじまるとしたら、どちらにつくべき
か。親子の見解は、当面の様子見で一致していた。 

 

 鮮やかな金髪が、首の後ろで綺麗に束ねられている。王宮をき
びきびと歩く娘は、単に造形が美しいだけでなく、人目を惹きつ
けるなにかを備えていた。
 行き交う男女から視線を向けられても、金髪の侍女に意に介す
ようすはない。広いようで狭い社会である王城では、新参者とい
うだけでも目立ってしまう。その紺服の娘は、同性に一瞬で妬心
を生じさせそうなほどに、凛とした風情を持っていた。
 夏次月ともなれば、廊下にこぼれる陽光は眩しさを備えている。
光と影が交差する石板を、律動的な足取りが通り過ぎていく。と、
向かい側から明るい金髪の少年がやってきた。その人物の首許に
は、黒絹の肩掛けが見える。
 香の保管場所へと向かう娘に、あいさつをする気配はない。黒
絹の着衣は、王族以外は用いない慣わしである。侍女ならば、も
ちろんそれを知っている筈だ。身分の軽い者に素知らぬ顔で行き
過ぎられたなら、普段のクランならむっとするところである。だ
けれど、王族の少年の目線は、自分よりも鮮やかな金髪に吸い寄
せられていた。すれ違った娘を見つめる瞳には、輝きまでが含ま
れている。
 王宮で焚かれる香は、各所に決まった量が配給されている。不
足する筈はないのだが、金髪の侍女は時期外れの冬橘の香を探し
に来たのだった。王子に仕えていると聞いては、香の手配役も便
宜を図らざるを得ない。
 王宮では、季節によって焚く香は決まっているけれど、他の種
類の在庫がないわけではない。王族向けとあって、保管されてい
る最上のものが用意された。
 小容器を携えて、侍女が香の保管場所を出る。と、そこには待
っていた者がいた。ややきつい顔立ちの少年が、まっすぐな視線
を鮮やかな金髪の侍女に向ける。
「きみ、名はなんという」 
「メイナと申します」
 ようやく相手の身なりを確認して、侍女の格好をした舞姫が恭
しく応じる。少年の年頃の王族といえば、病身の国王からは甥に
あたるクランしかいない。そのくらいの知識は、彼女も身につけ
ていた。 
「メイナか。誰についている侍女か知らぬが、ぼくの許に来てく
れ。侍女頭には、こちらから話を通しておくから。これから、す
ぐに来てもらおう」
 王族からの引き抜きは、王宮に勤める者にとっては名誉だとさ
れている。まして、クランは強い自負を抱いていた。けれど、金
髪の侍女は首を縦には振らなかった。頭ごなしに命じられるのに
慣れていないメイナは、瞳に反発の影さえも閃かせている。
「いいえ、主君に聞いてみませんと」
「主君とは誰のことだ」
 目つきを鋭くさせた少年は、思わぬ名を耳にした。
「あたしは、ルーン様に仕えております」
 絶句したクランに一礼して、舞姫出身の侍女は素軽い足取りで
立ち去った。残された少年は、話を一方的に打ち切られたのには
気付かず、金髪の娘の後ろ姿に視線を送っていた。


 冬橘の香を焚いたメイナは、香炉を片手に王子のいる部屋へと
入った。なにか書き物をしているくすんだ金髪の若者は、人の気
配にも顔を上げようとしない。彼女が視線を投げれば、ルーンに
わからない筈はない。だけれど、王子は反応を見せなかった。
 存在を無視されると、メイナは旅芸座で人前に出はじめた頃を
思い出す。彼女も、最初から舞で人を魅了できたわけではない。
技が拙い少女に、観客は視線を送ろうとはしなかった。
「ルーン。冬橘の香にしてみたんだが、どうだ」
 室外では侍女として振る舞うメイナだが、王子と二人きりの時
には普段の語り口調に戻る。親しげな問い掛けにも、ルーンは顔
を上げない。
「うん、ありがとう」
 気のない返事が、メイナの右眉を上げさせた。普段なら、当然
のように雑談に入る筈のところである。
 侍女服を着たとたん、目線も合わせないというのが、舞姫にと
っては気に入らない。侍女をそのように扱うのが、王族らしい態
度だとでもいうつもりか。怒りを腹に収めて、メイナは軽やかな
足取りで退出した。侍女の気配が消えると、くすんだ金髪の青年
は小さな安堵の息を吐いた。


 メイナが侍女として勤めるのについては、侍女頭であるキュシ
ルの許可を得ている。新人の女官は、毎夜彼女の許に報告に赴く
よう義務づけられている。採用の経路が特殊であっても、キュシ
ルは例外として扱うつもりはないようだった。立ち居振る舞いの
訓練においても、特別扱いはされなかった。慣れない娘には厳し
い筈の研修も楽しげにこなし、二旬という短期で、メイナは実際
の勤務に入っていた。 
 開け放たれた窓からは、月光が入り込んできている。簡素な報
告が終えられると、女官長が口を開いた。彼女はクランから、い
つでもメイナを侍女として迎え入れるとの伝言を受けていたので
ある。
「あなたは、元々がルーン様の配下なのだし、判断は任せるわ。
望まれるのは、名誉なことではあるのだけれど」
「考えてみます」
 あっさりと応じて、メイナは辞去した。金髪の娘の足取りは、
夜になっても素軽いままである。見送る侍女頭の表情は、薄曇り
となっていた。
 ルーン王子につける侍女に関しては、キュシルもずっと頭を悩
ませてきていたのである。女好きで、すぐに寝所に引き込もうと
するのなら、対処法は立てやすい。けれど、王子の侍女への対し
方は……。
 侍女頭は、心中で亡き知己に問いかけていた。あのきびきびと
した娘は、ルーン様の心を癒やしてくれるかしら、と。


 朝食の間、ルーンの臣下が誰も訪れないというのはめずらしい。
給仕するメイナと、その朝も王子は言葉を交わそうとしなかった。
配膳について問えば、指示は返ってくるのだけれど、それだけで
ある。こんな状況が、もう一旬近くつづいている。
 ルーンを友人であり、踊りの弟子だと思っている金髪の侍女に
は、不満めいた想いが溜まっていた。これまで顔を合わせた際に
は、いつでも気軽に話していただけに、なおさらである。
 朝食の片づけを終えると、メイナがくすんだ金髪の王子の隣に
立つ。見下ろされても、座ったままのルーンは特段の反応を示さ
なかった。
「ルーン。いや、王子殿下。なにも話さないのなら、あたしが侍
している意味はないよな」
 いつにも増してきつい口調だが、それでも王子は正視しようと
しない。
「そうかもしれない」
 呟くような台詞に、メイナの瞳に怒りが閃く。突発的な激情が、
舞姫に考えてもみなかった言葉を口にさせていた。
「他の奴に侍女として仕えないかと誘われているんだが、そうし
た方がいいか?」
「望むようにしてくれ」
 問い掛けを口にした瞬間、メイナは後悔していたのだが、返っ
てきた言葉が再び激情に火をつける。
「ここで、なにもしないでいるよりは、まだいい」
 足音にまで怒りを混ぜて、メイナが直線的に退出する。紺の侍
女服が視界から消え去ると、王子の拳が円卓に叩きつけられた。
そうしておいて、巻き添えを食った机に対して、口中で謝罪の言
葉を呟く。ルーンがものにあたるというのは、かつてないことだ
った。


 朝食後に報告をしようと次室で控えていたエームは、主君に声
をかけられなかった。苛立った姿を部下に見られたとしても、ル
ーン王子は恥じ入りこそすれ、こちらにあたったりはしないだろ
う。けれど、見られたと悟らせては、波立った主君の心に更なる
波紋を生じさせてしまう。諜者出身の若者は、足音を消して控え
の間を離れた。
 金髪の舞姫を侍女として仕えさせようというのは、エームの発
案だった。王子と仲がいいために、護衛と同時に話相手をさせる
つもりでいたのである。王子が侍女とあまり関わらないのには気
づいていたのだが、メイナとまでそうなるとは完全に意外な展開
だった。
 廊下に漂う茉莉花の香りを通り抜けながら、細身の青年の視線
は揺れた。紺服の侍女達が、小声でおしゃべりをしながら行き過
ぎている。
 エームが臣従して程なく、彼の主君は侍女を失っている。家臣
達はルーンの哀しみを目にしていたけれど、その意味深さまでは
わかっていなかった。迷いを深めた濃茶の髪の若者は、王子をよ
く知る女性の許へと向かった。
 ミトルナ公の息女に対しては、初陣の際の子兎事件についてだ
けでなく、様々なできごとを書き送ってきた。将来の著述のため
に、エームは主君に関してことあるごとに文章化をするようにし
ている。書状として送る相手としては、王子と親しく、絶対的な
味方だと言えるエレナが、もっとも適任なのだった。公女の方も
エームを信頼して、公領時代の様々な想い出までを明かすように
なっている。物語の登場人物になるというのは、蒼い目の公女に
とっても心躍ることだった。気恥ずかしさも、もちろんあるのだ
けれど。
 めずらしく硬い表情の訪問者から、侍女との関わりについて問
われたエレナは、答えるまでに深いためらいを乗り越える必要が
あった。侍女との交流を避けるようになった理由には、すぐに思
い至る。かつて、共に王宮に帰還したときの、黒髪の侍女と再会
したルーンのうれしげなようすは、今も微かな胸の痛みと一緒に
思い出せた。
 ミアナ以外の侍女と親しくするのは、死んだ彼女に悪いと思っ
ているのではないかしら。あるいは、あのような哀しみを味わわ
ずに済むように、関わりを持たないようにしているのかも。なに
しろ、幼い頃にずっと一緒だった大切な人を失ってしまったのだ
から。そう聞かされて、エームは得心したのだった。
 王子の臣下達は、ミアナと一緒に過ごした時間はごく短い。深
く信頼する、大切な存在だったとまではわかっていたが、幼少期
にまでさかのぼる関わりだとは、エームも含めてだれも知らなか
った。ために、そこまでの深手だとは思っていなかったのである。
物心がつく前から一緒だったとすれば、並みの母子よりも深い関
係だと言えるだろう。
 となれば、親しい間柄のメイナを侍女に配するのは、傷に塩を
塗り込むようなものだろう。謝意を表したエームは、公女の居室
を辞去して駆け出していった。
 立ち上がって見送ったエレナは、ちいさな息をついた。もしも、
あの時に毒で倒れたのが自分だったなら、ルーンはあそこまでの
打撃は受けなかったのではないかしら。そんなどうしようもない
思考を、首を振って払う。意識して笑みを作った公女は、中断し
ていた彩色へと戻った。


 探し人がどこに向かったのかわからず、エームが困っていた頃。
侍女服を着た舞姫は、既に主君の従弟の居室にいた。装飾の華や
かさは、ルーンの居室とは比較にならない。
 反発心に押されて行動するというのは、彼女の生涯ではじめて
の経験である。笑みを見せていないメイナに、王族の少年はよく
来てくれたと声をかけた。
 放たれる問い掛けに、鮮やかな金髪の侍女は迷いなく応じてい
く。答えにくい、ルーンに関する質問は為されなかった。出身地
についての問いからはじまった、南西地方についての一連の質問
に、メイナが考えを述べていく。旅芸座の一員として、また諜者
見習いとして各地を歩き回った彼女は、観察眼の方も剣技と同様
に鋭いものを持っていた。
 これまでクランについていた侍女は、単に世話をするだけの者
達だった。部下達も、ただ従うのみである。いや、実際には王族
の少年の方が、明らかな隔意を放射しているのだが、被害者意識
に取り囲まれた幼い存在に、そのような自己認識はない。
 機転の利く話し相手を持ってこなかったクランは、鮮やかな金
髪の侍女との問答が進むにつれ、笑みを顔に溢れさせはじめた。
父親の血を全身に浴びてから、だれも目にしていなかった表情で
ある。人相まできつくなってきていたのだが、笑ったときの人懐
っこい目は、舞姫に主君であるルーンとの共通性を感じさせた。
 恨みのために王位を狙う少年だと聞いていたが、明るい笑みを
見る限り、そんな風には思えない。だれかに利用されているので
はなかろうかとまで、メイナは考えていた。
 王都に入ったクランは、新たな腹心を求めてはいない。王族の
少年にとって、王位の近くにいる従兄の行動は、総てが否定すべ
きものとなっている。衛兵や各公領の兵から部下を求めるという
のも、下品なやり方だと公言していた。
 クランの近くにいるのは、後見役となっている宰相らを除けば、
父親が存命の頃からそばにいて、彼を見離さなかったヒュールと
シラルのみである。若い二人には忠誠心はともかく、機知に富ん
だ対話は望めなかった。
 侍女として迎えられた筈のメイナだったが、その日も、翌日も、
侍女らしい仕事は言いつけられなかった。クランによって、そば
近くで話し相手として仕えるよう求められたのである。これまで
ついてきていた侍女達は、嫉妬するよりも呆れてしまっていた。
つい先日までのクランは、気難しく、ひどく無口な少年だったの
に、新入りの侍女に向けてはうれしげに絶え間なく話しかけてい
るのである。年長の侍女のひとりは、迷子になった仔犬が母親を
見つけたようだと評していた。


「ルーン様……、思慮が足りず申し訳ありません」
 謝罪するエームに、王子は首を振って応じる。
「いや、メイナが怒るのは無理もないと思う。けれど、すまない。
頭で改めるべきだと思っても、いざとなるとそうはできなくって
……」
 所在なげな視線を床に投げていると、王子は年齢よりもだいぶ
幼い存在に見える。エームは、自分が考えなしに、触れるべきで
ない部分にまで踏み込んでいたのを痛感していた。
「メイナと連絡が取れずにいます。休むのも他のクラン殿付きの
侍女達と一緒であるため、あちらがその気にならないと接触はむ
ずかしいのが実状です」
 諜者といっても、万能なわけではまったくない。内通している
のならともかく、対立する陣営にいる侍女と怪しまれずに接触す
るのは困難だった。
「謝りたいとは思うのだけれど、もしもメイナが望むなら、クラ
ンの許にいてもらうのがいいのかもしれない」
 それもまた、王子の本心なのだろうとエームは思う。この人に
は、誰をも束縛しようというつもりはないのだろう。けれど、旅
芸座の座長によって託されたメイナとの関係は、怒りの爆発で終
わらせていいものではない筈だった。はぐれイヨンの人物から頼
まれたからではない。鮮やかな金髪の舞姫は、王子にとって数少
ない対等に話せる存在なのだから。
 エームが本心から困っているというのも、稀なことである。シ
ノンとグーリーにも相談は為されているのだけれど、対応策は生
まれてきていなかった。
 居室には、熱気を含んだ風が入り込んできている。初陣に臨む
前より、主従の憂いは深いようであった。


 無役の王族の少年に、決まった公務があるわけではない。空い
ている時間のほぼ総てを、クランは新入りの侍女と一緒に過ごし
ていた。他愛のない話に終始しているのだが、整った顔立ちの少
年は、メイナの言葉にいちいち感心している。
 少年の表情から偽装の影は感じ取れず、純粋に話を楽しんでい
るようにメイナには思えた。狩猟に熱中していた頃の、憑かれた
ような印象はすっかり影を潜めている。
 王族とは、話し相手が持てないほどに孤独な存在なのだろうか。
そう考えた舞姫は、ルーンの周囲の者達に思いを巡らす。
 臣下だとは言っても、シノンやエームをはじめとする者達は、
言葉遣いはともかく友人として対しているように見える。巷の商
家の主従の方が、よほど厳格な関係なのではないかとまでメイナ
は思う。言葉を交わしたことはないが、ミトルナ公の息女とも仲
がいいようだ。それに、自分とも……。
 そこまで思考が進んだとき、舞姫の背筋を冷たいものが駆け下
りた。友情めいた交流があるように感じていたのは、錯覚に過ぎ
なかったのだろうか。心細さを振り払うように、メイナは眼前の
少年の周囲に考えを移した。
 ヒュールとシラルという二人の若者が、以前から仕えている腹
心のようだ。けれど、あまり主君と仲がよいようには見えない。
交わされる言葉を聞いても、一方的な指示とほめ言葉とでは、会
話として成立しているとは言えない。
 侍女達との関わりは、ルーンと似たようなものだった。いや、
クランの方が、扱いがぞんざいである。他の紺服の娘達からは、
徐々にメイナに敵対心のこもった視線が投げられはじめているが、
無理もなかった。
 今は王都を留守にしている宰相が後見役だそうだが、話を聞く
限りでは親しい関係にはなさそうだ。
 となれば、メイナ以外の誰とも、打ち解けた話はしていないこ
とになる。ここまで話を絶えさせないからには、会話に飢えてい
たのだろう。それにしても、わざとそうしているかのように、対
話の題目がころころと転換していくのだった。
「だから、ぼくは猫があまり好きじゃないんだ。あんな自分勝手
な生き物はいないさ」
「猫は気ままですね。そこが可愛いという人もいるようですが」
「あんな関わり方では、飼う意味がないよ。馬や山羊のように人
に益をもたらしもしないし。犬も、猟犬でもなければ役には立た
ないけれど、主人に忠実なところがいいな」
「クラン様は、犬を飼われていたことがおありなのですか」
「うん、紅葉宮に移る以前には……」
 話題が猫へと飛んだのは、クランが住んでいた屋敷で飼われて
いた動物についての話からである。王族の少年の話は、自分の思
うところの総てを金髪の侍女に伝えようとしているかのようだっ
た。興味深いわけではないけれど、懐かれて悪い気はしないメイ
ナは、嫌な顔をせずに付き合っている。
 考える総てを話そうとしているのなら、狩猟の際の心理状態や、
父親について、あるいは王位への想いなども、やがて話されるの
だろうか。それとも、さすがにそれらは彼女に対しては語られな
いのか。飼っていた犬の想い出話を聞かされながら、メイナは意
外に安らかに過ごしている自分を見つけていた。


