(54) ブレット・ディーン(1961-):ヴィオラ協奏曲(2005)

 最近聴いたばかりの曲を100選に入れるのもどうかと思いながら、しかしこれはよく書けているし、こうしたスタイルの曲でヴィオラ協奏曲というのはまあオリジナリティがあるのではないか。

 ディーンといったらジェイムズ・ディーン。でもヴィオラ好きなら知っている。ブレット・ディーンはベルリン・フィルのヴィオラ奏者。もう退団してしまったが。
 オーストラリア生まれで、生地で教育を受けた後、1984年にベルリンに渡って、ベルリン・フィルのヴィオラ奏者を15年間務めた。作曲を始めたのは1988年、最初はアレンジャーの仕事だったらしい。オランダ・ダンス劇場の《One of a Kind》、ユネスコの賞を得たクラリネット協奏曲《アリエルの音楽》で国際的な評価を得る。2000年からはオーストラリアに住んでフリーランスの作曲家として過ごしている。

 作曲者自身のコメントが、ヴィオラ奏者がヴィオラ協奏曲を書くということについてのアスペクトをも示していて興味深いので、翻訳してみよう。

 私はヴィオラのために書かれた音楽の多くが、いつも決まって、忙しく頑固な反抗、あるいは下手をすると粗野、の烙印と一体となったある特別なメランコリーの感覚で特徴付けられるという事実について、しばしば考えを巡らせてきた。われわれヴィオリストはある種の羨望とともにチャイコフスキイのヴァイオリン協奏曲の終曲の歓喜に満ちた自由奔放さ、ブラームスの協奏曲におけるヴァイオリンの入りの高尚な劇性、あるいはドヴォルジャークやエルガーのチェロ協奏曲の純で恰幅の広い壮麗さを見てきたかも知れないが、われわれはわれわれ自身の独特の声を持っており、それは強く人々に語りかけその心に触れる声でもあるのだ。
 おおむねそうした古典派やロマン派の傑作から遠ざけられ、ヴィオラ奏者は総じてヴァイオリンやチェロを弾く同僚たちよりもより強い情熱を持って20世紀や21世紀の音楽を受け入れる傾向にあった。
 さて、ヴィオラ独奏のレパートリーも疑いもなく喜びや活気のある陽性のエネルギーの瞬間を持つ。例えば、バルトークの協奏曲の終楽章とヒンデミットの《白鳥回し》は、民謡から霊感を受けた並外れた新鮮さと充実の声をヴィオラに与えている。しかしヴィオラの性格の真の精髄を見いだすならば、それらはおそらく標準ではなく例外である。
 そこで作曲家兼演奏家としてヴィオラ協奏曲の形式に新たに取り組む機会を得るということは無二の特権にして挑戦なのである。それはとりわけ私が選んだこの不思議に美しくどこかしら謎めいた楽器との私自身の関係への思いを私の心に満たす。自分自身のために協奏曲を書くという例外的に手の内にあるというこの直接性のために、それは音楽それ自体の働きについての考えを呼び起こし、私の他の多くの作品を特徴付ける、いかなる外的な標題的影響や物語からも私を遠ざけたのだ。
 ゆえにこの作品は直截にヴィオラ協奏曲と命名された。
 当初の設計というよりは偶然によって、この作品は伝統的な協奏曲の3楽章形態をとった。主たる第2・第3楽章を補完するために、私はある種の「情景設定」が必要と感じた。よってこの作品は、作品のいくつかの主要動機と楽器の色合いを管弦楽に導入し、ついには高く浮遊するカンティレーナの反応をソリストから引き出す繊細な音の世界である〈断章〉をもって開始される。
 〈断章〉はしかし管弦楽がより長い第2楽章の〈追求〉に落ち込む前の静寂の短い付随体に過ぎない。その名が示すようにそれは関係者一同の休みない騎行であり、今にも飛び込んできて発言の機会を得ようとするかのような管弦楽の潜在的な危険に立ち向かう、せき立てられた孤独な人物としてヴィオラ独奏を提示する。鳥の鳴き声に発想されたフラジオレットとC線の高音域の切望のカデンツァは追跡が再び始まる前の束の間の執行猶予である。
 これはギザギザの名技性とリズム的鋭利性の音楽、もしパウル・ヒンデミットがトム・ウェイツのバンドでプレイしていたら生ずるであろう類のハイブリッドである……
 この作品は〈ヴェールをかぶって、神秘的に〉で閉じられるが、この楽章は拡張された悲歌であり、ヴィオラはチェロ・ソロ群と弓奏打楽器による凍り付いた音響の上で徐々に開示される「嘆き歌」を歌う。突然の静寂と独奏声部の繊細な疑問符の一節のあと、ヴィオラの線は再び強度をまし、最後には管弦楽を行動へと目覚めさせると、管弦楽はヴィオラに取って代わって大規模な総奏部分が出現させ、作品を通しての諸陳述が坩堝へと投げ込まれ、荒涼とした部分と抒情的な部分が交替する。この素材の残渣からヴィオラ独奏の孤独な姿が慰撫と夢想の雰囲気のなか再び表面に現れる。オーボエとコーラングレの波状の旋律線に伴われ、ヴィオラはもはや悩まされることも追いかけられることもなく、われわれを平和な、もしかすると幾分両義的な結末へと誘う、中間楽章の鳥のようなハーモニクスとともに。
© Brett Dean, 2005

 ディーンは、ヴィオラのお定まりの表現に反旗を翻し、チャイコフスキイのヴァイオリン協奏曲やドヴォルジャークのチェロ協奏曲のような曲を目指したのかというと、そうではなく、ヴィオラのエスプリを自分なりに追求して、《ヴィオラ協奏曲》としか言いようのないものを目指したのだということになろう。トム・ウェイツのバンドで弾くヒンデミット、第2楽章もヒンデミット風を宿すソロと、モーダルなオケとの協奏はとても面白い。およそ彼のオケの扱いは、同世代のイギリスの作曲家たち、例えばマーク・アンソニー・タネジなどと共通した美学を持っているように思われる。
 全曲は25分強でさほど長い協奏曲ではないのだが、内容の広さでずいぶん大規模な曲に聞こえる。

 下記の2枚は同内容。上がシドニー交響楽団の自主レーベル、下がそれをBISが買い取ってインターナショナル・リリースしたもの。私の買ったのは上。ちょっとばかし安かったから。

Viola Concerto/Brett Dean

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Composer & Performer/Brett Dean

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