(51) ジョルジョ・フェデリコ・ゲディーニ(1892-1965):ヴィオラ、ヴィオラ・ダモーレと管弦楽のための協奏音楽(1953)

 騙されてはいけない。ヴィオラ・ダモーレはヴィオラではない。だからといってヴィオラ・ダ・ガンバなどのヴィオール属に属するのでもなく、中近東の楽器からの影響のもと制作され、バロック後期から古典派の時代にかけて流行って廃れたものである。
 弦は6か7本、それに同数の共鳴弦が付くので、弦の総計は12本とか14本になる。調弦法はいろいろあるようだが、開放弦で鳴らすと和音になるような調弦をするようだ。
 まあ、そうはいってもヴィオラ奏者が弾いていることも多いので、ヴィオラみたいなもんだろうと思ってヴィヴァルディのヴィオラ・ダモーレ協奏曲なんかを聴くと、まるで音域が高くてヴィオラらしくなくてがっかりする。
 ヤナーチェクなんかは「愛のヴィオラ」という名前に惹かれて、弦楽四重奏曲のヴィオラ・パートにダモーレを持たせてみようとして断念したり、歌劇の中で使ったりしているが、音量が出なくて、近代的なオーケストラの中で使うのは難があるようだ。
 ヒンデミットの室内音楽第6番はヴィオラ・ダモーレ協奏曲でヒンデミット自身が弾いたようだが、やはりヴィオラとはちょっと違うという印象が否めない。
 ともかく、ヴィオラ・ダモーレは明らかにヴィオラじゃないんだから、ヴィオラ・ダモーレ曲はヴィオラ名曲選には居場所はないのである。

 ではなぜ、《ヴィオラ、ヴィオラ・ダモーレと管弦楽のための協奏音楽》なんてものを持ち出してくるのか。しかも二重協奏曲はヴィオラの名曲100には入れないとしているのに。

 ゲディーニはイタリア近代の作曲家で、マリピエロ、カセッラ、ピツェッティなどと同世代ということになるのだろう。トリノ・パルマ、ミラノの音楽院で教え、その門下にはルチアーノ・ベリオやクラウディオ・アバドがいる。音楽学者としてはルネサンス音楽の校訂で名を残しているのはマリピエロに似ている。
 しかしその作品は広く聴かれているとはいえず、語り手とピアノ三重奏と管弦楽のための《あほう鳥の協奏曲》がときどきディスク化される傍ら、あとは種々の曲の録音が散見される程度で、まとまった作品集はあまりないようだ。作品の全貌もよくわからないが、上述の同僚たちと比べると彼は10曲ほど歌劇を書いているのが大きな違いのようだ。しかし器楽曲も相当にある。

 ヴィオラ、ヴィオラ・ダモーレと管弦楽のための協奏音楽 Musica da concerto は、紛らわしいのだが、ヴィオラとヴィオラ・ダモーレのための二重協奏曲ではない。楽章が2つあって、第1楽章が「ヴィオラ」、第2楽章が「ヴィオラ・ダモーレ」、そう、持ち替えるのである。
 いささか調子外れの音の混じる弦楽合奏に、さらに調子を外してヴィオラがはいってくる。多調的ということになるか、いささかブルージーなニュアンスもある。錯綜したリズムの絡む早い部分が差し挟まれ、次に弦のトレモロ上をカデンツァ風にヴィオラが歌い、オケが推進的な音型を奏でてヴィオラを煽るといった具合に構造はかなりラプソディック。「ヴィオラ」楽章の終わりのほうではヴィオラがかなり低音域を開拓したあと上行する。
 「ヴィオラ・ダモーレ」楽章は40秒ほどオケのみの部分があるが、この間にソリストは楽器を持ち替えるのである。ダモーレはその前までヴィオラが開拓していた低音域音さらに下のあたりを周回しつつ、音域を上下に広げていく。そうなのだ、ここでのダモーレはあたかも「大きなヴィオラ」のように機能して、ヴィオラの音域を拡大していくのだ。これがヴィオラの名曲100に入れたかった理由。ゲディーニはダモーレをヴィオラの延長線上に捉えているのである。

 ブルーノ・ジュランナがソリストとしてのデビューで、カラヤン指揮のもと初演を担当したという。しかし、どうもその際にはヴィオラ・ダモーレは使わなかったらしいので、ヴィオラの音域にアレンジして弾いたのかも知れない。そのときの録音もあるらしいのだが、ヴィオラ・ダモーレを使用した初めての盤がここに紹介するメラ・テネンバウムがソロを弾いたものである。
 カップリングはチャーミングなシベリウスの《6つのフモレスケ》とゲディーニのヴァイオリン協奏曲《Il belprato》(このイタリア語の意味がわからない。地名だろうか)。

6 Humoresques / Concertos/Sibelius

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