36年前の1988(昭和63)年3月13日、

青函トンネルが開通したんだよな。

それで青函連絡船が廃止になった。

でも、今日は3月14日。

45年前の1979前の春たけなわのこと。

当時のボクは、

その3年前に小説現代新人賞を受賞し、

幸いなことに長編小説を続けざまに書き下ろして、

作家専業になれたばかりだった。

 

ボクには懸案の小説の題材があった。

保険調査員をしていた29歳のとき、

今は北秋田市の内にあるが、

マタギの里で知られる当時の阿仁町の1集落を訪れた。

寡聞にしてマタギの里とは知らずに訪れた。

男達は出稼ぎ、

主婦達は子供が登校後、

幼児は園に預け近くの工場へパートで働きに出る。

そういう時代だったので、

集落の昼間は人気がなかった。

暖かい日だったから、

多くの家が戸を開放していたので、

土間に直接入ることができた。

土間から声をかけても誰も出てこない家が続いて、

この家で終わりにして引き上げようとした家は大きく、

土間から炉を切った板敷きの間も広かった。

炉の周りにはツキノワグマのものと思われる

黒い毛皮が敷き詰められ、

壁には他の動物の毛皮がかけてあった。

猟銃も2丁かけてあった。

ボクには異様な光景で、

それに目を奪われながら、

「ごめ~んくださ~い!」と連呼していると、

70歳前後の男性が現れて、

「何用ぞ?」と問うた。

本当はこの集落の近くで事故死した人の状況を聞き込みにきたので、

それを言うべきだった。

「このお家は何の仕事をしているんですか?」

ボクはそう訊いた。

「マタギのシカリの家だ」

シカリは頭領の意だったが、

ボクにとっては初めて聞くことばだった。

そのシカリの話を聞くのがとても痛快で、

3時間ぐらいがあっという間に経った。

日に数本しかないバスの便がなくなるので、

後ろ髪引かれる思いで辞した。

とうとう仕事の話はしなかったよ。

作家志望が芽生えた時期でもあったので、

この老シカリの話は強く印象に残った。

いつか再訪しようと思った。

 

そうして再訪の日が訪れた。

秋田北部の山里に残雪が残る1979年の春、

訪れようとした懐かしい集落に行こうとしたが、

そんな格好じゃ無理だと阿仁の街の人に言われ、

とっくに閉山した阿仁銅山の資料などを調べて回った。

それから気が向いて青森に出て、

青函連絡船で北海道にいくことにした。

北海道へはすでに数回、空路で訪れていた。

ボクの父は工事畑の旧国鉄職員で、

定年を待たずに国鉄直系の工事会社に移籍した。

ボクが中学1年の頃は北海道に長期出張し、

戻ってくると青函連絡船の話をよくしてくれた。

「津軽海峡は向こうへ渡るときが寂しいんだよ。

 何度渡ってもな」

ヒグマの話もしてくれた。

ヒグマが山から下りてくると、

現地採用の人々はみな家へ戻ってしまうので、

仕事にならないという。

逃げ帰るのではなくて、

猟銃を取りにいって狩猟団を編成しヒグマを仕留める。

ということで父も丸腰でついていった。

300キロ以上のヒグマを仕留める現場に居合わせた。

そんな話を聞いていたので、

それから数年後に洞爺丸事件が起きたときは、

修学旅行の児童生徒が多く乗船していて遭難しただけに、

身につまされた。

ところで、

せっかく青森まで出たのに、

連絡船には乗船しなかった。

風邪で発熱し青森のホテルで休養し、

翌日帰京した。

この年の秋頃から父は体調を崩し、

ボクら家族には肺がんで余命3ヶ月と告げられた。

ボクは予定より早くマタギの物語を書き始めた。

翌1980年3月初めには書き上がり、

版元に原稿を渡した。

父は3ヶ月以上過ぎたのに元気だった。

5月、その小説は「黄色い牙」というタイトルで刊行された。

父は我が家の病室で読んでくれ感動してくれた。

7月、「黄色い牙」は直木賞を受賞した。

父は衰弱していたが、

朝刊を自分で取りにいった。

秋の訪れと共に父は旅だった。

 

1988年3月14日、

ボクは午前中に締め切りのエッセイを書き上げ、

思い立って北海道に行くことにした。

津軽海峡を連絡船で渡ってみたい。

青森までは寝台特急、つまり、ブルートレインで。

あれこれ準備していると、

電話が鳴ったので出ると出版社の人だった。

思い立っての旅の話をすると、

「青函連絡船は昨日で終わっていますよ」

と、笑われた。

青函連絡船に乗りたい気持ちが先行して、

知っていたのについ失念していた。

ということで父が言った

「津軽海峡は向こうへ渡るときが寂しい」

という体験は、

ボクにはもう縁がないものになった。