BREAST CANCER 2     2017・3・11

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乳がんの手術から1年。
私はここにいる。
この1年は、ただ目の前に起こること一つ一つについて行くのに精一杯で、

何が起こったのかを振り返る余裕などなかった。
私は今までとは違う時間を、必死に生きていた。

 

2016年のお正月、ふと過ぎった虫の知らせに心がざわつき、夫に人間ドックを勧めた。

そこで病気を発見。
2月、彼の入院中に私自身も、たまたま初めて受けた人間ドックで乳がんが見つかった。
こんな筋書き、シナリオに書かれた映画なら、余りにも出来すぎた展開だろう。

 

自分の時よりも、夫のがんが分かった時の方が衝撃的だったのは事実だ。
1月の下旬にNYにいる夫から電話で事態を知らされた時は、本当に頭が真っ白になった。

予感が当たってしまったことにショックを受けたが、悲嘆に暮れるよりも今は病院選びが先決だと、自分に落ち着くように何度も言い聞かせ、即座に動いた。
仕事で海外にいた夫に代わり、候補を3つの病院に絞り込み、色んな方々の意見を伺い、お医者様を紹介して頂き数日間の中で病院を決定した。
とにかく夫が帰国してすぐに病院に入れるように、すぐに治療を受けられるようにと、急ピッチで進めた。
この時に色んな方々に意見を伺えたのは、とても有り難く、皆さんが本当に親身になって下さったことに感謝だ。
しかし、夫の病院を決めたつもりが、そのまま自分の病院選びになっていたとは、その時は露程も考えてはいなかった。

 

乳がんと診断された時、私はドラマ「スペシャリスト」の撮影中だったこともあり、そこから手術までの期間は誰にも悟られずに撮影を続け、その間に手術に必要な検査を進めることだけに専念した。とにかく時間に追われ、無我夢中だった。

 

こうして夫婦二人が、共に早期で発見出来たことは、

何か目に見えない力に助けられ、生かされたとしか思えない。
生かされていることに意味があるはずだ。
心の中に、ただ静かに感謝の気持ちを絶やさず、
時を経て痛みや辛さが薄れていっても、畏敬の念を胸の奥底に持ち続けることだと思っている。


  
(手術翌日、廊下を歩きすぎて発熱)
乳がんが悪性だと判明した時は、3月11日の手術さえ上手く行けば全てが元通りになり、何の憂いもなくそれまでの自分の人生に戻れると信じていた。
しかし、手術のダメージは想像以上に私の身体にのし掛かってきた。
4月から稽古が始まる、舞台「パーマ屋スミレ」に照準を合わせ、手術を早めたものの、術後1ヶ月の仕事復帰はかなり無茶だった。
  

(2015年、2016年合わせて20回以上観劇)
無事に手術が済み退院から10日後、夫の舞台「王様と私」の再登板をどうしても観ておきたくて、主治医の先生の許可を得てNYに飛んだ。ここでも無茶をした。
仕事の調整無しで入院、手術ができたのも、元々はNYに同行するためにスケジュールを開けておいたからだった。
初年度2015年の稽古、本番時も、何度も東京NYを往復していたけれど、この術後の渡米はかなりきついものがあった。
夫の舞台を観る時以外は外出は控え、アパートで食事を作っているか休んでいるだけ。
それでも、初年度以上に成熟した舞台を実際に観ることができたのは大きな喜びだった。
やはり舞台は生きている。何回観ていたとしても、実際にその時に観ないと感動は得られない。
 

  
(仕事復帰会見)

帰国後、4月からは抗ホルモン剤フェマーラの服用と共に、自身の稽古が始まった。
薬との相性もあるが、私には毎朝飲む、このたった一粒の錠剤が精神面にも体力面にも大きな影響を及ぼした。
倦怠感が身体を包み、集中できない。それでも本番が刻一刻と迫ってくる。
乳がんを克服して社会復帰する元気な姿をお見せして、同じ病気で苦しんでいる人たちへエールを送りたいと言う気持ちがあっても、疲れやすく倦怠感が拭い去れない自分の身体に、自信が持てず苛立っていた。
そんな弱さは仕事場では決して見せられない。家族にも心配をかけたくないために、打ち明けられないでいた。
そんな不安の中でも舞台は待ってはくれない。ただ無我夢中で舞台に立っている間だけ、1日数時間だけ、生きていた気がする。
しかしそんな状態でも舞台に立てたのは、この「パーマ屋スミレ」の物語が私に底知れぬエネルギーを与えてくれたお陰でもある。
この辛いタイミングで出会うべくして出会った、「生きる」ことの喜怒哀楽全てが詰まった舞台だったからだ。
辛い人生でも、例え苦しいことが起こっても、不格好でも不器用でも生きているだけで人は美しいのだと、毎日ダイレクトに感じさせてくれた作品。
この作品に出会えたことに感謝したい。
 