 鮮やかな金髪の侍女との対話がはじまってから、既に四日が経
つ。クランが持ちかける話題は、尽きる気配がなかった。
 宰相が王都を留守にしているために、侍女と時間を過ごす王族
の少年に意見する者はいなかった。けれど、そんな時間もこの日
で終わりになる。翌日には、ラエルが王城に戻ってくるのである。
 ヒュール達が若い主君を放っておいたのは、宰相が戻ってくれ
ば、このままにはしないだろうと思っていたためもあった。わざ
わざ制止して、疎んじられる必要はない。
 夏の陽が落ちると、王都に涼風が入り込んでくる。夕食が済ん
だ後、クランは人払いをした上で、金髪の侍女を居室に招き入れ
た。普段なら、話をするのは応接室を兼ねる執務室である。静ま
った室内で、メイナと正対した少年は、ややためらった後に口を
開いた。
「君を、妻として迎えると決めた。これからもずっと、いい話し
相手でいてほしい。
 メイナとなら、王族にふさわしい金髪の子供が生まれてきてく
れそうだ。ぼくが国王となっても、正式な王妃にはしてあげられ
ないかもしれないけど、妾として不自由のない生活をさせられる
よ」
 クランの告白は、応諾を求めているのではなく、決めたことの
通達だった。口調は柔らかく、自分の物言いが相手にどんな思い
を抱かせるか、懸念している節はまったくない。メイナの右眉が、
速やかに跳ね上がった。
「せっかくのお話ですが、その気はありません」
 侍女服にそぐわない断定的な口調に、クランが唖然とする。
「言い方が悪かったかな。求婚をしているんだ」
「わかっています。断らせてもらおう」
 侍女口調から、徐々にメイナ本来の口振りに戻りつつあった。
怒りよりも、哀れみの方が胸には強い。
「いや、しかし……、そんな筈はない。侍女というのは、位の高
い者の妻になるのを目指しているのだろう。王妃でなくてはだめ
なのか? しかし、それにはラエルがなんというか……」
 狼狽している姿はあどけない少年のようなのだが、口にしてい
るのは傲慢さを結晶化させたような内容である。少なくとも、メ
イナにはそう感じられていた。
 もちろん、クランの言うとおりの未来を目指している侍女もい
るだろうが、そうでない者も多いのを彼女は知っていた。
「あたしは、夫を得るために侍女になったのではない。好いた者
の妻になるのならともかくな。
 多少の親しみを抱いてしまったが、お前にはルーンの持ってい
る優しさが欠けている。侍女は辞めさせてもらうぞ」
 手痛い拒絶と、従兄と較べられたことの双方が、王族の少年の
激情を呼び起こす。端整な顔立ちは、怒りに染まると悪神めいた
表情になる。何事かを叫んだクランは、退出しようとしたメイナ
を力ずくで捕まえようとした。後ろも見ずに、舞姫の肘がクラン
の柔らかな腹へと叩き込まれた。


 まもなく、王宮に騒動が持ち上がった。クランの居室を、暴漢
が襲ったというのである。命に別状はないとしても、王族が襲撃
されたというのは重大事である。衛兵が廊下を駆け回ったが、捕
らえるべき者の姿を知る者はなかった。襲われた少年は、犯人に
ついて口を閉ざしていたのである。
 騒ぎの報せは、ルーン達のところにも届いた。メイナの仕業か
もしれないという想像が働き、エームを中心として捜索が開始さ
れる。王子自身も、金髪の舞姫の姿を求めて居室を後にした。
 襲撃者がメイナであるなら、王宮内を逃げ回ったりはしないだ
ろう。そう考えたルーンは、夏の夜のざわついた裏庭へと向かっ
た。歩いていると、自然と春風の祠が寄ってくる。
 そこには、夜闇の中で佇む侍女の姿があった。樹々に囲まれた
祠が、ルーンの想い出の場所であるとは、鮮やかな金髪を束ねた
舞姫は知らない。白木蘭の若木が、彼女が立つ隣にある。
「メイナ」
 王子の声が、薄闇の中を飛ぶ。喜色をみなぎらせて振り返った
紺服の娘から、ルーンは素早く目線を外した。そのようすを見て、
メイナの心が再び揺らぐ。
「どうしてなんだ。この服を着ているからなのか」
 鼻声になったメイナが、薄闇の中でぼんやりと見える侍女服に
手をかける。脱ごうとするのを、慌ててルーンが制止した。侍女
服を脱いだなら、その下にはごく薄い布地しかない筈である。揉
み合いながら、金髪を束ねた娘の声にはっきりと涙が混じった。
「もういらなくなったのなら、いらないと言え。すぐにでもお前
のそばから立ち去るから」
 もがく侍女の腕が、ルーンに押さえられる。金髪の娘の整った
顔は、幼子が泣き叫ぶときのように崩れていた。
 ごく幼い頃に母親に捨てられたメイナにとって、信頼する相手
からの拒絶は特別な意味を持つ。旅芸座を巣立った彼女は、ルー
ンを新たな身内として捉えるようになっていた。
 拾ってくれた養親の望みに沿うため、剣と踊りの修行に猛烈に
打ち込んだように、彼女の人への想いは大きな力となる。けれど、
逆に働くと精神を破壊しかねない勢いを持っていた。クランに引
き寄せられたのも、求められている感覚が得られたためだろう。
 ようやく目線を合わせると、くすんだ金髪の王子は舞姫から手
を離した。メイナが動きを止めたのは、星明かりの中でも王子の
瞳に決意が読みとれたからだった。
「違うんだ……。メイナには、謝らなければいけないことがある。
 この祠の近くには、ぼくに最初についてくれた侍女が眠ってい
る。まだ幼い頃から世話をしてくれた、ミアナという名のその人
は、ぼくの身代わりとなって命を落としたんだ。ミアナは、思い
返せる最初の時には、もう隣で笑ってくれていた、とても大切な
存在だった。
 きみとミアナとが、特に似ているというわけじゃない。でも、
侍女として近くにいられると、どうしても重なってしまうんだ。
重なるんだけれど、やはり違う。そう感じると、ミアナの不在だ
けが思い起こされるためか、普通に話せなくなって……。
 もっと早くに、メイナには侍女としてつくのをやめてもらえば
よかったのかもしれない。けれど、エームがぼくのためにしてく
れたわけだし、慣れれば平気になる可能性に賭けてみていたんだ。
 ……でも、どうやらだめみたいだ。侍女の格好をしたメイナと
は、こうして話しているのさえ、ぼくにはつらい」
 ルーンは、自分の黒絹の上着を舞姫の肩にかけた。前で紐を結
べば、侍女服を着ているとは意識せずに済むようになる。
「侍女じゃなく、臣下として仕えてほしい。どうかな?」
 王子の顔に、柔らかさが戻ってくる。メイナの心に、ようやく
安堵が拡がった。
「わかった。もう、この服は着ない。ただ……」
「ただ?」
 メイナの整った顔の中では眉根が寄せられ、懸念の表情が形作
られている。
「お前の従弟の腹に、思い切り肘撃ちを入れてしまった。妾にす
ると言えば、あたしが泣いて感謝するとでも思っていたようでな。
どうにも気に入らないから、後悔はしていないんだが、お前との
関係がまずくなってしまうかな」
「いや、問題ないさ。髪型を戻せば、誰もきみだと気づかないだ
ろうし。王族の中には、従われるのを当然だと思う者もいる。す
まないね」
 笑みを浮かべていたルーンが、表情を変えて頭を下げる。
「……お前が変わっているというのを、改めて思い知らされたよ」
 真顔で言われて、王子が小首を傾げる。
「そうかなぁ。あ、でも、クランの妾なら有望かもしれないよ。
最低でも領地暮らしはできるわけだし、王母となって権力を握れ
る可能性もあるんだから」
「あたしに似合うと思うか?」
「いや、まるで似合わないと思う」
 ルーンが、真剣な表情で応じる。夜闇の中で交わされた笑声が、
小さな騒ぎの幕を下ろす役を果たした。


 とは言っても、本気で追捕が行われたなら、まずい事態になっ
ていたかもしれない。暴漢騒ぎの中で、目をかけられていた新入
りの侍女が姿を消したとなれば、関連性を疑う方が自然なのだか
ら。
 メイナが元はルーン王子に仕えていたとは、調べればすぐにわ
かる。クラン側から照会が来たなら、どう言い抜けようかと知恵
を絞っていたのだけれど、結局のところはどこからも問い合わせ
はなかった。侍女頭のキュシルにも、事を荒立てるつもりはない
ようである。鮮やかな金髪の舞姫は、王都を離れてほとぼりを冷
ますことになった。
 王族からの求婚を退けた娘を見送る役は、エームに託された。
彼女は、再び諜者として活動するのである。束ねられていた髪は、
元通り幾つもの編み込みに分けられ、毛先には蒼い髪飾りがくく
りつけられていた。
 馬を並べた二人は、諜者達の根城へと向かっている。降ってく
る熱気のこもった陽射しの中で、メイナは楽しげな視線を周囲に
投げている。自分よりも段違いに手練れである部下に、馬を寄せ
たエームが声をかける。
「クラン殿は、どんな人物だったのです?」
 穏やかな問い掛けに、舞姫は笑みを浮かべて答える。
「ルーンとは、すごく似ていて、全然違う奴だったな。ルーンも、
育て方を間違えればああなっていたのだろうか」
 メイナの口調に、王族に対する畏れはなかった。
「となると、幼いときは不遇に過ごした方がよいのかもしれませ
んね。もっとも、ミアナ殿をはじめとして、ルーン様は周囲の人
物に恵まれていたようなのですけれど」
「クランの奴は、ある意味では不遇なのかもしれないな。父親に
死なれたからではなくて、周りにいた者達の面でだが。あたしは、
妾にはならないにしても近くにいたなら、あいつを変えてやれた
のだろうか……」
 舞姫のした遠い目を、エームは見ない振りをしていた。 
「だが、あそこまで成長しているからには、周りのせいにはでき
ないな。今後どうするかは、あの者が自ら選び取っていくしかな
いのだから」
 迷いを断ち切るように言ったメイナは、ちらりと隣に目をやる
と、馬を走らせはじめた。馬術なら、エームは金髪の娘に引けは
取らない。追いつくべく栗毛に指示が出したエームは、軽やかな
笑みを浮かべている。諜者の長としては、新たな部下をどう使う
か、やや悩ましいところだった。


 午後のお茶を運んできたノリスは、王子のいつもと違うようす
に気づいていた。なにかを言いたそうで、迷っている風情がある。
 ごく短い間だけ同僚だったメイナについて、口止めでもされる
のだろうか。そう考えた濃茶の髪の侍女は、動作をすこし緩くし
ていた。まあ、もともとがゆっくりした動きの娘なのだけれど。
 まもなくためらいを越えて、ルーン王子は口を開いた。視線は、
ぎこちなく逸らされている。
「ノリス。その、そっけない態度をとっていてすまない。かつて、
優しくしてくれた侍女を死なせてしまったために、侍女服姿を見
るだけで……」
 王子の言葉が、そこで呑み込まれる。驚いたノリスは、細い目
をもっと細めて王子を見つめる。
「ルーン様。そう言ってくださるだけで充分です。ミアナは、あ
たしの親友でもあったのです」
「そうだったんだ……」 
 ほぼはじめて、ルーンは濃茶の髪の侍女を直視していた。意識
せず、表情が幼さを帯びてくる。どこか途方に暮れたような無防
備さが、王子の瞳には浮かんでいた。
「以後も、これまでどおりお仕えさせていただきます。どうぞ、
お気遣いなく過ごされてください」
 そう返したノリスの目尻には、光るものがあった。
「うん、よろしくね」
 ルーンのあどけない笑みを間近で見た侍女は、これまでミアナ
以外にはいなかった。深く礼をして、ノリスは王子の居室を退出
した。彼女の足は、侍女の控え室ではなく、春風の祠へと向かっ
ていた。亡き友人に報告すれば、きっとよろこんでくれるだろう
と思いながら。
 裏庭に出たノリスの肩先を、夏風が足早に通り抜ける。肌にま
とわりつく熱気も、細い目の侍女には疎ましくは感じられなかっ
た。

祖国のために、できること 7.主のいない都 (二)


 王都ルイナからシムス公領へは、馬でなら二日の行程となる。
幾年も帰っていない故郷の雰囲気は、グーリーの心の奥を安んじ
させるものだった。かつて吸っていた空気が、胸に満ちていくの
が実感される。
 馬が向かっているのは、公領都ではない。その近郊にある、ロ
ムル本家の別邸が目的地だった。本来なら、分家の身であるグー
リーは、公領都にある本家の館に頻繁に顔を出さなくてはならな
い。けれど、婚儀に出席して以来、彼はこの地に戻っていなかっ
た。
 当主であるタクトが王都にいる間は、本来なら夫人のキーラが
本宅を宰領することになる。けれど、義母が健在であるからには、
年若い妻が別邸へとやられても、それほど不自然な状態ではなか
った。グーリーは、本家に嫁いだ妹に会いに来たのだった。
 別邸と言っても小さな建物なわけではなく、整えられた庭園ま
でが備えられている。来着を告げると、侍女によって庭へと通さ
れた。えくぼが浮かぶその娘によれば、木陰で時間を過ごすのが、
この頃のキーラのお気に入りなのだという。
 案内されたのは庭の隅の方で、樹々の重なり具合が王宮の裏庭
と似ていた。きっちりと区画された小庭園を、きっとキーラは苦
手にしているのだろう。都よりも、この辺りの方が季節の訪れは
早い。グーリーの近くに、紅い葉がそっと舞い降りてきていた。
 彼が妹を思い浮かべると、やはり幼い頃の、晴れやかな笑みを
浮かべた少女の姿となる。椅子から立ち上がった婦人の姿に、グ
ーリーは小さな違和感を覚えていた。
 兄を迎えたキーラの笑みは、楽しげなものではない。どこか困
ったような、祖父母を慰めるときに見せていたような表情だった。
「……これまでに二度、兄さんのその表情を見たことがあるの」
 唐突な語り出しに、グーリーは決意を口にする契機を失った。
「うちで飼っていた猫が殺されたときと、幼なじみだったあの人
が襲われたとき。大事なものを侵され、身を捨ててもなにかをす
るときの顔だわ」
 妹から指摘されて、薄い唇が噛まれる。キーラはそのまま言葉
を続けた。
「猫のときにはまだ子供だったのに、剣を持って抗議に行って、
半殺しにされちゃったわよね。優しかったあのおねえちゃんが辱
められ、自死したときには、家との関わりを絶つ覚悟で復讐しよ
うとしたわ。
 じゃあ、今度は……。ここに来たってことは、あたしがどうに
かなるの?」
 用件を見透かしているらしい妹の目は、哀しみで充たされては
いない。優しげな色合いが、主君の瞳のそれと近しいように、グ
ーリーには感じられていた。
「お前の夫であるタクト殿から、シムス公家に内通するように言
われている。拒絶すれば、お前の運命が変わるかもしれないとも。
……ルーン様に今後も仕えるために、その誘いを断りたい」
「そうしたら、あたしはどうなるの?」
「殺されはしないと思うが、幽閉されるか、離縁されてしまうか
もしれない」
「そう……」
 妹が夫と仲睦まじく暮らしているのを、グーリーは知っている。
タクトがしつこく従うように言ってくるのは、妻のためもあるの
だろうとも思う。けれど、彼ら兄妹には、ロムル本家の当主は、
シムス公家のためならなんでもするというのがわかっていた。グ
ーリーには、妹の幸せを破壊しようとしている実感があった。
 樹々が織りなす葉擦れの音が、沈黙を優しく埋めていた。やが
てキーラは、ぎこちない笑みを浮かべた。
「ねえ、あの人と別れたら、兄さんのところに置いてくれる? そ
うなったら、あたしはこの公領にはいられないから」
「ああ、もちろんだ。お前もきっと、ルーン様が好きになるぞ」
 兄妹の間で、ちょっと悲しみの溶けた笑みが交わされた。ずっ
と一緒に暮らしてきた彼らには、多くの言葉を尽くす必要はない
のだった。


 王城に戻ったグーリーは、まっすぐにシムス公家の跡取りの居
室へと向かった。あっさりと面会を断られたのだが、義兄の名前
を口にすると、ようやくコルナの前に招かれた。
 明るい茶の髪の公子は、余裕のある笑みを浮かべている。コル
ナと目線が合わさると、一瞬だけロムル一族の若者の決心が揺ら
いだ。
 主家からの内通指令を拒絶するのは、グーリーには勇気が必要
な行為だった。妹の悲しげな笑顔が浮かんだけれども、それを理
由にして逃げ出すわけにはいかない。
 跪いて言上しながらも、グーリーは目線までを伏せはしなかっ
た。ロムル家の若者から話を聞き、もの凄くきつい目をした公子
だけれど、口にした言葉は穏やかなものだった。
「そうか。王子殿下との仲を取り持ってくれと指示したつもりな
のだが、どうやらタクトが深読みしてしまったようだな。まあ、
気を悪くしないでくれ。あやつも、一族のためを思ってそうした
のだろうからな」
 コルナの言葉を聞いても、黒髪の若者の血が騒ぎだす気配はな
かった。
「はっ。どのような事態になっても、ルーン様に従うつもりでお
ります」
 言い切ったグーリーに、笑みを浮かべた公子が頷く。
「よい心がけだ。シムス公家は、これからも王家を補佐していく。
目指すところは同じなのだから、我らのためにもルーン殿下に忠
誠を尽くしてくれ。タクトやその妻も、そうしてくれればきっと
喜ぶだろう」
 どうやら、解放してくれる気はないようだな。そう考えると、
グーリーの心中には重いものが残った。
 黙礼を残し、ロムル一族の若者が公子の許から立ち去る。きつ
い視線が、その背中には突き刺さっていた。


