(30) ルチアーノ・ベリオ(1925-2003):声(1984)
 ─フォーク・ソングズII

 ルチアーノ・ベリオは第二次大戦後の作曲界を代表する前衛作曲家のひとりであるが、ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンと比べても遙かに伝統と幸福につながっていた。
 ブラームスのクラリネット・ソナタ(ということはヴィオラ・ソナタでもあるのだが)第1番を管弦楽とソロに編曲したり、シューベルトのいわゆる第10交響曲の断片を接ぎ合わせて『レンダリング』という曲を作ったり、プッチーニの『トゥーランドット』の新たな完成版を作成したりといった、編曲とその延長線上にある活動もさることながら、有名な『シンフォニア』で、マーラーの『復活』の第2楽章を下敷きに、おびただしい引用で曲を作るなど、作曲の先鋭的な部分でもしばしば伝統と対峙していた。
 そんなベリオに『フォーク・ソングズ』という素敵な歌曲集がある。当時の細君だったキャシー・バーベリアンのために書かれたもので、世界各地(といっても包括的ではないが)の民謡に室内アンサンブルの伴奏をつけたものだ。
 さて、そしてヴィオラと管弦楽のための『声 Voci』である。この曲は「フォーク・ソングズII」と副題されている。今回のフォーク・ソングズはシチリア島の民謡のことである。Vociが複数形になっているのに注意。
 ベリオはこの曲について次のようなコメントをしている。編曲には、翻訳という意味で3つの異なった状態がある。第1は、編曲者がもとのテクストに情動的に同一化できる状態。第2は、オリジナルのテクストが実験のプレテクストとなるもの。第3はもとのテクストが乗り越えられ、哲学的な意味で「濫用」される状態。要するに、もとのテクストに忠実な編曲から、それを踏まえたよりオリジナルな作曲行為までを指し示しているのだが、ベリオは創造的で理想的な状態が生ずるのは、この3つの状態が共存し、相互作用するときだと述べる。『声』はこの3つの状態の収束の問題を扱ったもの。ヴィオリスト、アルド・ベニーチのために作曲されたが、ここで用いられるシチリア民謡の素材はベニーチが提供したものだという。
 調子はずれのヴィオラのソロから30分の曲は始まる。ヴィオラは上述の様々なレベルに料理された民謡素材を奏し、管弦楽はいつものベリオらしいきらきらと輝くオーケストレーションで応える。民謡の旋律は非常に現代音楽的に変形されたものから、民謡そのままの状態まで、千変万化の様相をとり、そこからその民謡の本質的なものが抽出されてくるように感じられる。それはバルトークがハンガリー民謡を抽象化した手つきとはまったく違うのだが。そして曲が進むだに、ヴィオラがまるで民謡を口ずさむシチリアの親爺のようになっていくのである。
 初演者ベニーチ自身がシチリア生まれで、興味深いことを述べている。シチリア人のパーソナリティはシチリア島の強い日差しに曝されて、それが影の側面を生みだし、常に死に取り憑かれるのだと。それはコインの裏表のようなもので、シチリア人は常のその両面を示すのだ。ベリオの『声』にもシチリアの強烈な太陽の光と、その強烈な光によって焙り出された深い死の闇がある。
 ディスクはベニーチのヴィオラ、作曲者指揮のもの、キム・カシュカシャンのヴィオラ、D. R. デイヴィーズのものがある。民謡そのものを熟知しているベニーチのヴィオラの存在感は絶大だが、他方、アルメニア系アメリカ人からみたシチリア島にも味があるのだ。カシュカシャン盤には引用された民謡の録音と、この曲の姉妹作ともいうべき、ヴィオラと打楽器とテープのための『ナトゥラーレ』も収録されている。



Luciano Berio, London Sinfonietta, Aldo Bennici
Berio;Voci,Requies,Corale

Berio: Voci

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