職を転々の人生になった20代後半のこと。

当時の親友MがI温泉に行こうと誘ってくれた。

招待券みたいなのが当たって、

「今日これから温泉に行こう」

と大変急な誘いだった。

僕は交通費だけでいいんだと言う。

初め断った。

明くる日の午後5時から面接があった。

生命保険会社数社から調査の委託を受けている調査会社で、

仕事内容に興味があった。

これをスルーするわけにはいかないが、折角のお誘いだ。

翌朝早めに宿を出ればいいか、

と軽く考えてOKした。

I温泉は山梨県にある新興の湯だ。

行きは快適だった。

この2,3年前に新宿・松本間で運航を始めた特急あずさに乗り、

甲府で降りた。

2人だから割り勘でタクシーで行こうということになり、

グズグズした時間を含めても、

新宿を出て3時間以内で宿に着いたことを覚えている。

ほとんど透明で熱めで湯質はよかった。

Mはほどほどの飲んべえで、

僕は飲むときには大いに飲むタイプだった。

Mは本当に温泉好きで夕食前に一緒に入ったのに、

夕食をとる前に更に自分だけ湯に行った。

火照った顔で日本酒を飲み料理をつまみ、

ポッポッと火炎を噴きそうな顔になった。

それからまた湯に入りにいった。

僕は2時間ほど居眠りのように眠り、

起きてみるとMはソファに崩れて寝ていた。

露天風呂に入りスッキリしよう、

と部屋を出てブラブラ向かった。

平日の客だったので、

深夜の露天風呂に先客はいなかった。

振り仰ぐと湯煙りに淡く輝きを変えながら、

満天に星が瞬いていた。

つい気を許して、

♪街の夜更けをただひとり~

 君と別れてただひとり~

と、アキラのズンドコ節を歌い出したのよ。

♪ズンズン ズンドコ

と、Mが露天風呂に入ってきたのには驚いた。

Mは首まで浸かるとすぐに躍り上がり、

キャッホーとか叫び、

また首まで浸かり躍り上がり、

アアーアーとか雄叫びを挙げた。

それを繰り返した。

年配の女性従業員が現れて、

「お静かに願います!」

と、実に不機嫌な声で僕らを叱った。

翌朝、朝湯に出かけた。

Mは静かに朝湯に浸かっていた。

朝食をすませると、

Mはまた湯へ行った。

僕はイライラして彼を待った。

面接は午後5時、場所は都内だったが、

時間がどんどん経っていく。

「先に行くので、お酒の料金はM君から頂いてください」

2,3度、宿の人に言いかけて、こらえていると、

Mは顔の皮膚を赤くテカテカ光らせて戻ってきた。

宿を出たのは11時に近かった。

「途中まで送るよ。おれはそのあと気が向くままに観光するから」

ということで、少しブラブラ歩いたが、

いきなり、Mの両手が僕の左腕をガッシリ掴んだ。

「ここは立ち寄りもできるらしいぞ。おい、入っていこう」

冗談ではないと思ったが、

「面接は夕方の5時からだろ? 大丈夫、大丈夫」

と、Mは僕をグイグイ引っ張っていく。

(いいか、まだ時間あるから)

軟弱な僕はカラスの行水のつもりでいたが、

Mは湯船に根を生やしたように微動だにせず、

英語の歌を口ずさんでいた。

僕はイライラを募らせた。

あずさは1日2本の運航で時間がうまく合わない。

従来からある急行か、鈍行で帰るしかない。

「おれ、先に帰るからな」

僕は湯から上がり身支度をした。

タクシーを呼ぼうとしたときに、

激しい便意を覚えた。

昨日一昨日と排便していなかった。

トイレで用を足した。

大蛇みたいのが2本半出ていた。

水を流すと、

詰まってしまって水位が徐々に上がってくる。

あふれないようにと必死に祈ったよ。

水位はスレスレのところで停止し、

このままスットボケて立ち寄りの湯から去ろうと思った。

でも、Mに迷惑がかかる。

宿の人に事情を話した。

宿の人は後のことは心配しないでと言って、

タクシーを呼んでくれた。

甲府駅南口までいくらだったかなあ。

今は3000円ぐらいだろ。

気が急いていたせいで鈍行に乗ってしまった。

だいぶ乗って停車した駅で、

急行に乗り換えたが、

停車駅での停車時間がとても長く感じた。

気が焦るほど、

列車が遅く感じられた。

 

結論から言うと、

面接時間に30分ほど遅れた。

ただ、前の人達の面接時間が延びたお陰で、

面接そのものに支障は来さなかった。

僕は採用になり保険調査員になった。

この時期の様々な経験に刺激されて、

作家志望が芽生えた。

この翌年、処女作を某小説新人賞に応募した。

それは2次予選止まりだったが、

7年後、小説G新人賞を受賞することができた。

あんなに焦った日はなかったな。

焦ってもいいことはない、

僕がジックリ構えるようになったのは、

そのときの焦りの残滓が

反面教師になっているせいかも知れない。