(10)モートン・フェルドマン(1926-87):わが人生のヴィオラ
 
 I ─ヴィオラ、フルート、打楽器、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための(1970)
  II ─ヴィオラ、フルート、クラリネット、打楽器、チェレスタ、ヴァイオリン、チェロのための(1970)
  III ─ヴィオラとピアノのための(1970)
  IV─ヴィオラと管弦楽のための(1971)


 何とも思わせぶりなタイトルである。ザ・ヴィオラ・イン・マイ・ライフ。わが生涯のヴィオラ、わが人生のヴィオラ、わが生活のヴィオラ、いろいろに訳しえるが……。ひとまず、あまり大袈裟(生涯)にならず、また日常的(生活)にならずに、人生としておこう。
 フェルドマンは当初はポスト・ヴェーベルン的な寡黙で点描的、演奏時間も短い作品を書いていたが、やがて、「表面の音楽」と称して、寡黙で点描的ではあるが、反復が多く、延々と2時間とか4時間とか続く音楽を書いた。例えば、弦楽四重奏II、これは5時間前後続く弦楽四重奏曲。CDだと45枚組になるのだが、続けて聴けるようにその長さを1枚に収録したDVDすらあるほどなのだ。しかしこの長い曲もスコアの厚さはモーツァルトのジュピター交響曲と同じくらいなのだそうだ。反復が多いからである。ある一定のモティーフを数回繰り返して、次のモティーフに移るという構成で延々と続くのである。フェルドマンはまたジョン・ケージの影響を受けている。ケージが音を偶然のまま放り出し、あるがままに聞くように聴き手に求めた思想家なのだとすると、フェルドマンはそれをもう少し音楽らしい形にして提示したのだといえようか。彼は自分の音楽をペルシャ絨毯に譬えている。絨毯の模様は少しずつ変化していくが、全体を見通したからといって何か意味のある図形が浮かび上がってくるわけではない。フェルドマンの音楽も繰り返しが多く、音と音とのつながりが希薄で、その上、演奏時間も長く、全体を俯瞰することができない。聴き手は否応なく音そのものに耳を傾けるよりなくなる。
 そこまでくるとフェルドマンの音楽はとても美しいものになる。弦楽四重奏II、なかなか全曲通して聴くことなどできないが、私にとってはもっとも美しい曲のひとつだ。もっともその美しさは、バッハの半音階の峻厳な美しさとも、モーツァルトのフレーズの陰影を帯びた美しさとも、マーラーのアダージョの退廃的な美しさともまったく違う。音ひとつ、あるいは音の組み合わせ(和音ではなく)そのものの美しさなのである。次元の違う美なのだから、同じ尺度で測ることができない。同じ聴取態度では享受できず、新たな聴取の方法が要請されるのである。
 「わが人生のヴィオラ」は、そうしたフェルドマンの音楽の中でもとりたてて旋律的だといわれる。もちろん、ロマン派までの音楽の旋律とはわけが違うが、ヴィオラは旋律のような線を描いて移ろっていく。ヴィオラのゆっくりした途切れ途切れの歌に他の楽器が合いの手を入れるといった静謐な音楽。これ以上、曲の説明はなかなか難しい。
 そしてどこが、わが人生の、生涯の、生活のヴィオラなのであろうか。

 マレク・コンスタンティノヴィツのヴィオラ、チカダ・アンサンブル、ノルウェイ放送管弦楽団によるものが、いまのところ全4曲を録音した唯一の盤である。10分程度のIとII、およそ5分のIII、15分ほどのIVとすべて合わせても40分しか収録されていないCDである。
 また、室内楽編成のIとII、ピアノとのデュオのIII、管弦楽伴奏のIVと編成は変わっても曲の印象はまったく変わらないのがフェルドマンらしい。ボンヤリ聞いていると同じ編成で同じ曲がずっと続いているかのように聞き流してしまう。もっともIVがいちばん旋律的かも知れない。ヴィオラの呟きに対するオーケストラの応答も寡黙だけれど、さすがに色彩感は豊かで、そうね、人生ってこんな風にボソボソと呟いていると、周囲がいろんな反応を少しずつしてくれるものかも知れない。

Viola in My Life

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 IからIIIまでだと、初演者カレン・フィリップスが録音している。

Morton Feldman: The Viola in My Life

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 また、IVはEMFレーベルに録音がある。他にアンサンブル・ルシュルシェがIとII、デジャルダンがIIを入れている。

Voix d’ alto

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 フェルドマンにはもうひとつ、ヴィオラの曲がある。ヴィオラ、打楽器、チェレスタ、ソプラノ、アルト、混声合唱のための「ロスコー教会」であるが、デジャルダン盤にはこの曲も収録されている。