今日は午後早くから雨が降り出し、なんとも寒い一日となりました。でもカドベヤは大盛況。ディスカッションリーダーの松岡尚文さんの導きで15名の参加者が「問い」を通じて自分自分のアートを語り合いました。
まずは、今回のワークショップの概要を松岡さんがまとめてくださいました。
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このワークショップの「問いから始めるアート」というタイトルは、アートは答えより問いが大事という観点から付けました。アートは答えが一つではないから自由であり、素晴らしいとも言えます。
私たちが生きている社会では答えが一つということはありません。でも、多くの人がアートに答えだけを求めたがり、現代アートは良く分からないから、答えが分からないから面白くないと誤解されたりしています。そうではなく、良く分からないから面白いのです。そして、「問う」という行為は鑑賞者が受け身ではなく主体的に作品に関わるということでもあり、そのことによって作品と鑑賞者との双方向性が生れ、作品の本当の素晴らしさ、リアリティを感じるきっかけにもなります。
今回は「アートとは何か」というテーマでレジュメを配布し、日常の延長からもアートを考える形でワークショップを行い、以下についての話をしました。
・アートとは何なのか。アートは定義できるのか
(芸術、美術という言葉は明治初期に外国語のアートから翻訳された言葉であり、時代とともにアートの定義は更新されている)
・様々な分野でアート的と考えられることについて
・物なのか事なのか
・アートの場、キュレーションについて
・作品の構成要素 (素材×技術×コンセプト)
・作品と鑑賞者の関係性 (作品は単独ではなく鑑賞者との双方性によって成立する)
・アートは役に立つのか
・アーティストとは
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もう少し詳しく今日の内容を見ていきます。
まずは7時の開始前にアイスブレーク的に、皆さんから、最近これはアートだなと思ったことを、それぞれ話してもらいました。
本当にいろいろな意見が出ました。
良い天気の中で洗濯物が揺れている様子
夕日にシルエットが浮かび上がる景色
お弁当の飾りつけのインスタ画面
ディオールの服などのファッション
ギャラリーの飾りつけ
最近みた映画「ボーは恐れている」(色々な解釈が可能とのこと)
ゲームの世界も本当に芸術的になっている
カドベヤの空間
アートとは西洋文化から来たものじゃないか
人がびびっと感じるもの
純喫茶
人の生き様
押し出すもの、表現する(expressとは、外に(ex) 押す(press)するという意味)
語源を調べたら、このpressとは、もともと絞り出すの意味だったみたいです。
人とつながる術(すべ)
生きること
人生
踊り
料理
などなど。
アートとは、という問いには、決まった答えはなく、「自分がアート」と思ったものがアートなのだ、という方がたくさんいらしたし、話し合いが進んでいくと、だんだんと自分の中のアートの形に気がついて、「自分の中の内部爆発なんだと思う」というアーティストの方もいらっしゃいました。そう、岡本太郎も「芸術は爆発だ」と言っていましたね。
それぞれの方のアートに対する捉え方が予想外に範囲が広く、皆さん日常の延長でアートを感じている。
また、皆さんに共通していたのは、アートは物だけではなく事もアートと考えていたことです。
ある体験をして、何か電気のように自分の中に稲妻が走り、何かが変わったという瞬間。この言葉には、多くの方が、「あるある」とうなづいていらっしゃいました。芸術ではなくとも、何か自分の中の無意識の部分が大きく揺り動かされる瞬間。それはほかの人達にはなかなか説明しづらい。でもそれもその人にとっての大きな「アート」や創造の瞬間なのでしょう。
今回は参加者の人数も多く、話もとても活発だったので、1時間では足りないほどでした。この松岡さんの回はあと2回続けていきますので、皆さんも自由にご参加くださいね。