 顛末を報告して、グーリーは主君の居室を辞去した。好きなよ
うにしてくれていいけど、シムス公家に行くと決めたら事前に教
えてほしい、というのがルーン王子の言葉だった。自分の選択の
正しさを、ロムル一族の若者は改めて実感していた。
 花の香が残る廊下を歩んでいると、背後からシノンが声をかけ
てきた。ようすを聞いてくる口振りからすると、どうやら心配さ
れていたようだ。
「やはり、新参の者達のことか。あやつらは、どうして王子の人
柄を理解しないのだろうな」
 優しげな顔立ちの同僚が、苛立ちの表情を閃かせる。新たに加
わった、特に王弟達が退場してからルーンの臣下となった者達に
は、出世目当ての者が多く紛れている。彼らを扱う役割はシノン
とグーリーが担っており、身勝手な言動に戸惑わされる場面が多
かった。
「ああ、そんなところだ。ひとまずは落ち着いたよ。これで、ル
ーン様が立太子されたら、もっと激しくなるのだろうな」
 想像を巡らせたシノンは、明らかにげんなりした風情で眉根を
寄せている。
 エームには諜者達を束ねる役割があるし、ルダークは港町の設
営をはじめとする得意分野に没頭している。豪放なグロスには、
戦士以外の統率はむずかしい。初期に登用された臣下には、純粋
に王子に心酔している者が多いのだが、調整面の才能を有する人
物はあまり見当たらないのだった。勢い、若い二人にルーンの臣
下群を束ねる重責がかかってしまっている。
 人を束ねる上で、若さは障碍にしかならない。新参者の反発に
は、年若なシノンやグーリーに指図されるのが嫌だという想いも
含まれるようだ。
 腹心達の若さは、勢力があまり増えていない一因となっている。
けれど、年齢にこだわるような人物を取り込む必要はないと考え
るルーンは、まったく気にしていない。青年期に入ったばかりの
王子には、長幼の順に敏感になる者達の心理が、つまらないこだ
わりに思えてしまっているのだった。実際には、まったく気にし
ない者は、ごく少数派に留まるだろう。
 シノンと並び立つ形で、マルトゥースが王子を支えていたなら、
もっとすんなりと支持を拡大できていたかもしれない。ルーンと
しても、信頼する養育役には近くにいてほしいのだけれど、招け
ずにいる状態だった。苦境にあったときに保護してくれた恩人か
ら、片腕を奪い取るわけにはいかないと考えるためである。王子
とミトルナ公の距離は、王弟達の退場後、むしろ開いてしまって
いるようだ。
 軽やかな風がすり抜けていく廊下を、王子の信頼する若者達が
肩を並べて歩いている。シノンの唇からは、愚痴がこぼれだして
いた。エームを含めた三人は、安心して不満を漏らせる間柄とな
っている。
 この優しげな顔立ちの同僚を、グーリーは補佐していくつもり
でいる。自分が上位者だという意識は、黒髪の若者にはなかった。


 秋の深まりは、狩猟の盛期の到来を意味する。紅葉宮では、王
族の少年が狩りに夢中になっていた。屋敷の後背に拡がる森には、
多くの動物が棲まっている。
 戦闘訓練の意味合いがあるため、王族が狩猟を趣味とするのは、
通常なら好ましいとされる。けれど、帰還するクランを迎える侍
者らの瞳には、恐怖の色合いがあった。獲物の状態が、明らかに
異常なためである。
 どれほど下手な狩猟者でも、矢と刀を合わせて、三つ、四つの
傷を負わせるだけで、獣を仕留められるだろう。けれど、王族の
少年の獲物には、十数もの、まったく必要のなさそうな傷跡がつ
いている。殺すのを、いや、いたぶるのを楽しんでいるのは明白
だった。
 狩猟に付き合っているヒュールは、それが王子の強さの現れだ
として、細い目を更に細めて喜んでいる。対して、相方のシラル
は、主君が壊れていくのではないかと心配していた。
 もっとも、王族や公家の跡取りには、少年期に臣下に対して暴
虐に振る舞う場合が少なくない。人を痛めつけるよりは、狩りの
獲物を切り刻む方が健全だろう。
 ただ、クランが部下に手をつけないのは、禁忌意識や自己抑制
の結果ではないかもしれない。父親につけられていた臣下に見限
られたのは、クランの心で大きな傷跡となっている。残った部下
を壊したくないだけ、という可能性も小さくなかった。
 この日も狩りに出ていた鮮やかな金髪の少年は、紅葉宮への帰
途につこうとしていた。
「大猟でしたな」
 ヒュールのうれしげな言葉に、鞍に跨った年若い主君が小さく
頷く。鹿と野兎二羽が、持ち帰られつつある戦果である。獣の死
体には、やはり多くの傷がついていた。主従が仕留めたのは、三
つの命だけではない。原形をとどめないまでになった獲物は、森
に捨て置いてきているのである。
 獲物はみな、最初にヒュールの矢を受けている。王族の少年は、
動きを止めた獲物を思うままに攻撃するだけだった。そのようす
を見守る細い目の部下に、嫌悪の念はまったく見られず、頼もし
げな表情が浮かぶのが常態であった。
 夏緑樹は、既にほとんどの葉を落としている。晩秋の冷や風が、
クランの火照った頬からゆっくりと紅みを抜きつつあった。矢の
腕前はともかく、少年の馬の御し方ははっきりと上達していた。
「こうして腕を磨き、力を蓄えておけば、いつか役に立つ筈です。
どうか、望みを捨てずにいてください」
 細い目の部下がかけてくる言葉は、クランの心を高揚させる。
だれかに肯定されるのを、金髪の少年は切望し続けているのだっ
た。
 馬蹄が、紅と黄に染められた地面を踏みつけていく。従順なこ
の栗毛も、王族の少年の心を安らがせてくれる。屋敷にいて侍女
らが示す隔意に晒されるより、森にいる時間の方が、よほどくつ
ろげているクランだった。 
 紅葉宮が見えると、また胸中が波立ちはじめる。屋敷にいる侍
者らは、ほとんどが王家によって雇われた者達で、クランに仕え
ているわけではない。彼らが、凶暴さの兆候を見せはじめた少年
に、自分達の職場から立ち去ってほしいと願うのは、むしろ当然
だった。けれど、クランに侍女らの立場を考えられる余裕はない。
負の想いに敏感になっている少年は、周囲の者達を蔑視して、心
の均衡を保っている状態である。訪れようとしている変化を、ク
ランは予期していなかった。
 下馬した王族の少年の許に、慌てたようすでシラルが駆け寄っ
てきた。
「クラン様、大変です。都から訪客がありまして……」
 都という言葉は、王弟の遺児の胸に疼きに似た想いを招き入れ
ていた。


 冬が過ぎ、春初月も半ばに入ると、王都ルイナに柔風が吹きは
じめる。商売人への優遇策などを整えるため、シンクへ赴いてい
たエームが戻ったのを機に、王子は久しぶりに街へ出ていた。
 まだ幼かった頃に、亡き師に連れられて見て回って以来、ルー
ンは気軽に市街の各所を散策してきている。身分を明かして視察
する際には、らしく見えるように着衣に気を配るが、そうでもな
ければなんの変哲もない服装で出歩く。元々があまり王族っぽい
振る舞いをするわけでもなく、名もない若者へと身をやつすのは、
意識せずとも可能だった。
 王子が街へ出るたびに、グロスも供をしたがるのだが、出会う
人々が明らかに威圧感を覚えるようなので避けざるを得ない。王
子の剣術稽古の相手を務め、戦場では先頭に立つ偉丈夫にも、向
かない役目は幾つかあるのだった。
 初手合わせの際には敵意を剥き出しにしていたグロスも、今で
は王子の許にあるのを納得しているようだ。けれど、稽古の際に
むきになって向かっていくのは変わっていない。ルーンは、顎髭
の部下の剛剣と対するのを楽しんでいた。
 目立たなさと、主君の突飛な行動への耐性を基準にすれば、シ
ノン、グーリー、エームという辺りが適任となる。王城から市街
へと出た軽装の王子の供は、エームとシノンが務めていた。
 王都ルイナには、多くの人々が居住している。人が集まって暮
らしていれば、諍いが生じるのは仕方のないところである。貧富
の差は、その火種のひとつだった。都には、定まった生業を持つ
人々も数多くいるが、臨時の仕事でどうにか食いつないでいる者
もまた多い。後者のうちのある部分は、困窮にまで陥っているよ
うだ。
 そうなってしまうのは、生地でうまくいかなかった者が、王都
でならなんとかなるだろうと考えてやって来て、しかし、なんと
もならない場合が多いようだ。彼らから生まれた子供達は、そう
いう暮らしを普通の状態として受け容れてしまうため、階級であ
るかのごとく困窮層が固定しつつある。
 ルイナから出て農業地帯に行けば、小作農として歓迎されるし、
あるいはある程度の教育が施されれば、都にあっても職が見つか
る場合もあろう。
 幾つかの施策を実行しさえすれば、少なくとも困窮しているう
ちの一部は、たやすく安定した生活を送れるようになる筈である。
他国でしばしば見られるように、農民が酷税に耐えられず逃げ込
んできたのなら対応は難しいが、そうではないのだから。歯痒さ
を覚えつつも、都市民対応は今のルーンには手が出せない分野と
なっていた。
 凱旋の際に通った中央通りには、春の陽光が降り注ぎ、のどか
な雰囲気が流れている。三人の若者が足を向けたのは、東南側の
街区である。大通りから外れ、市が開かれている舗道を過ぎると、
低階層の建物が多い、やや静かな街並みとなる。職人や商店主が
多く住む、今回の微行で見て回ろうとしている地域である。
 もう少し外れたなら、また三階建て程度の集合住宅が増える傾
向となり、徐々に治安が悪くなっていく。その辺りを訪れた際に
は、ルーン達までもが物取りに狙われた場面もあった。簡素な服
に身を包んでいても、懐に金があるように見えたのだろうか。も
っとも、賊は王子の身体に触れられはしなかった。
 王宮を出て最初に近付いてきたのは、四つ足の獣だった。三毛
柄のまだ幼い猫が、長い尻尾を立ててやってきたのである。しゃ
がんだルーンが指を曲げて差し伸べると、歩み寄って鼻を寄せ、
にゃあと鳴いて見上げてくる。
「人懐っこいなあ」 
 撫でていると、三毛は地面に四肢を投げ出して、されるがまま
状態へと移行した。シノンは、その猫が人懐っこいのではなく、
主君の方が懐かれやすいのではないかと思ったけれど、口には出
さなかった。エームもまた、にこやかな表情で王子を見つめてい
る。
 猫と遊んでいるくすんだ金髪の若者を、黒髪の女の子が路地か
ら半身を覗かせて見つめていた。気付いたルーンが、穏やかな声
で問いかける。
「きみの猫かい?」
「ううん。あたしが触ってもへいきかな」
 笑みを浮かべたルーンは、少女を手招きした。撫でていた手が
離れると、三毛が目を開く。女の子は、猫を触るのははじめての
ようで、こわごわと手を伸ばした。幼い猫は、気配を感じたのか、
ちょっと警戒したようすを見せている。
「首の辺りから尻尾の方へ、やさしくね」
 喉を指先で撫でながら、ルーンが教える。少女の手つきに安心
したようで、目を細めた三毛は気持ちよさそう。手を離した王族
の若者も、猫と女の子を柔らかな表情で眺めていた。
「猫の撫で方は、どこで知られたのですか?」
 シノンの問いに、王子は静かな口調で応じた。
「ミトルナ公の居館の裏に何匹も居たからね。餌をあげてたわけ
じゃないみたいなんだけど、居心地がよかったのかな」
 猫を撫でている黒髪の少女は、うれしげに目を輝かせている。
抱いてみるようにルーンが言うと、細い腕でこわごわと持ち上げ
た。問いかけるように王子の方を見た三毛は、表情からなにかを
読みとったのか、一声鳴いて少女に身を任せると決めたようだ。
 猫にご飯をあげたいという娘の家は、少し離れた通りにあるら
しい。そこで別れようとしたのだけれど、抱かれた猫が心細そう
な瞳をしているように思えて、ルーンはその女の子に、帰るつい
でに街を案内してくれるよう頼んだ。 
 この辺りは、富裕層ではないものの、困窮もしていない人々が
多く住む地域となっている。工房や商店を営む者が多い、王都で
ももっとも活力がある一帯と言えよう。
 都に住む人々にとっての税負担は、商いを為す者から徴収され
る、売り上げの十分の一税と、給与を得る者にかけられる二十分
の一の税がほぼ総てである。治安が良好なためもあって、一般の
住民には暮らしやすい町だと言えるだろう。税が簡素であるのは、
現王家が旧支配者を打倒した際に、それまでの重税感を取り払う
ために一新して以来の伝統となっている。
 現カルム王家の祖がやってくるまでの支配者は、古くにこの地
を剣で奪い取った経緯から、所有物として住民を扱っていたとい
う。自然と税は重いものとなり、民は無給で様々な事業に動員さ
れる場合が多かった。
 末期の諸王の治世は特にひどく、恨まれていた者達を追い払っ
たために、現カルム王家は人々から歓迎されたのである。愛され
れば、憎く思える筈もない。カルム王家の統治は、比較的にして
も伝統として民を思いやったものとなった。
 歴代の誰もが善良な王だったわけではないのだが、多少の奢侈
程度なら重税を課さなくても行えた。土地の豊かさのためだけで
はない。旧王家によって、王都や各城市のやや過剰気味な防壁を
はじめ、要地の城塞や、水路などが整えられていたのも、財政に
余裕を与えていた。新規に事業を行う必要がなく、受け継いだ遺
産を補修していくだけで済むのだから。
 時代が下るに従って、カルム王家にも伝統に背いた、いわゆる
悪政を行う王が増えてきた。けれど、かつての名残も間違いなく
存在している。それに対応してなのか、民の方も王家を尊ぶ傾向
にあり、他国からは異常視されるほどだった。
 緩やかな水音が、ルーンの耳に届いた。猫を抱いた少女が歩ん
でいった先には、上水道の終点に近い貯水池があった。王都の各
所に配水され、使われなかった分がここに貯まる仕組みとなって
おり、一部は下水道へ流れ、大部分は都の南方地域への農業用水
に引き入れられる。
 もう飲用や洗濯などにも使われず、水質に過度に気を配る必要
がないため、この池では住民が自由に水泳や船遊びを楽しめる。
近付くと、まだ冷たいだろうに、水遊びをする子供達の歓声が聞
こえてきた。王子も多少は混ざりたそうにしていたが、シノンが
たしなめるまでもなく自重したようだ。
 王都ルイナは、後背の丘陵地が湧き水の通路となっているため、
一年を通して水に苦労していない。湧き出る水の質は良好で、ご
く短い水路で砂礫浄水をおこなうだけで、飲用水が得られている。
澱んだ水は、温暖なこの地では嫌われるため、都を巡る地下水路
は常に流れが滞らないように工夫が施されていた。その結果、終
点となるこの貯水池の入り口でも、充分に飲用に耐えられる。ま
た、ここでも長く貯め置かれるわけではなかった。
 猫を抱いた少女に連れられた若者達は、道行く人々にはどう映
っているのだろう。ルーンをはじめ、こわもてとは対極に近い位
置にいる者達である。姫様に連れられる従者のようでもあるし、
神女が猫を捧げ持つのに従っているようにも見えた。そう考えれ
ば、この少女は王都を見下ろす神殿に住む女童と、どこか似てい
るようにも思える。
 幼い女の子の王都案内は、仲良しの子の家がどこにあるという
程度にしかならない。街のようすを眺めたかっただけのルーンに
は、もちろん不足はなかった。吹き抜ける春風が、くすんだ金髪
を揺らしている。
 やがて少女が入っていった路地では、子供が集まって遊んでい
た。男の子達は、ラーチェと呼ばれる球技に興じている。
 ラーチェは、革製の球を用いた遊びで、手を使わず、主に足で
蹴り上げるのを特徴としている。二組に分かれ、目線の高さに張
った紐で陣地を分け、地面につかないように足で球を渡し合い、
紐を越えて敵陣に落とすのである。手を使わずに球を扱うには技
術が必要で、それが子供達の熱中を誘うのだった。蹴り上げられ
る球は、意思を持つかのように少年達の足から足へ渡り歩く。攻
撃が凌がれ、あるいは防備が及ばずに球が地に弾むたびに、明る
い歓声が生じていた。
 その近くに集まっている女の子達は、踊りの振りを合わせてい
るらしい。なめらかな動きが同調しているのは、なかなかに見事
だった。旋律を口ずさんでいた赤毛の女の子が、ルーン達を連れ
てきた幼い少女の許に歩み寄る。三人の若者に視線を向けながら、
猫を抱く娘に訊ねた。
「だあれ?」
 黒髪の少女の答えは簡潔だった。
「猫と遊んでた人」
 言いながら、目線を腕の中の三毛猫へと落とす。
 まあ、そうだろうなとシノンは思う。彼女にとってのルーンは、
その説明以上でも以下でもないに違いない。猫は問いかけた少女
に喉を撫でられ、心地よさそうだった。
 猫が不安がるといけないのでついてきたと説明すると、赤毛の
少女は納得したようすである。そうであっても不思議でない空気
が、ルーンの周囲を取り巻いていた。 
 彼女が抜けたからなのだろう、踊りは中断されており、少女の
幾人かは男の子に混じって革球を蹴りはじめていた。
「この辺りでは、なにか変わったことはないかい。困ったことと
か」
「そうねえ、特にないと思うけど。あなたは、お役人なの?」
「うーん、まあ、そんなようなものかな」
 返答を聞いた赤毛の娘は、微かに首を傾けたが、追求する気は
ないようだった。猫と遊んでるような役人がいるのかなと思った
のかもしれない。
 春の午後の陽射しは、風にかすかに含まれる冷気を心地よいも
のに変えてくれる。路地で遊ぶ子供達を見る限り、確かに変事の
兆しはなさそうだった。
 街並みを構成する建物の一つの裏口が、小さな鐘の音とともに
開かれた。なにかの合図なのだろうか、子供達が賑やかに駆けて
いく。
「街に子供達の笑い声が響いているってのは、いいもんだなぁ」
「ほんとですねえ」
 しみじみとエームが応じる。彼には、ごく幼い時分にしか同じ
年頃の子供と笑い合った経験はなかった。ラーチェをしている子
らの歳には、もう大人と一緒に諜者として働いていた。情報収集
に際して、警戒されない子供の果たす役割は大きいのである。 
 開かれた裏口では、子供達にパンが配られていた。ということ
は、パン焼き職人の店なのだろう。もしかしたら、子供達のうち
のだれかが、その家の子なのかもしれなかった。
 猫を抱いていた女の子が、ルーン達にもパンを持ってきてくれ
た。遊びながらでも手を洗わずに食べられるように、薄紅く色付
いた葉が添えられている。
 礼を述べた王子が、ふっくらとしたパンを口に運ぶ。噛みしめ
ると、澄んだ、それでいて優しい甘みが口中に拡がった。蜂蜜を
使っているだけでなく、どうやら卵が混ぜられているようだ。
「これはおいしいです」
 シノンも、その味に感心している。路地で子供に配られている
パンにして、この繊細な味わいである。店に出している商品は、
どんなものなのだろう。もっとも、作り手がなんにでも手を抜か
ない人物なのかもしれないけれど。
 現れた恰幅のよい男性が、パンに添えていた葉の回収をはじめ
た。子供達に混じっていたくすんだ金髪の若者に目が向けられる
と、表情にあった柔和さが消え、固まった。
「ルーン……様?」
 漏らされた呟きに、エームの目がすっと鋭くなり、帯剣に手が
かけられる。その動作のなめらかさは、威圧感とは無縁なものだ
った。呼ばれた王子の方は、にこやかに応じる。
「あ、はい。子供達のご相伴に預かっています。おいしいですね、
これ。……ですけど、よくぼくの顔をご存知ですね」
 はっと気づいたように、葉を集めていた人物が旧主筋の若者に
対して跪く。ルーンは、その所作に合わせて腰を落とした。目が
合ってしまって困った表情の相手に、手振りで立つように促す。
 わずかな逡巡を経て、大柄なパン焼き職人は立ち上がった。微
行中とあれば仕方ないと考えたのだろうか。
「かつて、ミオク公家のお屋敷で下働きをしておりました。リオ
様とよく似たお顔をされています」
「そうでしたか。それは、祖父が苦労をかけてしまいました」
 ルーンは、ちょっと遠くを見るような目をした。彼が生まれた
ときには、ミオク家の屋敷はもう存在していなかった。
 廃絶された公家のかつての使用人は、小さく恐ろしげに首を振
った。
「とんでもありません。あれは、陥れられたのです」
 くすんだ金髪の若者は、手を軽やかに振って、それ以上の言葉
を押し止めた。
「それにしても、おいしいパンですね。蜂蜜の甘みを卵が優しく
していて」
 パン焼き職人は、ルーンのその言葉を聞いてまぶたを閉ざした。
かつて、目の前にいる人物の祖父と対面した日の情景が、脳裏に
甦ったためである。
 使用人仲間のために裏庭でパンを焼いていたら、匂いにつられ
て現れたのがミオク公だった。おいしそうに食し、まったく同じ
感想を口にした公は、仕事の合間に料理修行ができるように計ら
ってくれた。ミオク公が毒を仰いだのは、それからまもなくだっ
た。
 目を開くと、かつての主君の姿と、その血縁の王子が重なって
いた。瞳の奥に、じんわりと熱いものが生じてくる。
「……ご迷惑でなければ、ルーン王子が食されたパンとして売り
出したいのですが、いかがでしょうか」
 このパンは、祖父と孫とを繋ぐ細い糸となっている。自分がそ
れに介在できると考えると、パン焼き職人の胸は浮き立つのだっ
た。そんな想いを、彼は王子に告げるつもりはなかったが。
「それは構わないけど、ぼくが失脚したりしたら、迷惑をかけち
ゃわないだろうか」
「いえ、失礼ながら、それならそれで評判になると思いますので」
「なるほど。それは道理だ」
 破顔して王子が同意した。シノンは微笑を、エームは納得の表
情をそれぞれの顔に浮かべている。かつてのミオク家の使用人も、
パン屋を営むようになって久しい。思考法は、成功した商店主の
ものとなっていた。
「変わらず、子供達に分け与えてくれるよう望みます」
 大きく頷いたパン屋の主人には、くすんだ金髪の若者が眩しく
見えていた。