 
(久しぶりの親子3人旅)

6月の半ばに無事舞台を終え、仕事が一段落したこともあり、夫と結婚10周年の記念にとバルセロナ旅行を企画した。これもまた無茶をして決行してしまったのかもしれない。
しかし敢えて楽しい時間を作らなければ、その後に待っている長い治療に耐えられないかもしれないという気持ちがあった。
7月から放射線治療や、3週間に一度のハーセプチン治療が始まると、もっと体調面が読めなくなるからだった。
20歳になった息子のお祝いも兼ねて、親子3人旅となった。
スペインの旅を発案したのは、念願のピカソのゲルニカとガウディの作品群を観るためでもあったが、夫婦共に初めて訪れる国にしたかったからだ。
バルセロナを拠点にマドリード、フィゲラスを10日間巡った。
旅先でテンションが上がっていても、毎日出歩いていると疲れが溜まり、少し頭がボンヤリもしていた。
それでも思い出の旅にしたかったので、一人でホテルで休んでいることはなかった。成人した息子を交えての家族旅も、おそらくこの先は余りないはずだ。無理をしてでも家族に歩調を合わせたかった。 
 




7月に入り、まずハーセプチンの投与が始まった。
初回は先生の説明通りに発熱があり、だるさは数日続いた。
2週間後には放射線治療が始まった。
土日以外は毎日病院に通い、放射線の照射を受けなくてはいけない。
日に日に放射線で黒ずんでいく右胸の変化を複雑な思いで見つめ続けた6週間だった。
相変わらず、薬の副作用で頭がボンヤリしていたが、これさえ乗り切ればきっと楽になり、再発もしないはずだと自分に言い聞かせ、かろうじて耐えていた。
唯一の息抜きは夫が避暑に行っていた山小屋に、数日合流できた時だけだった。
 


(結婚式に着たドレスを再び着て、ゲストにサプライズ)
7月下旬、二人の快気祝いと結婚10周年を兼ねて、いつもお世話になっているミクニシェフのお店でパーティーを開いた。随分と心配をかけた家族友人を50名ほど招いた。
結婚式で着たウェディングドレスを引っ張り出し、皆さんに笑って頂きながら、幸せを共有した。
母校が32年ぶりに甲子園出場を果たした時には、応援に駆けつけたのだが、その時は頭痛がひどく、軽い熱中症にでもなったのかと思っていた。

 

 (益城町の小児科で読み聞かせ)

8月、ずっと気になっていながら行くことが出来なかった被災地熊本へ、読み聞かせのボランティアで訪れた。自分が何の役にも立っていないことが、ずっと心に引っかかっていた。益城町などを回って直接色んな人たちに触れあえたことで、逆に元気を頂いた。


身体は益々重く、頭もはっきりしない状態が続いていたのに、無知な私はその原因が血圧にあることに気がついていなかった。
ある日、ハーセプチン投与前に計る血圧の数値が160台を超えていた。
普段は100を少し超える位なので、まさかこんなに高くなっているとは夢にも思っていなかった。あり得ない数値に驚き、計り直してみたが変わらない。
フェマーラと放射線、ハーセプチンの投与で、身体の中で何が起こっているのか不安なまま、血圧の数値の上昇で循環器科の診察を受けることに。
このまま高血圧が続くなら、薬で下げましょうとの診断だった。
薬で出た副作用を薬で抑えるのは、本末転倒ではないのかとの疑問が湧いた。

 

8月、パルコ劇場のファイナルに夫婦で「ラブレターズ」の朗読劇に出演。
気仙沼のK-portのオープン記念に1回限りということで上演したことで、ファイナルを飾る機会を頂いた。何度読んでも切なく涙が溢れる戯曲。出会う年代によっても、印象が変わる。またいつか出会いたい作品だ。