今回の話の中では「カドベヤはアートか」ということも話題になりました。一番最初の「何がアートか」の中で今回初めて参加してくださったOさんが「カドベヤにはじめてきて、最初はほとんど人がいなかった。どうなるのかなと思っていたら、だんだん人が集まり始めて、何か形を成していく。この光景がアートなんだと思った」とおっしゃってくださったことは、今日の私の心の中に不思議に落ち着きました。そして、カドベヤでは料理だってアートなんだと言ってくれたのは、久しぶりに来てくれた姫。
カドベヤは毎回来てくれる人によっていろいろな絵ができるのですが、毎回そこにある要素(人や物)に様々な要素が積み重なってどんどん絵が出来上がる。遅く来た人もちゃんと居場所があって絵の重要な要素となる。その一つ一つの要素が支えあって、どこか額縁の外にしかいることができないような場面はない。でもいつもうまくいくわけじゃない。毎週やっているから、うまくいくときもうまくいかないときもある。要素と要素がぶつかってしまうときもある。色と色、形と形がぶつかるようなもの。でもそこからまた何かが動くかも。居場所ってそんなものかもしれません。
今日久しぶりに来てくれた昔のメンバーも新しいメンバーと自然に言葉を交わしている。この光景はちょっぴり不思議です。
今日ここに来ることができない小宮さんの代わりには、小宮さんに似ているなと思った黄色い花が場所をしめてくれているし、長澤さんが描いてくれた小宮さんが相変わらずみんなを見守ってくれている。大切な要素がないとなると、誰かがちゃんとその人を思わせるものを用意してくれる。いないからますますその存在が大きくなる。それもまた想像のなせる業なんだと思います。
松岡さんが、アートとは、素材と作る人と見る人の協働の作業だとおっしゃったのですが、その通りです。いない人への思いはいる人よりも強かったりする。
「鑑賞」という言葉は英語にはぴったりのものがありません。あえて言うのならappreciateとかenjoyになる。カドベヤのアートは松岡さんも示唆していらっしゃるけれど、「鑑賞」ではなく「干渉」なんだと思う。距離を置いてみて、一方的に楽しむではなく、かかわりあうこと。
この人とはあわないなと思っても、とりあえず一緒にいてみると、なんとなく良さがわかって、干渉したくなる。
いない人も嫌というほど私たちの心の中に干渉してくる。だからこそ、いない人にどうにかしてたどり着きたいと思う。
この干渉の道が閉ざされること。このことほど、アートを殺すものはない。少なくとも病院にいる小宮さんに感染症対策のために会えない私たちはつながる術をなくすまいとあれやこれや工夫する。小さなことだけれど、それもまた、アクティビストのアートなんだと信じています。だからアートは私たちをつなげる手段だし、つながろうとする術を見つける行動です。
そんなことを鬱々考えながら過ごした「問い」の時間でした。とがってしまっている気持を加賀さんのご飯がやさしく癒してくれる。今日は庭田さんがお休みなので、その分を長澤さんとさやかさんがこれもまたサポートしてくれた。
おいしいものを食べることはリセットでもあるし、「問い」をいったん横に置いて、新しい一歩を踏み出すことでもある。ネガティブ・ケイパビリティ。わからないものはわからない。だからそのままわからないままに受け止める。
今日のご飯はそんなリセットのご飯でした。
さあ、料理のアートを「鑑賞」する時間。素材が目の前で作り手によってどんどん変わる瞬間。
・虹色畑からもらった大根は何とも優しいふろふきだいこんになった
・順子さんの持ってきて下った大根餅は台湾のご友人の愛情の表現
お味噌汁のだしを取った鰹節と、だいこんと人参を甘酢和えにした一品は口の中で優しくとろける
・小宮さんが大好きな炊き込みご飯は、加賀さんのやさしさで、お肉を食べない方のためにも野菜だけのものも用意されました
・ほうれん草とおふのおいしい白みそ
・豆腐と牡蛎の煮込み。その場にたまたまあった要素同士の奇跡の邂逅なんちゃって!
・原田さんが虹色畑のご近所から持ってきてくださった大きな夏みかん
・トミーさんの差し入れの赤が美しいケーキ
・のんちゃんが持ってきてくれたその名も「暴々茶」!名前とは全く裏腹に、本当にやさしいお味の花の入った中国茶でした。
今日もお皿の上に大きな絵が描かれました。
食べることは鑑賞でもあり、究極の干渉でもあり、完食なのだ。
今日もこうして集まって一緒に食卓を囲めることの奇跡。
これもまた一つの絵なのです。
(よこやま)