 パンの礼を言い終えて振り向くと、こちらは慣れた手つきで猫
を抱いた赤毛の少女が待ち構えていた。どうやら話が聞こえてい
たようで、瞳から興味の光が溢れ出している。
「ねぇ、ほんとに王子様なの?」
 問う声はさすがに低められている。三毛の仔猫も同調するよう
に、にゃあと鳴き声を発した。
「うん、父は国王だよ」
「へぇー……、ねえ、王子様は踊りは得意?」
「いやいや、王宮で踊りはしないよ。剣舞ならなんとかできるか
な」  
「そーなんだー。てっきり、王家にはもの凄い踊りが伝わってい
るのかと思った」
 少女の言葉に、ルーンは苦笑するしかない。カルムでの踊りは、
祝祭で舞われるものと、見世物的な興行とに分けられる。赤毛の
少女が中心になって合わせていたのは、どうやら後者の方らしい。
 祭りは各地で行われ、王都でも毎年各地区が特色ある踊りを披
露する。彼女が王家の踊りに興味を持つのも無理はなかった。少
女の期待に反して、城内で王族が舞い踊るような習慣はない。
 がっかりしている女の子に、ルーンは先程の踊りについて問う
てみた。少女が説明するには、人気の旅芸人一座の演目なのだと
いう。
 習いたいのかと訊かれると、ルーンはあっさりと頷いた。偉ぶ
らないためだろうか、赤毛の娘は王子に親近感こそ抱いていても、
懼れる気持ちはないようだ。
 仔猫が、餌にと肉の切れ端をもらってきた黒髪の少女に戻され、
踊りの伝授がはじめられた。
 つま先を立てての回転や、全身を使って弧を描いたりと、動き
はなかなかに高度である。一区切りまでをやって見せた赤毛の娘
が、どう? と胸を張る。ルーンがなぞると、少女の直しが入っ
ていった。三度ほどくり返すうちに、くすんだ金髪の若者はほぼ
その踊りを修得していた……かに思えた。
「そこの手の動きは違うぞ。ただ頭に持って来るんじゃなくって、
捻りを加えるんだ」
 背後からかかった声は、鮮やかな金髪の娘から発せられたもの
だった。幾筋にも編み込まれた長い髪の先には、瑪瑙だろうか、
丸い髪飾りが括りつけられている。
「旅芸座の踊り子の……、メイナさんだわ」
 赤毛の少女の瞳はきらきらと輝いている。どうやら彼女にとっ
て、その舞姫は王族よりも格段に希少性が高いらしい。
「こうかな?」
 ルーンがやってみるが、金髪の娘は首を振る。実演した方が早
いと思ったらしく、踊り子は路上で舞いはじめた。
 大枠は赤毛の女の子が示したのに近しいのだが、途中の動きま
でが柔らかで無駄がなく、美しい。少女達が見惚れ、蹴球をして
いた男の子達も球を止めて眺めていた。
 踊りの振りに合わせて、髪先の蒼い丸飾りがふわりと浮いたり、
弧を描いたり、これまた身体同様になめらかに動いている。どう
やら首の動作によって、編み込まれた金髪の描く軌道までが御さ
れているようだ。ルーンの唇からも、綺麗だとの呟きが漏れた。
 金髪の踊り子は、動きを止めてどうだという表情。大きな目に
は、朗らかな笑みが浮かんでいた。
 挑まれてるなと思いつつも、ルーンがなぞろうと試みる。相当
になめらかさを増しているのだが、明らかに先程の踊り子の舞に
は及ばない。
「ちがーう、そこはもっとこう」
 言いながら、手を取って手首の角度を調整する。王子の剣技を
知る二人の供は動じないが、心配げに眺めていたパン屋の主人が
声をかけた。押し殺してはいるのだが、口調はやや厳しい。
「おいおい、メイナどの。その方は王族だ。ぞんざいな口をきい
てはいかん」
 名を呼ばれた舞姫は、手首を握ったまま、問いかけの視線をル
ーンの瞳に注ぎ込む。くすんだ金髪の若者の表情は、穏やかなま
ま変わらなかった。
「構わないよ。きみはぼくの踊りの師匠なんだから」
 エームとシノンは、微笑を浮かべて主君を眺めている。にっと
笑った踊り子は、手を離して宣言した。
「王族の弟子とはな。なら特別に、剣の稽古をつけてやろう」
 シノンの前に歩み寄ると、無造作に手を出して剣を要求する。
さすがにためらった茶の髪の部下に、王子が頷きで従うように指
示を出す。
 渡された剣を構えた舞姫は、抜刀するように促すと、鋭い足捌
きで王子に襲いかかった。その剣勢は、踊りの鋭さ以上に猛烈で
ある。やっとで跳ね返したルーンは、本気の動きを引き出されて
いた。
 そのまま止まらずに、メイナが連続攻撃を繰り出す。様々な角
度で襲い来る剣を、王子はどうにか防ぎきった。シノンとエーム
が感嘆の声を上げ、子供達は息を呑んで攻防を見つめていた。
 真剣な表情の踊り子は、鋭い美しさを放ちながら、少し後退し
て構えを変えた。突き出した剣を、手首を捻らせて地面へと向け
る。取られたのは、イヨンの構えだった。さすがに、王子の部下
達が顔色を変えた。
 瞠目したルーンが、ゆっくりと同じ構えを取る。王都からは西
北の方向にある森の中では、イヨン族同士の戦いが今日も行われ
ているだろう。
 イヨンの技を使う者同士の勝負は、剣が交わされる前の闘気の
ぶつけ合いで大勢が決する場合が多い。それは、この王都の路地
でも同様だった。向き合う二人にとって、互いの優劣は明らかだ
った。
「どうして、あんたがイヨンの技を使うんだ。もう何年もはぐれ
イヨンは出ていない筈だぞ」
 圧倒された鮮やかな金髪の舞姫は、憤然としている。剣を引き、
腰に手を当てた女剣士の頬が、ぷっとふくらんでいた。王子もゆ
っくりと構えを解く。
「情報が少し古いようだね。先年、若い戦士が一人森を抜けてい
るよ。もっとも、ぼくはその人物が森を出てから教えを受けたわ
けではないのだけれど」
「ちょっと、親父。話が違うじゃないか」
 誰もいない方向に、鋭い抗議が発せられる。住宅の陰から出て
きたのは、精悍そうな黒髪の人物だった。右頬には、薄い傷跡が
見える。
「メイナよ、そう喚くな。……はじめて御意を得ます。旅芸人の
一座を率います、シャイフルと申す者です」
 名乗って、痩身の男が跪く。今回もまた、ルーンが相手に合わ
せるように腰を屈める。
「手を上げられよ。メイナ殿の父上とあらば師匠筋にあたります
し、そもそも旅芸人ならカルム王家に服す理由はない筈です」
 壮年の座長はややためらったようだが、重ねて手ぶりで促され
ると、立ち上がって正対した。
「風の便りに、よその若者を二人受け入れたと聞きましたが、カ
ルムの王子だったとは知りませんでした」
「ええ。かつて、はぐれイヨンの若者と交流があった人物に剣を
学んだ縁で、滞在させてもらいました」
「では、マルトゥース殿の許で……。そう言えば、どこか通じる
ものが感じられる気がします。イヨンの技を、うまく御自分の中
に取り入れられているようですな」
「イヨンの剣技は、総ての動作に通じると思っています。……そ
れにしても、イヨンの構えを取ったのはひさしぶりでしたが」
 ルーンは、対戦した相手で、踊りの師匠でもある女性に目をや
る。まっすぐ見返してくる視線の力強さに、若き王子は修行を共
にした波打つ黒髪の朋輩を思い出していた。
「この娘は、まさに逸材です。私は、イヨンでの強くなるためだ
けの生活に飽きたらなさを覚えて森を出たのですが、孤児だった
幼いこの子のばねと身のこなしを目にした時、なにを求めていた
かがわかった気がしたのです。自分もまた、イヨンの技が高みに
達する様を見るのを切望していたのだと。
 この娘には、私が修得した技を詰め込んであります。ルーン様
さえよろしければ、そばに置いていただくわけにはいきませんで
しょうか。もう、私では相手にならんのです」 
 養親の言葉を聞いたメイナは、目を見開いて抗議する。
「ちょっと待て。王宮勤めなんてまっぴらだぞ」
「だれも、侍女になれなんて言ってないだろう。いや、案外似合
うかもしれないな」
 冗談めかす座長に、金髪の踊り子はおもしろくなさそう。
「どうぞ、間者にでも使ってください」
「まあ、それならいいけどな」
 鮮やかな金髪の舞姫は、渋々といった風情で頷く。どうやら、
話はあっさりと決まってしまったらしい。微笑した王子は、信頼
する部下に問いかけた。間者候補となれば、訊ねる相手はシノン
ではない。
「エーム、どうだい?」
「はっ。腕のいい諜者になるのではないかと」
 頷いた王子は、旅芸座の長に向き直る。 
「ただ、メイナ殿の技を高めるためには、イヨンの集落でぼくと
一緒に修行をした、もうひとりの人物の方が適任かもしれません。
彼には、イヨンを出た若者もついているし」
「いや、やはりルーン殿に……」
 やや押し問答になりかけたところで、剣を片手にした舞姫が口
を開く。
「あのなあ、あたしは誰のものでもないんだから、ほいほいやり
取りしないでもらおう。それなら、どっちの下につくかは、あた
しがこの目で見て自分で決める」
「なるほど、確かに道理だ。そういうことなら、お預かりしまし
ょう」
「よろしくな」
 にこやかな娘が、若い王子の肩を叩いた。そうされても、ルー
ンには気分を害する兆しは微塵もない。
 そのようすを見ていたシノンが苦笑し、同輩に小声で話しかけ
た。
「なあ、エーム。王族の臣下らしくないという点では、お主もこ
の身も人のことは言えないのだが、それにしてもあの娘はあまり
に……」
 諜者出身で、著述家志望の濃茶の髪の青年は、澄ました表情で
応じる。
「そうですなぁ。なにしろ王家の殲滅を狙わんと衛兵を志した者
と、シャール公領に潜伏していた諜者が微行の供をしているわけ
ですから。新たに踊り子が加わっても、なんら不思議はありませ
んな」
 ちょっと嫌な顔をしたシノンだったが、彼にはかつて抱いてい
た考えを隠すつもりはなかった。もちろん、信頼の置ける相手以
外に明かしはしないが。
「どうして、こうもくせのある者ばかりが集まるのだろうか。王
子ご自身がそのように選んでいるわけではないというのに」
 彼らが見つめる主君は、地に降り立った三毛と遊んでいる。猫
を抱いていた黒髪の少女は、年長の赤毛の娘とともに、憧れの舞
姫と言葉を交わしていた。
 エームが、あっさりと考える結論を口にする。
「それは、ルーン様が変わっているからでしょう」
「なにを言う。あの方以上に王者らしい者がいようか」
 シノンが気色ばむのはめずらしい。優しげな同僚に向けられた
エームの瞳には、静かな感情があった。
「ええ。王者らし過ぎるところが、変わっているのだと思うので
す。いや、あるべき王者らしいというべきでしょうか」
「現実にいる王ではなく、か」
「単純に民のためを考えるというのは、あまり物を知らないうち
ならあり得ましょう。ルーン様は、各国の王家の状況や、陰惨な
歴史をも把握した上でなお、そう考えておいでです。
 実際の王達は、私欲を満たす者が大半で、名誉を求めるのが残
りの少数といったところでしょう。世にいう善王というのは、自
らの名誉の行方を、戦いによる領土の拡張でなく、世を治めたと
いう評価と満足感に向けた人なのだと思います。ですが、ルーン
様は……」
「ああ。ご自身の名誉を考えているのではないな。純粋さとも違
う、意志を感じる。他の王族や、野望を抱く者達に煙たがられる
のも無理はない。そうか、そこまでを知らずとも、王子の中にあ
るなにかを感じて人が集うのかもしれないな」
「……なるほど。変わり者筆頭の方が自ら仰るからには、そうな
のかもしれませぬなぁ」
 澄まして論評する同僚に、シノンがげんなりした表情を見せる。
「私が筆頭か……?」 
「それはもう。自らが殺めようとしていた相手だというのに、真
っ先に臣下となり、今では最も重用されているのですからな。変
わり者ぶりには目を見張るものがあります」
 シノンとしては、反論は心の中だけでとどめておくことにした。
王都の路地には、変わらぬうららかな陽光が降ってきていた。

