(53) アラン・ペッテション(1911-1980):ヴィオラ協奏曲(1979)

 「私の作品を形成する音楽は、私自身の人生そのもの、その祝福、その呪いであり、かつて魂によって歌われた歌をいまいちど見出す探求である」。
 よく引用されるペッテションの言葉である。

 スウェーデンの作曲家アラン・ペッテションは、多くが40~50分、時には70分の長さをもつ、単一楽章の長大な交響曲15曲(第1番と第17番は未完成)を主要な作品とする現代の重要な交響曲作家である。彼は不幸な生い立ちを持ち、長じてからは関節リウマチに悩まされるという苦難の人生を全うした。

 ペッテションはスウェーデンのユプランド地方のヴェストラ・リュドという村に生まれたが、一家はストックホルム南部のスラム街に引っ越した。鍛冶屋の父カは暴力的なアル中、子供らの見ている前でよく妻を殴った。貧しさのため音楽教育を受けることもできなかったペッテションは、12歳の時、アルバイトで貯めた金でヴァイオリンを買った。父親は自分だけ上流階級に行こうというのかとばかりにぶん殴る。しかしペッテションは父の無理解に抗して、ヴァイオリンを独習し、あらゆる機会をとらえては演奏し、1930年にはストックホルム王立音楽院に入学する。
 音楽院で九年間にを過ごし、1939年から50年まで、ストックホルム・コンサート協会管弦楽団(今日のストックホルム・フィルハーモニー)のヴィオラ奏者を務めた。また、1939年には賞を得て、パリでヴィオラの巨匠モーリス・ヴィユーのもとに留学する。彼は作曲家となるべくオーケストラ奏者をやめ、1951~53年には再びパリに留学し、オネゲルとルネ・レイボヴィッツに作曲を師事する。
 レイボヴィッツに師事しながら、彼は十二音技法からは距離をとり、独特の対位法的な音楽を追究し、上記のような交響曲を書き継いでいく。しかし1953年には関節リウマチの最初の徴候が現れ、以後の彼の人生はリウマチと闘いながらの創作となる。
 1980年に癌によって亡くなったとき、ペッテションは第16番までの15曲の交響曲と交響曲並みの規模のヴァイオリン協奏曲第2番を完成し、交響曲第17番の作曲に取りかかっていた。さらに遺稿の中からは、ヴィオラと管弦楽のための交響曲ともいわれるヴィオラ協奏曲が発見された。
 生涯の最後に自分の楽器のための協奏曲を密かに書いていたことを妻も知らなかったという。交響曲第5番以降、リウマチによる身体変形のため、満足にペンを持てず、恐らくスコア書きは妻がしていたのだが、では誰がヴィオラ協奏曲を筆記したのか、これは謎である。
 演奏に50分を要するヴァイオリン協奏曲第2番もほとんど交響曲のようだし、逆に交響曲第12番《広場の死者》はカンタータである。そうした意味ではペッテションのオーケストラ作品はすべてが交響曲であったといえる。ヴィオラ協奏曲もヴィオラと管弦楽のための交響曲といわれる実質を持つわけである。

 曲の途中を切り取ってきたかのような唐突な冒頭からヴィオラは苦渋に満ちた歌を終始歌い続ける。対位法的なオーケストラは止められぬ悲劇の進行を思わせる。苦悩、抗争、そしてそれだけ、というのがペッテションの音楽である。およそ30分間、苦悩と抗争が続き、曲はまた唐突に終わる。これは宇宙のどこかで永遠に鳴り続けている音楽を30分間だけ切り出してきたようなのだ。ペッテションの人生、その祝福、その呪い、そして魂の歌は永遠の宇宙のどこかで鳴り続けているのである。

 ディスクは今井信子盤がいまだに唯一のものである。ペッテション交響曲全集を完成したcpoがそのうちヴィオラ協奏曲の新録も出してくれると思うが。

Allan Petterson: Symphony No.5 Viola Concerto

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