(6)ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-):沈潜せる問いのための羅針盤(1969/70)
  ─ヴィオラと22人の奏者のための音楽


 ヘンツェはドイツの20世紀を代表する作曲家だが、戦後の「セリー学派」とは一線を画しており、その才能は大いに注目されていたもののどこか周縁的だった。ところがポスト・モダンの状況となって俄然輝いてきたような感じである。年老いても創作力旺盛で大作をものしている様である。2000年に完成された交響曲第10番も、老人の音楽の様相をみせず、あくまで精力的だ。
 ヘンツェという人の人物像はどうもよくわからないところがある。その原因は、 「音楽の手帖―武満徹 」の中に、武満と打楽器奏者のヤマシタツトムとの交流を描いたエッセイがあって、そこでやけに俗物的なヘンツェが描かれているのが、そもそもの偏見の始まりなのだ。ちょうど武満が「カシオペア」を、ヘンツェが「エル・シマロン」を、ヤマシタのために書いた頃の話で、酒に酔ったヘンツェが乱入してきて傍若無人に振る舞い、武満に「おまえもオペラを書け、儲かるぞ」てなことをいっている場面があるのだ。また、「エル・シマロン」の打楽器パートはほとんどヤマシタが書いてやったなどといったスキャンダラスなことも書かれている。ヘンツェはこの時期、キューバ革命に共感した交響曲第6番とか、この「エル・シマロン」など、左翼的なアンジュガマンの音楽を書いているのだが、こうした俗物的な姿とはちょっと結びつかない。しかし、こうした俗物の印象から解釈すると、音楽の世界でいくら左翼のポーズをしても食えなくなるわけじゃないので、単に時代に迎合して進歩的なポーズを取っただけとも読めるのだ。その証拠に最近じゃちっとも共産主義賛美なんかしていないというわけだ。
 他方、ヘンツェという人は第二次大戦後の音楽界をリードしたダルムシュタット音楽祭でセリエリズムが主流だった頃もそうした時流には流されず、無調的ではあってもセリエリズムには走らず頑なに自己流を通してきた人でもある。彼をドキュメントしたDVDをみると、彼は男性のパートナーと暮らしているホモセクシャルらしく、実生活でもアウトサイダーのようだ。まあ、人物と芸術の内容は必ずしも一致するわけではないのだが。
 この曲はヘンツェが最も政治化した時期(時代も最も政治化したのだが)の作品だが、これには政治的な含みはないようだ。「Compases para preguntas ensimismadas」というタイトルはスペイン語と思われ、「沈潜せる問いのためのリズム」あるいは「沈潜せる問いのための羅針盤」という訳になりそうだ。国内盤では「コンパス─内なる問いのリズム」という妙な訳になっていた。音楽だけにコンパスは「リズム」と訳したいところだが、「問いのためのコンパス(しかも複数形)」だから、「羅針盤」か、もっと意訳して「指針」とでも訳すのがいいのではないだろうか。自分自身に沈潜して問いかけられる疑問に対するいくつかの指針、と。
 曲はヴィオラの独白に他の楽器がからんでいくといったものだが、謎めいた印象をもたらす作品ではある。自分自身に問いかけ続けるヴィオラにオーケストラがいくつかの指針を示していく、のであろうか。作曲者自身による曲の解説も「この音楽は、瞬間的な気分とともに、小さな音符を手にしつづけるようなものである。弦の震動も、風の中でさらさらと音を立てる葉っぱに似ている。ここには書かれることのない手紙がある。何故ならその内容の本質は、音を通してのみ伝えられ、音は他の方法では現実化できないような、ある種のコミュニケーションを成しとげる」と何やらわかったようなわからないようなことが述べられている。同時期のヴァイオリン協奏曲第2番では独奏ヴァイオリンの他にテープによる種々雑多な音響や声とその変調まで用いられ、ピアノと管弦楽のための「トリスタン」ではやはりテープ音とともに過去の音楽の引用が用いられるなどこの頃のヘンツェは多義的な音楽空間を作り上げようと腐心していたように思われる。そういう耳でよく聴くと、この音楽も決してひとところに定位せず多彩に放散してゆくようなところがある。それをヴィオラ独奏が縫いとめてゆくようでいながら、そうはならない。奇妙な曲だ。
 「ヘンツェのヴィオラ協奏曲」などと書かれていることもあるが、この曲のことである。
 ディスクは深井碩章のヴィオラ、作曲者指揮のロンドン・シンフォニエッタによるものしかない。
 あと、作品目録によれば、ヘンツェにはヴィオラ・ソナタ(1979)もあるのだが、これは私の知るかぎり録音はない。



ヘンツェ(ハンス・ベルナー), ロンドン・シンフォニエッタ, 深井硯章, ベイトマン(ロバート), ヘンツェ, ラングパイン(ブレントン), エバンス(アラン)
ヘンツェ:コンパス「内なる問いのリズム」



Composers of Our Time: Memoirs of an Outsider

YouTubeに全曲アップされている。音のみ。



 また、断片のヴィデオがYouTubeにあるが、ほとんどソリストの深井碩章の顔が写っていない。