祖国のために、できること 7.主のいない都 (一)


7.主のいない都


「ルーン様。南方へ出していた使節が戻りました。通してよろし
いでしょうか」
 夏が過ぎ去り、裏庭の樹々はゆっくりと色づきつつある。窓辺
にいた王子が振り返ると、少し長めのくすんだ金髪が揺れた。主
君と向き合うとき、シノンの表情は自然に柔らかみを帯びる。
 初陣より二年半が経ち、十八歳となった王子の顔からは少年っ
ぽさが抜けてきていた。四つ年上のシノンの方には、相変わらず
子供っぽさが色濃く残っているのだけれど。
 二年半が過ぎても、ルーンの身分は王子のままで、王の後継者
たる王太子にはなっていない。とはいえ、現王の息子はただ一人
であるし、王弟であるザンダは隠居の身となっているため、ルー
ンが世継ぎであるのを疑う者はいなかった。いない筈だった。
 未だ立太子式が執り行われていないのは、オール王の指示がな
いためである。病身の王は人を遠ざけ続けており、息子であるル
ーンでさえ、子供の時分以来会っていない。王が定めるべき人事
は行われず、宰相も、各長官も、現職にある者がずっと地位に留
まり続けているのだった。
 それを安定と取るか、閉塞状況と見るかは、現在の自らの立場
に満足しているかに大きく影響されよう。ルーンの周りには自然
と、比較的若い、変革を求める者達が集まってきていた。歓迎す
べきかどうかは、意見の分かれるところである。
 王子の居室は、幼い頃に住んでいた場所から変わっていない。
シノンに連れられてきたのは、エームとルダークだった。ごく初
期から王子に臣従する彼らは、南方の商業国エクトムスに直接貿
易の打診に赴いていたのである。
 報告役は、濃茶の髪の青年であるエームが務めた。まじめそう
な印象に、ゆっくりとした口調が調和している。
「あちらでは、通商関係の役人と、有力な商人の幾人かと話をし
ました。半信半疑といったところのようですが、ひとまずシンク
に船は回してくれるそうです。避難港としても使ってくれという
申し出が効いたのでしょう」
 これまでのカルムは、海外との通商は沿岸都市を経由する形を
とってきた。カルム領内にありながら自治権を保持する二つの都
市国家とは、良好な関係を築いてきている。一部の商品を、それ
らの港を通さずに売買しようというのが、今回の試みだった。
 沿岸都市にとっては、取引の減少に繋がりかねない話ではある
が、税収穀物を自ら捌きたいというのが理由では、異を唱えるわ
けにはいかなかった。嵩張る割に単価の低い穀物の取引を敬遠し
てきたのは、沿岸都市の商人達の方なのである。
 もっともルーンには、当初の売り物は穀物と補給物資程度に限
るとしても、買い方までも扱い品目を控える気はなかった。カル
ム沿岸の通商都市には、北の隣国バースや、更に北方のハノーム
王国からの商人も集まってきている。カルム領からそれらの都市
に出入りする際には、二十分の一ずつの関税がかかる。税が節約
できるとなれば、商人達が新設の港での取り引きを望む可能性は
充分にある。あるいは、両睨みとなるのかもしれなかったが。
 今回の試みについては、宰相のラエルと、王都の市場を取り仕
切る役目の者に話を通してある。どちらも、反対はしないという
態度だった。失敗すると踏んでいるのかもしれない。もしも成功
したなら、得られる交易税は、関税の減少分を大きく上回るだろ
う。
 シャール公領の東南端に近いシンクの港は、これまでは漁船が
使うのみだったが、入り江の規模といい、張り出した砂州と島が
風を防いでくれる地理的条件といい、ルーン達が見出した絶好の
場所だった。沿岸にある自治交易都市は、東側にあるピノムがラ
シズムの、西のイザナが内海西端に位置するハルナの、それぞれ
植民都市である。どちらの民族も、丘などの高地に抱かれた土地
に居を構えたがる傾向があるので、平地にあるシンクは嫌われた
のだろう。植民都市とは言っても、ラシズムは既に伸張するクタ
ーファによってほぼ吸収され、ハルナの民は独立志向が強いので、
両市に母国の影響はほとんどなかった。
 シンクの港の整備は、シャール公が張り切って陣頭に立ってお
り、第一段の整備は完了していた。公にとっては、税収作物を都
で買い叩かれなくて済むようになるし、計画がうまく回って通商
都市が栄えれば、勢力を大きく伸長させられる。通商にかかる交
易税は国庫に行くが、その他の税金は公領に入るのだった。
 シャール公は、野心をぎらつかせているような人物ではなかっ
たが、上昇志向は持っている。若き王子の配下からはルダークら
が派遣され、準備は順調に進んでいた。
 上下水道の整備や、防壁構築も含めた町作りは、まずは最小限
にとどめているものの、容易な事業ではない。しかも、動員され
た公領の民には、免税だけでなく少額だが給金も出されている。
臨時収入を得た住民らは喜び、それだけに作業は捗ったが、公の
負担は小さくなかった。更には、王都とシンクの港を結ぶ街道の
整備までも、シャール公の視野には入っているようだ。
 ルダークは、公領都とシンクとの物資流通の仕組みの構築を進
めている。馬車なら半日行程であるため、公領都の外縁部に物資
の集積場を設けて、素早い行き来ができるように工夫が施されて
いた。
 シンクの港がひとまず形になったために、商船の呼び込みを行
うべく、使節が派遣されたのだった。
 エームによる詳細な交渉報告を聞き終えて、くすんだ金髪の王
子は二つ頷いた。
「徐々にでいい。いきなり多くの船に押し寄せられても、対応で
きないだろうから」
 主君の言葉に、ルダークはやや不満そうな表情を見せる。
「いえ、準備はできています。船着き場の整備は済んでいますし、
取引所も完成しました。多くの船に来てもらわないと、商売が成
り立っていきません」
 十歳近く年長の部下の反論に、ゆっくりとルーンが首を振った。
「取引のための設備だけでは、商人は居つかないだろう。特産物
でもあれば、多少の不便は気にせずにやってくるのだろうけれど、
今のところ目立つような商品はないのだから。
 やがては、幾つもの宿屋や食堂、酒場に、妓館も必要だろうね。
そうなれば、自然に人が集まり、人が集まれば商店や妓館の数も
増えていく。町の賑わいが商いの拡大に結びつけば、うまく回転
がはじまってくれるだろう。名物料理が生まれたり、名高い妓女
が現れれば、更に人が集まってくる……。
 もちろん、商人が稼げるのが、総ての大前提だけれども。その
辺りは、エームの方が詳しいかな。エーム。しばらくルダークと
一緒に、シャール公の許へと行ってくれないか」
「はい」
 エームが答えるようすは、恭しさに溢れている。外見だけなら
ば、濃茶の髪の青年は、どこまでも従順な臣下に見えた。ルーン
は、もう一人の部下に視線を転じる。
「あー、ルダーク。決して、文句をつけているわけではないんで
な。総てのことに通じている者はいない。エームでは、取引の制
度は固められないだろうし、ぼく自身なら、どちらもできないだ
ろう」
 納得のいかない風情だったルダークが、若い主君の言葉を聞い
て、恥じ入ったようすで頭を下げた。シンクの港を整備するにあ
たって、彼が果たした役割は大きい。それだけに自負も抱いてお
り、足りない点を挙げられたのが、功績を否定されたように聞こ
えてしまったのだろう。王子の言葉が本心であるのがルダークに
も伝わり、わだかまりは溶け去ったようだ。主君の背後に立つシ
ノンも、抑えた笑みを年上の同僚に向けている。
 と、ルーンの頬に、やや心配そうな表情が浮かんだ。
「ところでエーム。酒場まではともかく、妓館の話は……」
「はい、エレナ様には内密にですね」
 エームの口許が綻び、他の同席者の顔にも笑みがこぼれた。
「兎の時は、だいぶ絞られたからなあ。だいたいあれは、脚色が
激しすぎたし……」
 ぼやく王子に、エームが愉しげに応じる。
「英雄譚には華やかさが欠かせませんから、多少の脚色は仕方あ
りませんよ。ですが、やはり根本の部分はしっかりしていただか
ないと。今後とも、盛り上がる行動をお願いいたします」
「うーん」
 エームに悪びれたようすはない。諜報能力に秀でている彼は、
英雄譚を著したいという夢を持っているのだという。まじめそう
な顔と、諜者としての能力と、著述家でありたいという夢とでは、
どの取り合わせで見ても不調和に感じられるのだが。
 そんなエームにとって、主君は格好の素材というわけである。
英雄という言葉と自分自身との余りの隔絶に参っているようすで、
若き王子が髪を掻き上げる。
「しかし、伝記というものは、正確性を旨とすべきなのではない
かな。そうでなくては、後世の人々の判断を誤らせてしまう」
「私が書きたいのは、記録ではなく物語なのです。けれど、もし
もルーン様がお望みなら、行動の総てをありのままに、克明に記
述する形式に切り替えましょう。そちらの方がよろしいですか?」
 笑みを含んだ口調で、エームが主君を追いつめる。書き上げら
れた内容を想像してみたルーンは、あっさりと降伏を決めた。
「……いや、今のやり方のままでいい」
 濃茶の髪の臣下が、及第だと言いたげに頷いた。ゆるやかな風
が、主従のいる部屋を渡っていく。ルーンの部下達の瞳には、柔
らかな色合いが溶け込んでいた。


 現王の直子が存命であるからには、亡き王弟の遺児に権力の座
が巡ってくる可能性は低い。父親がつけていた家臣の多くは、ク
ランの許をあっさりと去っていった。その事実は、自らの特別さ
を信じていた少年の矜持に、幾つものひび割れを生じさせていた。
 王家は、国内の各所に館を有している。クランが暮らしている
のは、生前の父親が好んでいた、紅葉宮の名を持つ屋敷だった。
下働きの者達もかなりの人数が去り、館の活動は停滞している。
バース公国の軍勢を引き入れたのが、オール王の弟達だというの
が知れ渡ったためである。
 亡き父親が謀り事をしたなどという話を、クランは受け容れて
いない。去っていった者は、騙されているか、虚偽であるのを知
りながら口実にしたのだ。明るい金髪の少年は、そう確信してい
た。
 父親を失ってからのクランは、じっと王宮の方角を眺める時間
が多くなっている。柔らかそうだった顔立ちからは丸みが失せ、
硬く、ややきつい印象となっている。少年の頬に、人懐っこい笑
みは見られなくなっていた。
庭園に佇む王族の少年には、常に二人の部下が侍していた。脱
落者の相次ぐ家臣団の中で、動揺をまるで見せていない若い者達
である。
「クラン様。案じずとも、このような不義がいつまでも続く筈が
ありません」
 ヒュールの熱っぽい声には、真剣味がこもっている。目の細さ
が特徴的な青年は、クランと同様に、亡き主君にかかった容疑は
捏造されたものだと信じている。頷いた金髪の少年に対して、逆
側に控えている若者が言葉を繋ぐ。
「やがて転機が訪れるでしょう。その時まで、現在の苦境を忍ん
でください」
 シラルという黒髪の若者の口調は、同僚と近しいものである。
同じ熱情から出ているためではなく、意識して合わせられている
のだった。若い主君を見つめるシラルの瞳には、打算の色が見え
隠れしている。亡き王弟の臣下群にあって、末席に近い身分だっ
た若者にとっては、主筋の少年の苦境はまたとない好機なのであ
る。
 気に食わないこの若僧が権力を手にすれば、自分にも道が開け
る可能性が出てくる。父親の背信行為が明らかになったからには、
国王になるのは困難っぽいが、やがてはどこかの小領を得られる
筈だ。その時まで食らいついていれば、多少の旨みに預かれるだ
ろう。
 出自の低いシラルにとって、王族の臣下その二という立場は、
通常では望みようもないものである。ここで存在を強調しておけ
ば、重用度ではやがて他者に抜かれるにしても、主君の意識には
残るだろう。自分の状況に気を取られる子供に、胸の打算を見透
かされる筈はない。黒髪の若者は、そう確信していた。
 部下達がクランを元気づけるために発した言葉は、掛け合いと
なって過激さを増していき、やがてルーン王子の悪口へと行き着
く。明るい金髪の少年は、彼らのやり取りで心的安定を得るのを
日課にしていた。樹々の見事な色づき具合は、クランの視界に入
ってはいても、認識はされていない。
 逆賊の血を引いているくせに、王位を狙うなどとはとんでもな
い。支持を集めていた王弟達に、ありもしない謀略の罪を被せて
陥れるとは、なんと悪辣な所業だろうか。ネイトとアトマ両王子
謀殺の疑惑も、晴らされたわけではない。まったく、王位を継ぐ
にはふさわしくない者である。
 ヒュールは心底から信じている言葉を口にし、シラルは主君に
やる気を起こさせるため、嘘までを混ぜ込んでいる。そんな二人
が掛け合いをしていれば、徐々に誇張が生じてくるのは自然な状
況だった。シラルとしては、あきらめて隠遁でもされてしまうの
が最悪の事態である。自分の将来のために、年若い主を焚きつけ
続ける必要があるのだった。
 王族の少年は、部下達の話を聞きながら、まっすぐに王都の方
向を見つめている。その瞳には、どこか狂おしさが生じてきてい
るようだった。