下旬に放射線治療が終わり、少し気持ちに余裕が出てきた私は、高血圧、体調不良の原因をきちんと自分で納得したいと、様々な治療法に関して、手当たり次第に文献を読み漁った。
それまで自分の中にあったのは、あくまでも標準治療で、セカンドオピニオンなど考える余裕など無かったのだ。
その間も3週間に一度はハーセプチンを投与、手足の痺れもあり、家では横になってばかりの日々だった。


そして9月5日、4回目の投与後に、とうとう病院で倒れてしまった。
ボンヤリした頭の中で、自分の身体が何処かに行ってしまうだろうかと考えていた。

 

私の乳がん手術は温存で行われた。全摘の可能性もあったので、形成外科でインプラントの準備もしていたのだが、幸いリンパへの転移もなかった。現在はがん細胞が無い状態だ。
しかし、乳がんは再発を抑えなければならない。そのための標準治療だったのだが、その間ずっと生きている実感が持てずに、標準という枠の中に閉じ込められていた。
自ら様々な治療法を知り、セカンドオピニオン、サードオピニオンを受け、Can友からの情報等を加味した結果、これ以上の薬は私の身体には不必要だという答えをようやく出せた。


主治医の髙橋麻衣子先生に相談させて頂くと、
「今の状態での決断なら、果歩さんの意見は尊重出来ます。そのかわり、引き続き検診は3ヶ月おきにきちんと受けて、人間ドックも毎年、何か服用する薬やサプリメントに関しても、報告してください。私の方でもチェック致します」
と言う、私の意見を受け入れた上でのバックアップを申し入れて下さった。
病院でのお立場や決まった治療法があるはずなのに、なんという柔軟な判断なのかと、驚きと感謝で胸が一杯になった。
標準治療から離れたいと医師に相談すると、それならどうぞ勝手にやってくださいと見放されることがあると聞いていただけに、これからもずっと診て下さるというお言葉は、何よりも私の勇気になった。

 

ハーセプチンとフェマーラを止めると、血圧も少しずつ下がり、現在は手足の痺れもゆっくりと収まってきた。何よりも頭が働くようになってきた。
秋にはドラマ「カインとアベル」にも出演し、12月には映画「Oh Lucy!」の撮影にも取り組めた。

 

(いつも真っ直ぐな瞳で見つめてくれる愛犬シャンティー)

そして2017年からは、家族の動きに合わせて仕事をスローペースに。
人生には色んな季節があり、時間の流れがある。
焦らず無理せず、今の自分に合ったペースで。
現在は代替療法、食事療法、トレーニングを組み合わせて、体調を整え再発を防ごうとしている。
自己判断が必ずしも良いとは限らない。しかし自分の身体の不調は自分にしか分からないことも確かだ。
命と向き合い、人生を見つめ直す時間をせっかく頂いたのだから、より良い方法を自ら探し進んで行くことが、今、自分が生かされている証なのでないかと思っている。
元気になったと皆に思って欲しいがために、無茶を無理をしてきた1年でもあった。
そこも反省点だ。
どうしても駄目な時、出来ない時は、ごめんなさいと言おう。
自分自身で、自分の身体を労ること。
本当に無理は禁物です。
 

3,11
この日は日本にとって、特別な日です。
私も幾度となく東北の被災地を訪れ、その度に不条理を感じ、やるせない気持ちになっていました。しかし、どんな状況の中でも生きようとする東北の皆さんの姿に直接触れ、人間は凄い生命力を持っているのだと教えて頂きました。
私の手術日3,11もまた、もうひとつの意味を私の人生に刻みました。
命には限りがあるということ。そして生きているだけで奇跡なんだということを、身をもって知りました。

 

この1年は「感謝」の年でした。
こうして私の通ってきた道など、決してお手本にはならない。しかしせめて1つの見本になればと、この1年を振り返ってみました。
まだまだ続く道だと思いますが、色んな方々に助けて頂き、アドバイスを頂き、がんサバイバー2年目も自分らしくゆっくり歩いて行きたいと思います。
まずは自分が幸せになること、そして周りを幸せにしていくこと。微力ながらもやっていきたいと思います。
皆さんも自分の身体を大切に、1年に1度は是非検診を受けてください。
それこそが自分を守ることになるのですから。

 

最後に、私を支え続けてくれた家族、友人、仕事仲間、病院関係者の皆様、ファンの皆様、Can友の皆様に、改めて心からの感謝の意を伝えたいと思います。

                                            

南 果歩