まだ途中なのだが植村さんの
インタビュー記事が産経で連載されている

最初の方は「なるほど~そういうこと
だったのか~」「あ、そうなんだ」という
感じで読んでいたいたのだが…

7回まで読んでくるとさすがに厭きてきた


インタビューの内容は
産経新聞の過去の記事内容に関して
これはそういう意味ではない。
私はそういう風に書いてない。
という主張を述べ

さらに、産経の当時の記事に関しても
私がツッコまれてる内容と同じような
言葉遣いや方向性があるでしょ
と述べる。

この二つで進行される

時々、本来のインタビュー形式に
なるのだが、その時は植村さんは
「 それはわからない 」
「 そういう意図で書いてない 」
という意味の事しか言わない。


彼、もしくは彼らは
さっぱりわかっていないようだ。

図形を合わせる問題で、答えの欄に
「 ある閉じた図形 」が
書いてあったとする。

産経さんはそれを〇だと認知して
「ここに入るのは丸では無い!」
と主張する。


植村さんはディテールを崩して

「いや〇なんて書いてない、
 ギザギザした多角形を書いたんだ!」

と主張している。

確かに読者にディテールを主張するのは
大切な事だろう。

だが、一般論的にも数学的にも
認知科学的にも

「結局、意図は同じである」

例えば数字の0を書いたとき
正確に閉じてないときがある。
でもみんなそれが 0 だと
分かる。

山手線は丸の形には廻ってないが
丸だとみんな認知している。

数学的にも〇も閉じた多角形も
同相である。

認知科学的に
豆腐は正確に四角ではないが
四角だと認知している

つまり、読者からすれば
「日本軍が何も知らない韓国人の
 女性を従軍慰安婦として連れてった」
という風に認知されるのだ。

「日本は悪いやつらだ!」
と言ってる事には変わらんのでしょ?
と認知される。


例えばぐにゃぐにゃした図形があったとする

植村さんはそれを、
「ほら、ここにはとんがってる、
 ほら、ここに谷がある、
 つまりこれは多角形だ!」

産経さんは
「いやいや、これは多角形という
 よりは〇、円に近い
 大体あんた、〇のつもりで描いただろ?」

認知的にどちらになるかという事を
言い争っている。

実に不毛なインタビューである。

いや、結局〇と同相である図形を
言い訳がましく、〇じゃないって
いってるじゃん!と喚いてる姿は
植村氏にとってマイナスになった
に違いない・・・