 王子の臣下の若者達は、交代で昼夜を問わず、主君の居室近く
に控えている。一般的には、信頼された者がずっと番をする場合
が多いのだろうが、ルーンは部下達が自分にかかり切りになるの
をひどく嫌っていた。自らのための時間を持たないのは、悪しき
ことだとまで考えているようだ。不寝番だけでなく、出仕につい
ても交代で休むようにと奨められていた。
 閏日の休日や、祝祭日以外に自由に過ごす時間を持つのは、王
宮ではあまり例がないだろう。エームは、与えられた時を活用し
て書き物にいそしんでいるし、シノンは情報官報告や、書庫の書
物に親しんでいる。グロスなどは、街に出て博徒らと交わってい
るようだし、ルダークは妻子と時を過ごしている。対して、グー
リーはやりたいと思うことが見つけられずにいた。
 書物に目を通すのは、苦痛ではないのだけれど、耽りたいとま
では思えないでいる。それよりも、主君の近くで忠勤に励む方が、
黒髪の若者には合っているのだった。
 休みなく勤めていると、ルーン王子から遊びにでも行かないの
かいとの問いが投げられる。グーリーは、こうしているのが好き
なのです、と答えるのが常だった。ちょっと困ったような顔をし
ても、ルーンは休息を強いたりはしない。
 不寝番についても、できるなら毎夜侍していたいのだけれど、
他者との均衡を考えるとそうも言えない。今宵はエームに任せて、
黒髪の若者は自室へと引き取っていた。
 部屋に戻っても、待っていてくれる人がいるわけではない。息
をついて、グーリーは窓の近くへ歩み寄った。秋風と共に、蒼い
月明かりが室内へと優しく忍び込んでいる。
 王子が部下達に自由時間を与えたい理由の一つに、早めに連れ
合いを探してほしいという希望がある。少なくともグーリーには、
主君の意図のその部分は通じていなかった。シノンやエームなど
は、わかっていて無視しているのだけれど。
 ルーンには、自分に仕えるのが幸せに繋がるかがわからない以
上、部下達には家庭を持っておいてほしいという想いがある。だ
けれど、今のところ主要な面々の中に、新たに連れ合いを見つけ
た者はいなかった。というわけで、既婚者はルダークと情報官の
グラディスくらいとなっている。
 夜空を眺めていた若者の許に、時ならぬ客が訪れようとしてい
た。軽く叩かれた扉に、グーリーの目線が窓外から転じられる。
薄闇の中に、旧知の人物の姿があった。
「義兄さん……」
 呼びかけた相手は、妹の夫であるからには義弟と言えなくもな
い。けれど、年長の親族であり、更にはロムル一族の本家に属し
ているため、グーリーは兄として捉えていた。呼ばれたタクトは、
苦笑するかのように小さく唇を歪めた。
 代々シムス公家に仕えるロムル一族にあって、グーリーの生ま
れた分家は、本家に絶縁され、忘れ去られそうになった時期があ
った。グーリーの祖父が、当主の意向に背いて想い人を妻に迎え
たためである。
 妻選びで本家の指示に反したとしても、それだけならたいした
問題とはならない。けれど、選んだ相手が悪かった。その女性の
性格に難があったわけではない。ミオク公家と縁を持っていたの
が、不運だったのである。
 縁とは言っても、実際には侍女として仕えていただけでしかな
い。グーリーの祖母が親を亡くしていたため、ミオク公家の傍流
の者が養女に迎え、嫁がせたのである。名目だけ養女にするとい
うのは、忠勤の見返りとして、半ばご祝儀的に行われるもので、
強い意味は持たない。通常ならば。
 ミオク公家の廃絶によって、与えられた養女としての立場は、
本来の意味合いからねじ曲がった色彩を有するようになった。グ
ーリーの祖父は、仕えていたシムス公家を追われ、ロムル一族か
らも除かれた。
 グーリーの父親であるツートは、失意の夫妻の一人息子として、
この世に生を受けた。そして、長じるに従って、両親を恨むよう
になったという。ロムルの家名を辱めたとして両親を全否定した
ツートは、妻と早くにもうけた子供達を放り出すと、シムス公家
に認められるために小者として働きはじめた。グーリーと妹のキ
ーラは、母親を亡くしてからは祖父母によって育てられたのであ
る。
 グーリーは、今もその頃の窮乏した生活を思い起こせる。悲哀
を抱えた夫妻は、孫達には優しかった。失意の祖父母は、一人息
子との仲を修復できぬままに生涯を終えてしまった。
 小者として忙しく働いたツートも、憎んでいた両親の死の直後
に命を落とした。その頃までには、気の回りようがシムス公に認
められ、便利な存在として愛されるようになっていた。ツートの
死を惜しんだ公は、手厚く弔うようにとの指示を発した。
 主家の当主によって評価されたために、グーリーの家の名誉は、
実質的に回復された形となった。その流れの中で、妹であるキー
ラが、ロムル本家の跡取りに嫁いだのである。
 グーリーにも、シムス公家に仕えるようにとの話があったのだ
が、そうなれば逆に一族の他の者から妬心を向けられかねない。
公家に仕えられるのは、ロムル一族の中でも選ばれた者のみとさ
れているためである。小者として仕えた兄妹の父親は、どこまで
も例外的な存在だった。
 本家の嫁となった妹の立場を考え、グーリーは衛兵になる道を
選んだ。そして、ルーン王子によって見出されたのである。自分
とミオク公家との縁については、グーリーは主君に話していなか
った。
 この夜、唐突に居室に現れた人物は、キーラの夫で、ロムル本
家の若き家長だった。
「久しいな、グーリー」
 タクトの呼びかけの言葉は、暗い部屋にどこか空々しく響く。
幼少の頃に投げつけられた侮蔑の視線を、グーリーは今でも憶え
ていた。この親族の青年は、小者として生涯を送ったグーリーの
父親を評価しておらず、逆にロムル家にとって邪魔な存在だと捉
えていたようだ。妹にとっては良き夫であるらしいのだが、正直
なところ好きにはなれないでいる。いきなりの訪問の意図が、グ
ーリーには掴めずにいた。
「部屋を明るくしてくれないか」
 年長の親族の言葉に、慌てて灯りの準備がされた。油の満たさ
れた小壷が、王宮で使われる標準的な灯明となっている。火をと
もせば、芯が油を吸い上げ、部屋を照らし出してくれる。香を焚
く際にも使われるため、どの部屋にも複数が常備されていた。
 幾つもを使えば、そこそこの明るさになるのだけれど、この部
屋の主は当然のようにひとつにしか火をつけない。そうだろうな
とでも考えたのか、タクトは部屋の明度については口にしなかっ
た。告げたのは、もっと重要な別のことである。
「まもなく、シムス公家の跡取りであるコルナ様がお見えになる。
お前に話があるそうだ」
 薄明るい部屋の中で、グーリー・ロムルの目が見開かれた。シ
ムス家の公子と顔を合わせると想像しただけで、黒髪の若者の鼓
動が速まる。
 公家への正式な出仕は、父親であるツートの悲願だった。祖父
母に育てられた身としては、自分達兄妹を顧みなかったこととも
絡まり、亡父を憎んだ時期もあった。けれど、主君に仕える喜び
を見出した今では、その心情にも一応の理解を与えられるように
なっている。
 グーリーにとってのシムス公家は、近くて遠い存在だった。他
のロムルの親族達は、幼少の頃から公家への忠誠を叩き込まれる
という。けれど、グーリーの場合には、祖父母の抱いていた複雑
な感情がずっと身近にあった。シムス公家との接点がなかったた
め、胸の中にある想いは、これまで顕在化してこなかったのであ
る。 
 扉から入ってきた公子に対して、グーリーは跪いた。大仰なこ
とを嫌う王子なら、顔を上げて立つようにと言っただろう。コル
ナ・シムスは、当然のように拝跪を受け容れ、親しげに言葉をか
けた。
「ルーン王子に認められたそうだな。そなたの祖父母が、一族か
ら排除されてしまった経緯は聞いている。彼らに落ち度はなかっ
たというのに、申し訳なく思っている」
 思わぬ内容に、グーリーの目頭は熱くなっていた。公子殿下の
今の言葉を聞いたなら、失意の中で死んでいった祖父母は安堵す
るに違いない。公家に認められるために生涯を費やしたツートも、
きっと本望だろう。手振りに従って目を上げると、にこやかなコ
ルナの顔が至近にあった。
「本来なら、我が許に来るようにと誘いたいところなのだが、王
子殿下の臣下になっているとあっては、今は控えよう。我が身の
ために、いや、シムス公家のために、ルーン殿下に仕えてくれ。
頼むぞ」
 柔らかな口調で、明るい茶の髪の公子は畳みかけた。こみ上げ
てくる歓喜に混じって、疑いの泡が胸の奥に生じる。ルーン様に
仕えるのは、自分の意志である筈だと。けれど、あたたかな公子
の視線が、グーリーの疑念めいた想いを消し去る。瞳を潤ませた
黒髪の若者は、受け継いだロムルの血を実感しながら頷いていた。
 緩やかに流れる空気が、灯明の火影を揺らめかせている。義兄
が居心地悪そうにしているのを、グーリーはまるで気づいていな
かった。 
 公子が口にしたツートに関する想い出話は、息子の耳にも新鮮
だった。おぼろげな記憶として語られる言葉には、真実だけが持
つ重みが感じられる。薄明かりの中での会見は、穏やかさを崩さ
ずに幕を閉じた。
 
「タクトよ。あの者との仲はよいのか」
「いえ、それほどではありません。なにしろ、一族の中では白眼
視されていた存在でしたので」
 若い主君の問い掛けに、腰を落としているタクトが表情を消し
て答える。シムス家の公子の部屋には、多くの灯明の炎が揺らめ
いている。
 主家の跡取りが訪問したのは、一族の中でも末端に位置する者
である。ロムル本家の当主であるタクトとしては、おもしろかろ
う筈がなかった。苦笑したコルナが、信頼する部下の肩を叩く。
「別に、あやつを重用したいと思っているわけではない。シムス
公家にとって、王族の臣下となっている者は、大きな価値を持つ
のだ。利用しない手はない」
 公子の笑みが自分に向けられると、タクトの表情が安堵に置換
される。 
「そうだったのですか。なるほど、そのために無理に親しげなお
言葉を」
 納得したようすの部下に、コルナが大きく頷く。
「だからな、タクト。あの者から情報を取り、いざというときに
こちらの意のままに動くようにしてほしいのだ。できるだろうか」
「はい、必ず」
 即答した公子の臣下には、一族の長としての自負がある。懸念
顔になったコルナが、言葉を繋ぐ。
「だが、あの者の生い立ちを考えれば、ロムル一族としての務め
ばかりを強調するのは、必ずしも賢明なやりかたではないぞ。確
か、タクトの妻があやつの妹なのだったな。妹の運命について示
唆すれば、すんなりと従うだろう」
「や、しかし、妻には関わりが……」
 やや色をなしたタクトだったが、主君が手を挙げるとあっさり
と制される。
「本当に離縁しろだとか、命に危険が及ぶと言っているわけでは
ない。あやつにそう思いこませれば、効果があるということだ」
「なるほど。あの兄妹は、幼い頃には強い絆で結ばれていたよう
なので、きっと有効でしょう。さすがはコルナ様です」
 感心された明るい茶の髪の公子は、笑みを浮かべて心中の真意
が表に出るのを抑えた。従臣の妻などは、シムス公家にとっては
取るに足らぬ存在である。王子の臣下を掌中にするためなら、本
気で人質にするのをためらうつもりはない。けれど、現段階で夫
にそう告げる必要もないのだった。
 タクトは、与えられた任務を果たさんと意気込んでいる。シム
ス公家の跡取りであるコルナにとって、意のままになる存在は、
この部下一人だけではない。ロムル一族は特殊な存在ではなく、
幾つもある同様の家系のひとつでしかなかった。
 幾代にもわたる彼らの忠誠をつなぎ止め、操っていくことこそ
が、公位を継ごうとする身にとってはもっとも必要な資質と言え
るかもしれない。邪気なく映るコルナの笑みは、譜代の家臣の心
を掴むための有効な小道具となり得た。


 ロムル家の若い当主が退出した後、コルナは別の部下を呼んだ。
すぐにやってきたのは、フォーリ家の長であるリクトゥである。
 シムス公家の諜報面は、フォーリ一族を中心に実行されている。
裏の事情に通じているため、身内からも隔意と、一種の畏敬を集
める家柄だった。けれど、コルナにとっては、シムス公家を支え
る一翼に過ぎない。明るい茶の髪の公子に、譜代の家臣の忠誠を
疑うという発想はなかった。
「公子殿下。いかがなさいましたか」
 髭で顔の半ばが覆われたリクトゥは、めずらしく穏やかな雰囲
気を漂わせている。私室で公子と言葉を交わすときには、臣下達
は腰を落とす。年若い者ほど、上下の区別をはっきりとつけたが
るものである。
 コルナが命じたのは、ロムル一族の若長の監視だった。裏切り
を想定しているわけではない。タクトが派手に動きすぎて、ルー
ン王子に気取られてしまわないようにするためである。
「わかりました。すぐに監視体制を整えます」
「しばらくかかるかもしれないが、王子の陣営の内情を把握でき
れば、なにかと役に立つんでな。頼むぞ」
「はっ」
 公子とリクトゥの会話は、あまり長くはならない。フォーリ家
の当主が、必要以上の話をしないためである。
 コルナは、だいぶ年長の家臣がそのまま立ち去ると知っており、
既に背中を向けている。若者の背中に柔らかな一瞥を投げて、リ
クトゥは部屋を退出した。


 廊下に出ると、抑えられた気配が寄ってきた。確認せずとも、
娘のミルサであるのがわかる。
「でも、人使いが荒いわよね。あんなの、わざわざ監視しなくた
って、進展をこまめに報告させればいいじゃない」
 文句の付け方から察するに、フォーリ家の娘は、主従の会話を
盗み聞きしていたようだ。リクトゥは、その点については触れず、
内容についてたしなめた。暗い廊下を踏みつける親娘の靴からは、
足音はほとんど発せられていない。
「主家からの指示についての不満を口にするな。お前の言うのも
わかるが、シムス公家の跡取りには、我らの扱い方に慣れておい
てもらわなくては困る。諜者を使ってみたいというだけでも、意
味はあるのさ」
 髭面の父親の言葉に、明るい茶の髪の娘がちょっと頬をふくら
せる。リクトゥの半分髭で埋まった顔には、柔和な表情がある。
公子と接するとき、父親が必ずこの顔を見せるのを、ミルサは気
付いていた。
 年若いリクトゥの娘は、諜者としての訓練は積んでいるものの、
主家に仕えるのがよろこびだという心境にはなれずにいる。女だ
からか、家長の地位を継いでいないために、実感がないからか。
理由は、ミルサ自身にも分析ができていなかった。 
「シムス公家あっての我々だ。それを忘れるな」
 きつめに言われて、リクトゥの娘が肩を落とす。彼女の家に仕
える諜者達にも、代々の家来が多い。こちらも給金だけの関係で
はなく、フォーリ家には諜報網の構成員に対する責任があった。
 諜者達がリクトゥの命令を軽んじたなら、組織の効率は極端に
低下する。同様に、フォーリ家の者もまた、シムス公家の指示に
疑問を差し挟むべきではない。頭ではわかっていても、ミルサの
心が納得してくれないのだった。
 シムス公から発せられる指示に、彼女が不満を抱いたことはな
い。なのに、公子であるコルナからの命令だと文句を言いたくな
るのは、内容の適切さの違いからか、主家における立場が異なる
ためか、あるいは経験を含めた年齢的なものがあるのか。この点
の理由についても、諜者の娘には不分明だった。
 歩みを止めたリクトゥが、反発を抑えているらしい我が子の肩
を叩いた。明るい茶の髪の娘が、上目遣いに父親と視線を合わせ
る。頷いたフォーリ家の当主の顔には、公子の部屋を出たときと
同じ、柔和な表情が浮かんでいた。


 眉根がわずかに寄せられているのが、グーリーが抱く危機感の
ただひとつの徴表だった。ロムル本家の当主からの働きかけは、
徐々に強さを増してきていた。
 動向を把握したいのは、公子殿下がルーン様のお役に立ちたい
と考えているからだ。そう言われてしまうと、断るのはなかなか
にむずかしい。
 けれど、求められる情報の内容によっては、グーリーとしても
応じられなくなる。協力を断るのなら、妹のキーラの将来に暗雲
が生じかねない。当の夫からそう言及されてしまうのは、グーリ
ーにはきつかった。
 黒髪の若者にとって、もっとも親しい同僚はシノンである。け
れど、相談を持ちかける気にはなれずにいた。
 シノンは、自らを縛めていた王家への恨みを、主君を見出した
ことによって解き放っている。かつての自分を捨て、王子の臣下
であるのを選びとった同僚を、これまでのグーリーは自分と変わ
らないと考えていた。
 ロムル家との関わりが顕在化してみると、自分がなにも捨て去
っていなかったのだと、改めて気付かされた。心からルーン王子
に臣従した気でいたのだが、錯覚だったようだ。強い気恥ずかし
さを覚えたグーリーは、状況を他者に打ち明けづらくなってしま
っている。
 エームも、過去の稼業を清算したのだというし、他の同僚達も
王子に自分のほぼ総てを賭けた状態である。グーリーも、つい先
日まではそうだったつもりでいたのだけれど。
 祖父母の、そして父親が抱いていた想いに配慮すべきではない
のか。そんな考えが、自分自身への言い訳であるように、近頃の
グーリーには思えている。公子の期待に応えたいという願望が、
胸中にちらついているためである。しかし、ルーン王子への忠誠
心にかげりが生じたわけではない。
 王子に相談するというのも、グーリーにはできなかった。なに
しろ、コルナ殿が知りたいのなら、なんでも教えてあげなよ、く
らいのことを言いかねない主君なのである。両者が同じ陣営に属
してくれれば、過度に苦しむ必要はないのだが、状況はどう転ぶ
かわからない。シムス公家が機を見るに敏なのは、誰もが認める
ところである。
 妹が人質になって、従うように強要されているだけなら、話は
もう少し単純である。夫と仲睦まじいキーラのことを考えれば、
充分に選択は困難となる。だけれど、現状では、妹のためという
のを理由にして、公家に仕えたいと思っている自分もいるのであ
る。胸中の望みが分裂する感覚を、黒髪の若者ははじめて味わっ
ていた。
 グーリーとしては、妹の運命を道具として扱っている主体がだ
れだかわからないのが不安だった。手柄を立てるために、タクト
が個人的に言っているのか、それとも公子の命じるところなのか。
あの夜の邪さのない笑みを考えれば、コルナの発案だとは考えた
くない。もちろん、妹が夫によって交渉の道具にされているとも、
想像したくはなかった。
 考え込んでいるのがシノンやエームだったなら、だれかが早々
に異変に気付いていただろう。グロスは、なにかあったら黙考で
済ましはしないし、ルダークは妻に愚痴って解消しない問題は、
早めに口に出しそうな雰囲気を持っている。王子の信頼を得てい
る他の臣下達にも、比較的わかりやすい者が多い。
 グーリーだけは、眉根が寄せられていても、考え事をしている
と見られて不思議がない人物なのだった。仕えている主君の人柄
と、置かれている立場を考えれば、懸念すべき事項は数多いのだ
から。
 もしも、ルーン王子に仕えるよりも前に、公子に直々に見出さ
れていたなら。きっと、なんの迷いもなく、感激して臣下となっ
ていたようにグーリーには思える。実際には、衛兵として過ごし
ていた時期に声がかかったなら、自分にそのような価値はないと
決めつけ、悩んでしまっていたかもしれない。ルーン王子の許で
臣下達の調整役として務めた年月が、彼にある程度の自信を持た
せていた。
 悩ましい時間が、ゆっくりとグーリーの足許を通り過ぎていっ
た。自分もロムル家の人間なのだと、黒髪の青年は改めて実感さ
せられていた。


