やはり、ドイツのほうが上だな、

という印象を抱いた。

5歳のときに聞いた亡父のつぶやきが思い起こされたからだ。

新聞でドイツの降伏を知り、思わず僕を見た。

「これで日本はもう駄目だな」

当時5歳の僕に、

無論、その意味は分からなかった。

後年、亡父はドイツ頼みをしていた1人だったことを思い知った。

戦後、亡父も含め亡父の世代(当時40代)の多くは知らんぷりをしたが、

ヒトラードイツを礼賛していたという事実がある。

亡父のような人達の考え方が

偏っていたわけではない。

時局という魔性のせいだった。

 

1940年9月下旬、

日独伊三国軍事同盟が成立した。

その月の上旬、

ヒトラードイツはロンドンを中心とする

イギリス本土大空襲から撤退していた。

その都度の喪失機数が多数にのぼり、

イギリス海軍も健在で、

イギリス本土上陸作戦は難しい、

という判断からだった。

すでにヒトラーは旧ソ連のある東に熱い視線を注いでいた。

日本が太平洋でアメリカと対峙状態にある以上、

アメリカはヨーロッパ戦線に参戦しづらい。

その間にソ連を片づける。

それがヒトラーの目論見だったろう。

ドイツは空陸一体の大規模電撃作戦を展開し、

旧ソ連に侵攻した。

ヒトラードイツは短時日のうちに、

旧ソ連の奥深くに侵攻した。

モスクワ占領も視野に入った。

この情勢をみて当時の日本のメディアは、

ヒトラーとナチスドイツ礼賛に狂奔した。

亡父の世代だけではない。

老いも若きもそれに踊った。

当時、15歳だった旧制商業学校生の兄の本箱に、

当時の日本でもベストセラーズになった

ヒトラー著の「わが闘争」があった。

それを戦後に小学生になった僕は、

読繰り返し手に取っている繰り返し手に取っている。

 

ドイツ軍は最初の冬将軍の洗礼を受け辟易した。

後退一方から態勢を立て直し人海戦術を敢行する

スターリン・ソ連の頑強な抵抗に遭い、

モスクワ攻略を諦め、

要衝のスターリングラード(ボルガグラード)の攻略に転じた。

それこそが墓穴に入ることだったが、

150日前後のスターリングラード攻防戦の始まりだった。

大本営の報道統制下にあっての記事造りだったので、

メディアは当然ながら同盟国ドイツに有利な記事を載せ、

相変わらずのヒトラー礼賛だった。

そうして12月8日、

日本は真珠湾を急襲する。

アメリカにとっては待ってました、

だったろう。

ヒトラードイツの宣戦布告を受けて、

アメリカは主敵をドイツに絞り、

太平洋ではジックリ戦う姿勢を見せた。

スターリングラード攻防戦は冬期に入り、

ソ連軍有利に展開し翌年の春の訪れを待てずに、

ドイツ軍は降伏に追い込まれた。

この降伏はヒトラードイツの崩壊につながる敗着の一手だった。

それで焦ったのも一因か、

日本の連合艦隊はミッドウェー海で海戦を挑み、

ほとんどが真珠湾で損失を免れた艦船だけで迎え撃った

アメリカ海軍に敗れ、

虎の子の空母を一挙に4隻も失うのだ。

日本は開戦たった半年にして、

太平洋戦争の敗着につながる手を打ってしまった。

それでも独ソ戦線全体で敗勢が濃厚になったドイツ頼みで、

亡父の世代を中心に日本国民はまだヒトラーの魔力を信じていた。

だが、ドイツ軍が雪崩を打って撤退を始めた頃には、

日本のヒトラー神話もガラガラ崩れだした。

「これで日本はもう駄目だな」

ドイツ降伏時の亡父のつぶやきは時局がもつ魔性に操られ、

ヒトラードイツと組んだから充分勝負になる、

という悪夢から醒めた瞬間のことだった。

 

亡父の世代は第2次世界大戦が始まる以前から、

ドイツの科学力は凄い、

ドイツ人は勤勉だ、

ことあれば一致団結する、

などのドイツに対する高評価があった。

戦後、東西ドイツに分割されたが、

西ドイツは奇跡の復興を遂げた。

日本の特出した経済成長もあって、

日本ではあまり目立たなかったが、

日本が長い氷河期には入ると、

統一ドイツはジワジワと経済成長を加速させた。

気がつけば日本を抜いて世界第3位。

ウクライナ戦争がウクライナ不利に傾いて、

ドイツは軍備の増強に踏み切ったという。

ウクライナが敗戦すれば、

ロシアはポーランドの中立国化を目指すだろう。

ドイツは危機感を高める。

アメリカでトランプ大統領が再登場すれば、

前任時代よりアメリカファーストを貫くに違いない。

独露は再びポーランドを分割し、

お互いの緩衝地帯にする挙に出ないとも限らない。

日本はどうするか。

そこで僕の足は止まる。

「日本はもう駄目だな」

僕の息子の世代が10年15年後に、

そういうつぶやきを発することがないよう切に祈りたい。

 

※ 出征前の兄の写真。1945年8月23日夜半、

  旧満州(現在の中国東北部)で旧ソ連軍と交戦して戦死。満20歳。