(34) 林光(1931-):ヴィオラ協奏曲「悲歌」(1995)
 ─ヴィオラと弦楽合奏のための

 日本人作曲家のヴィオラ作品は尾高賞受賞作ばかり取り上げているようだが、別に私は尾高賞に信を置いているわけではない。単に尾高賞受賞作はディスク化されやすいのだ。林光のヴィオラ協奏曲「悲歌」も尾高賞受賞作である。
 林光は初期には無調的な作品も書いたが、やがて社会参加的な姿勢を強め、バルトークの影響下に日本民謡に基づきつつ現代的である作曲を試み、オペラ・シアターこんにゃく座の座付き作曲家として、『セロ弾きのゴーシュ』などピアノ伴奏のもと西洋的な声楽の発声ではない地声で歌うオペラを多数書いた。作品としてはオペラと合唱曲や、彼が「ソング」とジャンルわけする歌が多い。半世紀にも及ぶキャリアの中で管弦楽曲はとても少ないのだ。
 ストラヴィンスキイはスタイルをさまざまに変えてカメレオン作曲家などといわれたが、林光にもその傾向なきにしもあらず。ただ、ストラヴィンスキイのようにある時期にあるスタイルというわけでもなく、作品毎にさまざまである。例えば、交響曲ト調(第1番:1953)はプロコフィエフなどソヴィエトの音楽の影響の感じられるもの。交響曲第2番「さまざまな歌」(1985)はピアノ独奏がはいる軽快な曲でルトスワフスキ的な管理された偶然性が使われていたり、自作のソングが主題となっていたり、ポストモダンである。交響曲第3番「八月の正午に太陽は……」(1990)はショスタコーヴィチ風の歌曲交響曲。そしてヴィオラ協奏曲はヤナーチェク風である。
 水戸室内管弦楽団の委嘱、今井信子をソリストと想定して作曲されたが、1995年、「阪神淡路大震災および狂信的な宗教集団による計画的無差別殺人」のただ中の作曲であった。ほぼ同じ長さの2つの楽章による30分。「悲歌」というのは上記の社会的事件と関係があり、とりわけ第2楽章を示しているようだ。
 まさに悲歌的なヴィオラのモノローグに弦楽が注釈していくような曲である。第1楽章の弦楽オケの扱いはしばしば短い動機を反復し、直ちにヤナーチェクを連想させる。曲はヴィオラのソロで始まり、それに答えるかのようにオケのピツィカートがはいってくる。ソロが若干の変奏を伴って繰り返されると、オケのピツィカートはまた別の応えをする。そしてまたソロのテーマ、さらに変化された形になって、カデンツァのような高揚から、オケのトレモロがソロを迎え撃つと、独白を続けるソロとヤナーチェク風の伴奏とが流れ出す。ソロとオケ、オケ・パート間の室内楽的な絡みが聴きどころ。だんだん、オーケストラもソロも激しさを増していき、最後は予想通りにヴィオラ・ソロがしばらく続く。コーダでオケが控えめに署名してこの楽章は終わる。
 第1楽章が「動」なら第2楽章は「静」ということになるのだろうが、それほど対照の強いものではない。弦楽オケの二音の反復、すなわち時計の振り子のような音型に乗って、ヴィオラがソロをとっていくのが印象的。「時計音型」はこの楽章に強迫的につきまとう。この音楽がいわば葬列のようなので「悲歌」と副題された。この年の多くの死者たちに祈りを捧げているようではある。中間部でやや明るい分散和音を旋律にしたような動機が出てくるが、これがとても美しい。後半では再び「葬列」の音楽が回帰するが、分散和音の動機が仄かに救いを保証するかのように光を射して終わる。
 長らくディスクは尾高賞受賞記念演奏会のライヴ盤だけであった。なんとクシシトフ・ペンデレツキ指揮のNHK交響楽団でソロが今井信子。もともと水戸室内管弦楽団用の曲なので、6-4-4-3-2という室内楽団編成の指定だが、交響楽団の弦楽セクションでの演奏を排除するものではないと付記されているものの、やはり、N響の演奏は多少とも鈍重な感じがする。
 新録が出た以上、こちらが決定版。今井信子が教鞭を執るスイスのティボール・ヴァルガ音楽院の学生たちを授業の一環としてトレーニングした弦楽合奏を、タカーチ四重奏団の初代第一ヴァイオリニストだったガボール・タカーチ-ナジが指揮する。もちろんヴィオラは今井信子。このセッションの様子は彼女の著書に描写されている。

祈り Blessing/今井信子
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 さらにもう1枚新手の登場。バシュメトのヴィオラ、ローマン・バラショフ指揮モスクワ・ソロイスツの演奏である。考えてみれば、弦楽合奏にヴィオラ・ソロの作品とは彼らにうってつけであろう。今井信子盤では15分弱のほとんど同じ長さの2楽章、バシュメト盤は17分強の第1楽章と12分強の第2楽章となっているが、総演奏時間はほとんど同じというのが面白い。第1楽章は今井盤よりも遅く、第2楽章は速いわけである。
 第1楽章、バシュメトは例によって遅いテンポで歌うけれど、曲想からしてそうねちっこくはならない。また、第2楽章もそんなに速いという印象はない。この作品は1995年頃の日本の気分に反応しているわけだが、解説にはまったくそのことが触れられていないように、バシュメトもローカルな気分には恐らく影響されていない。だからといってロシアものをやるときのようなバシュメト節にはならず、にじみ出してくるものが作曲家の個性ということになろう。

Tan Dun: Pipa Concerto; Hayashi: Viola Concerto; Takemitsu: Nostalghia

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