 グーリーの眉間の、かつては見られなかったしわに最初に気付
いたのは、主君であるくすんだ金髪の王子だった。
 想いというのは、血に刻まれるものなのだろうか。二つの忠誠
心に挟まれての逡巡は、グーリーの心中で回転を続けていた。今
までの人生の中で、これほどに二つの想いが衝突した経験はなか
った。
 自己認識としては、思慮深い方だろうと考えていたのだけれど、
どうやら単純な道を歩んできたため、悩みを持ってこなかっただ
けのようだ。欲求のぶつかり合いから逃れたいがため、グーリー
の脳裏には自死という選択肢すら浮かぶようになっていた。公子
との会見からは、一月あまりが過ぎようとしている。
 黒髪の若者は、主君によって居室から連れ出された。王子が迷
わずに裏庭に向かったのは、人通りが少ないからだけでなく、表
の庭園よりも落ち着けるためだった。
 樹木が無秩序に散らばっている中を、緩やかな風が吹き抜けて
いる。鮮やかに染まった夏緑樹の葉は、そろそろ落ちはじめる時
期を探っているようだ。楡の木の下で立ち止まり、ルーンは信頼
する部下と向かい合った。
「なにか、悩みがあるんじゃないのかな。あまり人生経験が豊富
なわけではないけれど、ぼくでよければ相談に乗るよ」
 やんわりにしても、問い詰められるだろうかと考えていたグー
リーが、ふっと息をつく。そう、この主君はこういう人だった。
 本来なら、一族として仕えるべき相手が他にいるなどとは、王
子に対して口にすべきではないのだろう。王族とは、主家である
シムス公家をも含めて、カルム全体を統治する存在なのだから。
 けれど、様々な苦難を乗り越えてきた主君に、人生経験が少な
いと言われてしまって、グーリーは覚悟を固めた。総てをこの人
に話そうと。そうしたくなるだけのなにかが、くすんだ金髪の王
子には備わっていた。
 ルーンは、臣下の告白を穏やかな表情で聞いていた。若者達の
間を、秋の落ち着いた空気が流れていく。自死という選択肢が眼
前をちらついたことまで、グーリー・ロムルは迷いの総てをぶち
まけた。くすんだ金髪の王子は、しばらく黙考した後で口を開い
た。
「グーリーは、ぼくにとっては得難い存在だ。できれば、ずっと
一緒にやっていけたらと思う。だけれど、家族を犠牲にしてまで
仕えてもらうだけの価値は、ぼくという存在にはないよ。
 人というのは、まずは自分の大切なものを守るために行動すべ
きだと思う。家族を犠牲にしてしか成立しない忠誠なんて、まや
かしでしかないのだから。
 カルムにおいても、総てを犠牲にした忠義が称えられるけれど、
ぼくはそんな考えには賛同しない。総てを捨てて主君に盲従する
というのは、人間として正しいあり方じゃないと思うんだ。
 人というのは、考えて自らのありようを決めていく存在だ。思
考を放棄し、どうすべきかをだれかに完全に明け渡すというのは、
間違った忠義だと思う。主君の掲げる大義や、組織の目的に納得
し、違う考えに従うのは別としてね。
 ともあれ、少なくとも今回の場合は、グーリーの妹さんの幸せ
を潰す必要はないよ。ぼくの動向がコルナ殿に伝わっても、ちっ
とも困らないんだから。このまま部下として振る舞い、あちらに
内通していてくれればいい。
 もしも、シムス公家と戦端を開く事態になったら、その時に改
めて去就を決めてくれ。幾人かの有力者と誼みを通じるというの
は、辺境の小領主ならごく自然な振る舞いだし、恥じる必要はな
いよ。
 ……どうしてもそれが嫌だというなら、暇を出させてもらう。
シムス公家に仕えるなり、妹さんとカルムを離れるなり、自由に
生きてくれ」
 剣を交えただけで自分を見出した主君は、こんな内容すら穏や
かに口にする。決して、不必要だと思われているわけでないのは、
グーリーにははっきりとわかっていた。深く頭を垂れると、王子
の声が耳朶に届いた。
「すぐに結論を出す必要はないよ。だけど、死んではいけない。
いや、死なないでほしい。それだけは頼む」
 その口調には、常にない想いが籠もっていた。立ち去る気配を
感じながら、グーリーが目を上げる。
 視界の隅に、春風の祠を囲む樹々が入っていた。エームによっ
て植えられた木蘭の若木も、流れた歳月分の成長を見せている。
 信頼する侍女が毒によって倒れたあの晩、ひざを抱えて震えて
いた王子の姿を、グーリーは今も思い出せる。彼の主君は、決し
て強いだけの人ではないのだった。
 黙礼を祠に投げて、グーリーは歩き出した。王都を離れ、西方
へと旅立つために。

祖国のために、できること 6.初陣の野で (後半)


「ルーン様、敵が動きだしました」
 それは報告というよりも、指示の催促とした方がシノンの意図
に近いだろう。副将を務める青年にとっては、いや、ルーン配下
のほとんどにとって、大規模な戦闘への参加ははじめてである。
 黒馬に跨る王子の配下は百騎ほどであり、三千を越える敵の歩
騎兵を押し止められはしない。後方から左方の岩場付近にかけて
布陣する王弟達の軍団は動きが鈍く、わずかに騎馬の数十騎が動
き出したのみだった。
 ルーン達はシックの騎兵隊と合流するつもりでいたのだが、王
弟達の軍勢が予定外に進出してきたため、分断されてしまった状
態となっている。
「前進して、ひとまず左へ抜けよう」
 後方は両王弟の軍勢が塞ぐ形となっているため、取りうる進路
は左方の岩場の細道だけである。地元の住民が使う小径で、整備
されている気配は皆無だが、少数の騎馬隊ならばなんとか通り抜
けられるだろう。
 行動が制限されているのは、ルーンの隊だけではなかった。王
弟達が事前に定められた配置に背いて斜型陣を布いたために、最
左翼から進出する筈だった騎兵部隊の進路も閉ざされた格好とな
っている。
「ですが、後で逃げたと言われませんかな」
 さすがに緊張した表情のシノンの言葉に、若い王子は微笑んだ。
「行動は、各隊の指揮役に任されている。騎兵の小部隊が騎歩兵
と正面からぶつかっても、なんの意味もないよ。叔父上達に援護
を期待するわけにもいかないし」
 信頼する部下が頷いたのを見届けて、ルーンは手綱を軽く弾い
た。気心の知れた相棒である新月号は、素軽い脚取りで野を駆け
はじめた。未だ敵軍との距離はだいぶある。直進していく若き将
に、麾下の者達が続いた。
 急な参陣だったため、ルーン王子には未だ将旗がない。カルム
の軍勢は青の三角旗を用いており、王族がいる際には色が濃紺と
なる。一方のバース公国軍は、細長い橙色の旗を使っていた。
 カルム側から突出した形になっているルーン達だけれど、旗が
なくては敵方も相手にしないだろう。間近まで接近しようとして
いる偵察役か、小領主のばか息子が張り切っている程度に思われ
ているかもしれない。
 野を駆ける王子の手勢の右方に、後方から急進してきた騎馬部
隊が追いつき、並走する形となった。その部隊の中の二十騎ほど
が、騎乗のままで弓を構え、矢を番える。流れるような動きから、
かなりの手練れであるのが見て取れた。
 だが、敵との間にはまだ距離がある。王子の右後方に位置する
シノンの脳裏で、違和感が警戒を促した。右方の騎馬隊を注視し
ていると、正面に向かっていた彼らの弓の狙いが動いた。矢の射
線が向けられたのは、シノンよりもやや前方……
「ルーン様!」
 抜刀したシノンが、馬を怒らせて急進し、主君の盾になろうと
する。逸る彼の視界の中で、矢は一斉に放たれた。間に合わない
っ。焦燥の中で視線を向けると、ルーン王子は馬の速度をやや緩
めているようだった。
 冷えた空気を切り裂いて、矢がまっすぐに騎乗の若い王子に迫
る。シノンは思わず目を瞑った。
 数瞬が過ぎ去った後、意思を込めて瞼を上げると、黒馬の鞍上
に見慣れた姿はなかった。
「あぁ、ルーン様……」
 並びかけると、歩いている馬の手綱に、右手だけが繋がって見
えていた。次の刹那、黒馬の陰からルーンが再び鞍の上へと飛び
乗った。
「お怪我は!」
 再度の攻撃を身をもって防ぐために、シノンが馬をぴったりと
右側に併せる。
「骨を折ってるみたいだ」
「なんと」
「可哀想に、痛そうだ。しかも、迷子なのかなあ。どーして冬に
子供がいるんだろう」
 王子が視線を送る腕の中には、毛の生えた長い耳がある。抱か
れているのは、野兎の子供だった。怒りよりも心配よりも、シノ
ンは呆れていた。
「ルーン様、戦場でなにを……」
「あ、岩場へ抜けないと」
 ルーンの言葉は、叱られるのを避けるためではなかった。突出
してきた敵の先頭が、既に表情のわかる距離まで近付いている。
シノンの合図で、王子の軍勢は一斉に左方へと向かった。
 二の矢を放たんとしていた王弟達の特命部隊は、慌てて追おう
とするが、迫り来るバース軍から飛来した矢がそれをさせない。
仕方なく毒矢をそちらに放ったところで、急進してきた騎馬が斬
り込んでくる。
 戦場全体でも、それが両軍の衝突の最初だった。圧倒的な数の
違いに、王弟の部下達は蹴散らされ、次々と殺されていく。バー
ス軍右翼の騎兵達は、血を見ても逸らず、追いついてくる味方歩
兵を待っていた。特に将から指示が出されたわけではなく、各自
が判断した結果である。戦闘経験においては、バース勢の方が明
らかに豊富であった。 


 子兎を懐に迎え入れた王子は、シックの指揮する軽騎兵隊の許
へと向かった。接近するのが若き王族であるのを知り、戦機を窺
っていた騎兵集団の長が馬を進めてくる。
 戦場の左方には岩場が拡がっており、大部隊の行軍は困難であ
る。前方は両王弟の軍に塞がれているため、戦端が開かれた今と
なっても、シックの部隊が向かえる先は見当たらなかった。
「どうされました」
 シックは、かつて兵営を訪ねてきた王子と演習を重ねたために、
才幹のほどを知っている。馬を止めたルーンは、騎馬隊の長に問
いかけを投げた。
「カルム軍の弱点はどこだと思う?」
「右翼です。バース側が、後方の騎兵軍団をまとめて投入してき
たら、崩されてしまうでしょう」
 戦線の右方は、なだらかな丘陵地帯になっていて、騎兵の行動
に適している。どちらかといえば慎重なシックには、味方の弱点
がよく見えていた。
「相手が動いたところで、貴下の騎兵が突撃したら、どうなるか
な」
「逆に、こちらが一気に崩せるかもしれません」
 王子の顔に、人懐っこい笑みが閃いた。
「今回の戦いでは、各将に判断が委ねられている。行かないか?」
 遊兵になっているとはいえ、左翼から右翼へと転ずるのは、完
全な戦線の再構築であり、部将の判断すべき事柄からはだいぶは
み出す。それがシックの感覚だったが、この王子もおそらくわか
っていて言っているのだろう。
 騎兵は、ただの馬上の兵にも、会戦の帰趨を決する爆発力にも
なる。騎馬隊を預かっていて、後者になれる機会は、生涯に数え
るほどしかないだろう。その思いが、シックの頭から打算を取っ
払っていた。堅実さで知られる騎兵隊長の胸にも、功名心は抱か
れていたのである。
「行きましょう。ただし、主将はルーン殿下、あなたです。よろ
しいですな」
 シックの言葉は、保身を図ったものではない。自分には思いつ
かない行動である以上、成功したならルーン王子の手柄にすべき
と考えたのである。共に敗死したなら、誰もがシックの軽率を責
めるだろう。
 王子はやや戸惑ったようだったが、既に各戦線で激闘が繰り広
げられており、議論している暇はない。頷いたルーンは、手綱を
弾いて新月号を走らせはじめた。シックも、すぐに伝令に指示を
発する。王子の配下と軽騎兵隊が動き出し、味方の陣の後方を駆
け抜けていった。野を通り抜ける風には、血の臭いが混じり込ん
でいた。
 
 カルム右翼の騎馬兵力は、バース騎兵の突撃によって打撃を被
り、ひとまずの後退を余儀なくされていた。機動性の高さを特徴
とする軽騎兵は、守勢に立たされると弱い。歩兵の指揮にあたっ
て最も重要なのは粘り強さだが、騎兵を率いる者には、局面を考
えてどう動くべきかを判断する必要があった。右翼の騎兵の指揮
役は、決して無能な男ではない。騎兵が陣形に組み込まれている
のが、そもそも間違いなのだった。
 最右翼の騎馬隊が退いたとなれば、右翼の歩兵軍団は前方と側
方から攻められてしまう。戦況の思わぬ悪化に、右翼の中央を守
っているミトルナ公は、顔面を蒼白にさせている。鉄板で補強さ
れた革鎧を着込んだマルトゥースが、敬愛する主君を傍で支えて
いた。小高い丘に設置された陣幕からも、迫ってくる敵が視認で
きる。
 並び立つ二人に、侍者が声をかける。その若者の声は、微かに
震えているようだった。
「シャール公よりの伝令です」
「通せ」
 マルトゥースの声が、鋭く響き渡る。常日頃は穏やかな彼であ
るが、戦場ではその面影はない。やってきた軽装の伝使が跪く。
「左翼が押されているようですが、中央では互角以上の戦いぶり。
ここはなんとしても持ちこたえましょう。以上が、我が主からの
伝言です」
 応じたのは、マルトゥースである。
「ご苦労。騎兵を引き受けていただき申し訳ないが、こちらも討
って出る。そう伝えてくれ」
「はっ」
 身軽な動きで、伝令役の青年が駆け出していく。シャール公の
軍は、右翼の右側に布陣していて、敵騎兵の猛攻に晒されながら
も凌いでいる。左方にいるヴィット公は、中央とのわずかな隙間
を突かれ、苦戦中のようだ。主君であるミトルナ公の怯えた眼を、
マルトゥースは見ないようにした。
「私も出ます。正面の敵歩兵を蹴散らして、シャール公の援護に
回らなくては」
 頷いた主人を侍者に任せ、革兜を被ったマルトゥースは小走り
に駆け出した。部下の許に着くと、見知った者達が視線を送って
くる。懐かしい空気が流れているこの場所には、昔から彼が所属
していた隊の、もう引退していてもおかしくない兵達が揃ってい
た。どの顔にも、緊張の中に喜びが溶けているように思える。
「マルトゥース、いよいよか」
「ああ、突撃だ。そろそろ打開せねばな」
 かつて一緒に初陣を迎えたその騎兵は、友の言葉に皺の浮いた
顔を綻ばせた。カルム勢でも、三十五歳を越えた兵には、戦闘経
験を豊富に持っている者が多い。この場にいるのは、年少者でも
五十歳を越える歴戦の者達だった。久方ぶりの、そして最後にな
るかもしれない戦場の雰囲気が、古参兵達を酔わせていた。
「ルーン殿はご無事だろうか」
 剣術の稽古をつけたために王子とも親しい一人が、心配そうな
声を上げる。左翼が劣勢であるとの報は、マルトゥースの胸をざ
わめかせていたが、どうすることもできない。初老の騎士は想い
を振り払い、目前の戦いへと意識を集中させた。
「ルーン様の剣の腕があれば、死にはしないさ。それよりも、こ
の陣を破らせるわけにはいかない。行くぞ」
 熟練兵達が一斉に頷く。彼らには、もはや士気を鼓舞する必要
もない。馬を引かせたマルトゥースは、予備兵力を率いて間近の
戦場へと赴いた。  
 
 死が、そして憎しみが、湧き出づるように生まれている。両軍
の激突は、果てしなく思えるほどに続いていた。やや劣勢に立た
されていたミトルナ公領の歩兵部隊は、増援を連れたマルトゥー
スを歓喜の声で迎えた。気を取られた両軍の若年兵が、敵の剣先
の餌食となる。
 投入された新手も、百人ほどでは戦況を覆す力はなかった。刀
身が革鎧を、そして肉を切り裂く。血に鈍った剣は、打撃で骨を
砕くための得物に変わる。倒れた者が握る、未だ鋭い剣を拾おう
とする隙を突かれ、致命傷を負う者も多い。
 たまたま正面に押し出されてきた、戦場での経験が少なそうな
若者には、マルトゥースはつい手加減をしてしまう。若兵は、剣
を飛ばして軽く一太刀入れれば、もう脅威ではなくなる。初老の
戦士に、殺した敵の数を誇るような趣味はなかった。
 手練れの兵が相手となれば、全力を出さざるを得ない。騎乗の
戦士を狙ってくる者には、油断は見せられなかった。革鎧の表面
で、自身の血と返り血が混ざり合う。若い頃から戦場を巡ってき
たマルトゥースには、こんな状況すら懐かしく思えてしまう。決
して、楽しんでいるわけではなかったが。
 乱戦の中で、マルトゥースの馬はシャール公の陣の近くまで流
されていた。激戦が重ねられたようで、死体を踏みつけなければ
馬が進めない状況だった。
「あれは……」
 また一人を倒した初老の戦士が、手の甲で顔の血飛沫を拭うと、
視界の先に騎馬の群れが入った。
「バース側の援兵か?」
 右翼の騎馬隊が退けられているからには、味方だとは考えにく
い。だけれど、馬群の先頭で伸び上がっている騎士に、マルトゥ
ースは見覚えがあった。忘れようのないその姿は、教え子のルー
ン王子である。
 天高く振り上げられた王子の剣が、まっすぐ前方へと突き出さ
れる。それを合図に、一斉に矢が射放された。射撃後の突撃は、
カルムの軽騎兵が敵を素早く撃破するために採る戦法である。騎
兵達は身軽に得物を持ち替え、バース騎兵へと襲いかかった。
 停止して戦う馬上の兵は、勢いに乗って突撃する騎馬の敵では
ない。想定していない後方からの攻撃を受けて、シャール公の手
勢を苦しめていた敵の騎兵隊は、瞬く間に潰乱した。


 ルーン王子の率いる騎馬群が、敵に向けて突進していた頃、戦
線の反対側ではカルム軍の左翼が切り裂かれつつあった。その状
態を招いたのは、王弟の一人が取った行動だった。
 両軍が本格的に衝突する直前、陰謀が空振りに終わった怒りか
ら先に醒めたのは、兄であるザンダの方だった。戦場に出た経験
のある彼には、前方から急進してくる敵の圧力は感じ取れる。暗
殺の密命を帯びていた小部隊を圧殺し、バース公国の軍勢は勢い
に乗っていた。
 わずかな狼狽を振り払ったザンダの口から、発せられた指示は
後退だった。眉根の寄った顔には、歪んだ笑みが浮かんでいる。
年長の王弟はとっさに、甥の殺害に失敗した埋め合わせとして、
弟を敵軍の手で葬ろうと考えたのである。一瞬の判断には、人の
本性が映し出される。
 応戦の構えを取っていた前線は、伝わった指示によって混乱に
陥ったが、ザンダは気にせずに馬に跨った。弟であるトゥホーク
の軍の後背に回ろうというのが、彼の企みだった。ついて来れな
い兵は、立っている場所でそれぞれ戦えばいい。もちろん、それ
はかなりの確率での死を意味していたが。
 ザンダの取った行動は、左翼側での戦況を決定づけた。急な撤
退の途上で敵の突撃を受け止めるザンダの部隊だけでなく、隣接
して布陣していたトゥホーク配下の兵達も、友軍が退いていくの
を見ては動揺するのが当然だった。
 バース軍の歩騎兵混合部隊は、浮き足だった歩兵に対して最も
有効な戦力となる。衝突と同時に、騎馬がカルムの陣を切り裂き、
惑う兵が続く歩兵の餌食となる。バースの騎兵はそのまま突入し
てかき回し、歩兵の戦列は連係を崩さずにカルム兵を屠っていく。
左翼の一段目は、あっさりと潰乱した。
 トゥホークの本陣は、二段目中央の後方に位置している。戦況
を報せにきた伝令に、肥満体の王弟は怒鳴りつけた。持ちこたえ
させろと。指示を抱いて取って返した伝兵が敵に押し包まれるま
でには、ごくわずかの時間しか要さなかった。剣戟の奏でる調べ
は、トゥホークの在所へと近付いてきていたのである。
 勢いに乗ったバース勢は、これまた浮き足立っている第二陣を
も突き崩す。となれば、間近に見える王族の所在を示す濃紺の三
角旗は、甘い香りを放つ花に等しい。蜜蜂ならぬバース公国の騎
兵達は、手柄への欲望に追い立てられ、トゥホークのいる本陣へ
と突っ込んだ。
 防備を抜けてきた一騎が、獲物を見定める。血染めの騎士の前
に現れたのは、明るい金髪をした身なりのいい少年だった。ただ
の従士なら無視すべき存在だが、バースの騎兵は王族だと見たよ
うで、狙いを定める。四人のカルム兵を殺し、三人に重傷を負わ
せている戦士の見立ては正しかった。
 魅入られたように硬直している少年の細首に、馬上からの斬撃
が放たれる。刀身が吸い込まれたのは、しかし、少年の首筋にで
はなく、その父親の肉厚の背中にだった。飛び込んで息子をかば
ったのは、トゥホークの大柄な身体であった。
 護衛兵達が、王弟に傷を負わせた敵兵に前後から槍を閃かせる。
絶命した騎士が落馬する様を、目を見開いたままの少年が父親の
肩越しに眺めていた。
「クラン、おおクラン。無事か?」
 ほっそりとした少年の身体から、でっぷりとした父親が身を引
き離す。息子の顔を覗き込んだトゥホークは、明らかに息が荒い。
名を呼ばれた細身の少年は、小さく頷くのがやっとである。
「くっ、兄上め……。そして、ルーンの奴めが。クラン、この父
の無念を……」
 声に喘ぎが混じり、喉の奥から血が吐き出された。整った少年
の顔が、鮮血で紅く染まる。力と平衡感覚を失った王弟は、もは
や自重を支えられず、前のめりに倒れた。クランは、父の身体の
下敷きとなる。その重みを、意識を飛ばした少年は知覚していな
かった。
 またバースの騎兵が、本陣へと突入してくる。副官は、主君の
遺体と世継ぎの命を守るため、退却を叫んでいた。
 その頃までには、左方で後退中のザンダの軍も突き崩され、も
う一人の王弟も生命の危機に瀕していた。両王弟の軍勢が協調し、
真っ向から敵と衝突していたなら、互角に近い攻防となっていた
だろう。カルム軍の左翼は、今や全面的な崩壊の危機にあった。


 残兵の掃討はシャール公の隊に任せて、ルーン王子は軍勢を次
の敵へと向けた。いったん丘へと向かい、勢いをつけ直して敵の
歩兵軍団に突っ込む。この時点で、右翼にいた騎兵の生き残りも、
あらかたが彼の許に集まっている。馬蹄の響きが、冬の野を揺ら
した。
 突撃と共に、後方からは矢も射掛けられ、敵歩兵の混乱を誘っ
ていた。敵陣深くまで突進したのは、大剣を振るう顎髭の偉丈夫、
グロスである。剛剣が舞い踊ると、血飛沫が跳ね散る。
騎兵集団の一撃は、圧迫されていたミトルナ公とヴィット公の
軍勢を救った。痛撃を加えて、ルーンはまたあっさりと兵を退く。
後背からの急襲を受けた歩兵軍団には、王子の判断通り戦線を持
ちこたえるだけの余力はもはやない。シャール公の隊からも増援
が到着し、一気にカルムの軍勢が仕掛け、バース公国軍の左翼部
隊は敗走していく。
 ミトルナ公の配下には、マルトゥース以外にも有能な中級指揮
官が揃っている。戦局を見渡せる彼らは、逃げる敵への追撃より
も、中央への支援を優先させた。激戦地に、勢いに乗ったミトル
ナ公の軍勢が進出していく。
 ルーン指揮の騎兵集団が敵本陣へ迫ったところで、退却を命じ
る鐘の音が戦場に響いた。バース側の中央の部隊は闘いながら後
退していき、右翼の騎歩兵混合隊は、優勢であったために整然と
退く。横撃されるのを嫌って、カルムの中央軍を率いる将軍達は
追撃を控えさせた。勝敗は既に決し、敵を潰滅させる必要はなか
った。


 損害は大きかったが、侵攻してきた敵軍を敗走させたのだから、
明らかな勝利であった。勝敗を決定づけたのは、紛れもなくルー
ンの行動である。もしも、シックの騎兵部隊が遊兵となったまま
だったら、左翼の崩壊後に中央軍は横撃され、右翼も支援なしで
は持ちこたえられず、総崩れとなっていただろう。
 だが、功績を誇りづらい事情があった。王弟のトゥホークが討
ち死にし、ザンダも右足を失う重傷を負ったのである。完全に崩
された左翼が突破されなかったのは、ザンダの後退によって陣が
縦長になったためでしかない。本心から悼んだ人数の多寡はとも
かく、王族の戦死は重いものだった。
 ともあれ、戦後処理は滞りなく行われた。戦場に敵味方を弔う
ための一軍を残し、王子の一隊も含めた主力は国境まで進軍する。
各城市近くに抑えとして残されていた敵軍も、総て撤退を開始し
たようだ。
 敵の全軍が領外に出たのを見届けた後、最前線の砦で勇戦し、
周辺住民が避難する時を稼いだ守備兵達の遺体が鄭重に弔われた。
生き残ったごく少数の者には恩賞が、命を落とした者達の家族に
は更に手厚い見舞金が贈られる。
 遺族の悲しみは減らなくとも、酬いるのには充分な意味がある。
また、半ば焼け落ちた砦を改築する手筈もつけられ、完成までの
間、国軍の一部が駐留すると決まった。
 一連の処理が済まされ、軍主力が戦場に戻る頃には、敵味方の
死者の埋葬は済まされていた。味方の遺品は厳重に管理されるが、
敵の所持品は周辺住民が剥ぎ取るのに任される。むごい情景が生
じてしまうが、畑を荒らされたり、家を焼かれる者達への補償の
意味もあるのだった。
 同時に、被害を受けた地方では、租税の一部が免除されるだろ
う。近隣諸国の中にはこのようなとき、軍を動かした領主の負担
を穴埋めするため、逆に臨時徴集が行われるところもあるという。
カルムでは、そのような事態はまず考えられなかった。
 戦いの四日後、戦勝を収めた軍勢は王都ルイナへと帰還した。


 凱旋の際には、入城の前に将達が神殿に赴く慣わしとなってい
る。王都を見下ろす丘にある女神の住まいには、普段はあまり人
の姿はない。大抵の神事は、王宮に隣接した仮の神殿で行われる
ためである。
 参道の往路では、振り返ってはならないとされている。武官達
にも、その慣わしに背こうとする者はいなかった。集団の先頭に
いるルーンは、神官の歩みに合わせてゆっくりと進んでいく。
 丘の頂にある神殿は、元は城としての機能を持っていた王宮に
較べれば、こじんまりとした造りとなっている。けれど、麗しさ
では決して引けは取らなかった。いたずらに巨大さを誇る風習は、
この辺りには見られない。弓弧構造が多く用いられている点は、
王宮と同様だった。
 入り口には、神女役を務める黒髪の女児が立っていた。やや不
安そうな視線を向けてきていたが、ルーンが穏やかな笑みを投げ
ると、微かに顔を綻ばせて先導をはじめた。
 簡素な装飾のみの神殿内の雰囲気は、参拝する者の胸に安らぎ
を生じさせる。月の女神が、柔らかな視線を送ってきているため
だろうか。神服を来た少女は、軍の指揮者達を中央部の聖堂へと
誘導した。 
 王子の叔父達がこの場にいたなら、戦勝報告は彼らの役目とな
っていただろう。だが、王弟二人の姿はない。凱旋軍で唯一の王
族であるルーンが、女神との対話者に選ばれていた。
 そう決まるまでには、将軍達の間では一悶着があったようだ。
ルーン王子を推す声は、当初は小さかったようなのだが、一方で
国軍の誰かが務めるのも不都合である。やや仕方なくといった雰
囲気で、戦勝報告役は決定したのだった。
 神事が簡素であるのは、カルムでは自然なことと考えられてい
る。戦さを司る月の女神が、華美な儀式を喜ぶ筈がないというの
が理由だった。戦勝報告も、単に事実を伝えるのみで終了となる。
女神へ報せるよりも、王都に住む人々への伝達の方が華やかに行
われるのだった。
 
 市門がゆっくり開かれると、軍勢の行進がはじまる。先陣の栄
誉は、もっとも激しく戦い、戦闘を勝利に導いた者達に与えられ
る。今回は、異論の余地なくシックの騎兵部隊が選ばれていた。
風貌から誠実さがはっきりと読みとれる騎兵隊の長は、初陣の折
りよりも激しい緊張の中にいた。彼の乗馬の方が、主人の落ち着
きのなさを心配しているようでもある。騎兵隊を包む歓声は、大
きなものだった。
 幅広の大通りは、弓弧構造を連ねた飾り壁によって、東西に二
分割されている。ほぼ逆側を見通せるほどに空いた部分が多い壁
を挟み込むように、凱旋軍の行進は繰り広げられていた。
 市門と王宮正門の間には、二つの大きな門がある。王都ルイナ
の市街は、その門を中心とした壁によって三分割されているのだ
った。とはいっても、壁の各所に穴が穿たれていて、往来は可能
になっている。
前王家時代には、中央通りまで出なければ各市街の行き来はで
きなかったという。平時から防備に気を配るという側面もあった
ようだが、各門では通行料が徴収されてもいた。対して、現王家
の時代になってからは、往来は自由で、兵が配されているのも外
界との境である市門と、王宮への入り口となる王城正門だけとな
っている。
 市内の門は、上部へ登れる構造になっている。本来は見張りを
するためだが、現在は誰でも自由に上がり、王都ルイナを見渡せ
る。凱旋式が執り行われている今日は、各門の上部から色とりど
りの花が投げられていた。
 温暖なカルムでは、冬のこの時期でも花を集めるのは容易であ
る。王都の人々を代表する投げ手は、着飾った少女達が務めてい
る。準備された花が投げ上げられるたびに、通りの両側に集まっ
た群衆から歓声が生じた。
 ルーン王子は、国軍の将達と共に中程を進んでいる。声が掛か
るたびに、若い王族は笑顔で手を振っていた。そのようすを軽薄
だと捉える者は、少なくとも臣下の中にはいない。
 侵攻軍を撃退したという事実を前にして、王弟達の不在を気に
する民はいない。凱旋行進は、華やかな雰囲気の中で終えられた。
集まった群衆は、この後に供される料理や菓子を楽しみにしてい
る。全員に行き渡るわけではないが、出店も現れるために、王都
は祝祭のような空気に包まれるのだった。


 凱旋式を終えたくすんだ金髪の王子は、ひとりで王城の奥部へ
と向かっていた。宴の準備で華やかさに溢れているのは、王宮内
も同様である。けれど、ルーンが歩を進めるに従って、賑わいは
薄れ、徐々に静謐さへと置き換わっていく。
 かつて少年だった頃、父王と最後に対面した部屋が、ルーン王
子の目的地である。若い王族の素軽い足取りは、靴音を生じさせ
ない。香の残滓が漂う廊下には、柔らかな冷気がたゆたっていた。
 最後の曲がり角を折れたところで、視界に人影が入った。ぎら
つく視線が、くすんだ金髪の若者に絡みつく。ルーンの漠然とし
た予想通り、そこにいたのは宰相のラエルだった。
「ラエル殿、ただいま戦地より帰着しました。侵入してきたバー
スの軍勢は、撤退していきました」
「そのようですな。王族に死者が出るとは、痛ましい限りです」
「ええ、まったくですね」  
 ルーンは、本心から親族の死を悼んでいた。トゥホークは、王
子の毒殺を図り、ミアナを死に至らしめた人物である。けれど、
この世から抹消したいと願うほどには、彼は叔父を憎めていなか
った。
 軽やかな沈黙が、宰相と王子の間を通り抜ける。自らを落ち着
かせるためか、王子の指が着衣の胸の辺りを撫でていた。
「えーと、父上に戦勝報告を……」
「なりません。陛下は、それを望まれていません」
 またも想像通りの展開に、ルーンはちいさく息を吐いた。ラエ
ルの背丈は、未だ成長中の王子よりも低い。剣を持って対峙した
なら、相手を圧倒できる自信がある。だけれど、こうして王宮内
で向き合ってしまうと、かすかな気後れを感じてしまうのだった。
 ぎらつく眼光を恐れているわけではない。強いて胸中に理由を
探ると、自信の強さの違いなのかなと王子には思える。宰相の身
体からは、湧き出す強い意志が感じられる。それを上回るだけの
想いを抱かなければ、ラエルを押し切るのはむずかしそうだ。そ
う考えたルーンは、本人は自覚していなかったけれど、わずかな
悄然さを身に纏っていた。
 小さな礼をして、王子が反転する。と、ラエルの強い目つきに、
常にはない色合いが混じった。
「……ルーン王子」
 立ち止まったくすんだ金髪の若者が、半身だけ振り返る。顔立
ちの優しげな雰囲気は、少年期より増しているようでもあった。
「陛下から伝言を預かっています。……慢心せずに励めと」
 ルーンの口許に、うれしげな笑みが生じた。もう一つ会釈をし
て、王子は歩みを再開させた。その背中に、ラエルの強い視線が
投げかけられていた。


「レイ! ……じゃなかった、ルーン」
 居室で待っていたエレナが、帰着した王子を見つけて叫ぶ。立
ち上がった動作で、長い栗色の髪が揺らめいた。王子の部屋は、
ミアナがいなくなった今では、他の侍女達によって整えられてい
る。室内から暖かみが失せているように、ルーンには感じられて
いた。
「レイでもいいよ。ただいま」
 首を振った公女が、いきなり問い詰める。
「野兎を助けようとして殺されそうになったって、どういうこと
なの!」
「……えーっと。シノンか?」
 どうしてそんな話が伝わっているのかがわからなかったルーン
は、壁際で待機している信頼する部下に問いかけた。
「いえ、私ではありません。戦いが済んだ晩に、エームがなにや
ら手紙を書いていたようですな」
 副将格の青年が、にこやかに答える。名を挙げられたエームは、
諜報面を得意とする王子の配下である。濃茶の髪の若者は、いか
にもまじめそうな人物なのだが、幼い頃から諜者として務めてき
たために、様々な世事に通じていた。そのエームが公女についた
とすると、ただでさえ手強い相手が更に強力に……。
「どうなのよ。なんで戦場で兎を気にするの」
 エレナの瞳は真剣である。幼なじみに詰め寄られた王子は、思
わず一歩退いていた。
「そのー、戦場になりそうな場所に兎の子供が一匹迷い込んでい
て、しかも怪我をしてたみたいで、踏み潰されちゃうんじゃない
かなぁと思ったから……」
「あなたは、小なりとはいえ一軍の将なのよ。部下の人達の命ま
で含めて責任があるの。わかってる?」
「一応、わかってると思うんだけど……」
 救いを求めるように視線を向けられたシノンは、笑っているだ
けで介入しようとはしなかった。エームは、どうやら事実の一面
しか伝えなかったようである。
 真実は、穏やかそうな主君の言葉通りなのか、それとも側背か
ら弓を向けられたのに気づいていたのか。兎も矢も把握できてい
て、矢を避けるついでに兎も助けたというのなら、その判断力は
見事と言うしかない。本当に兎だけを見つめていたのなら、なに
かに守護された結果であるように思える。
 あの時、目を瞑ったシノンを除く者達は、一瞬前までルーンの
背中があった空間を、幾本もの矢が通過していくのを目撃してい
る。偶然だとしたら、あまりにもでき過ぎている。シノンは、亡
き黒髪の侍女の姿を想像していた。
 涙声になって追及を続けていたエレナの瞳が、ふと王子の懐中
で動く物体に吸い寄せられた。視線を追ってそれに気づいたルー
ンが、首許から服に手を入れる。現れたのは、手当ての施された
兎だった。王子の手の上で、髭をひくつかせる子兎が公女を見つ
めている。
「ばか……」
 泣き顔に笑みが混ざったエレナに対し、王子は野に放そうとし
たのだけれど、ずっと自分を見つめていて連れてくるしかなかっ
たのだと弁明していた。そんな主君の姿が、シノンには微笑まし
かった。