(24) 湯浅譲二(1929-):啓かれた時(1986)
 ─ヴィオラと管弦楽のための


 大してコンサートに出掛けないレコード・リスナーなので、たまに出掛けたコンサートがCD化されていたりすると声高に喧伝したくなるのだが、これがそうですよ。サントリー・ホールの「作曲家の個展」のライヴ。
 ヴィオラ協奏曲の初演ということで出掛けたのだが、まだ湯浅譲二の音楽もほとんど聴いたことがない頃だった。ただその頃レコード屋で見かけたSchott出版のポスターに、名だたる現代の作曲家たちの顔写真が並ぶなか、湯浅譲二のポートレイトもあったことが印象に残っている。
 協奏曲のようなものを書くことに抵抗を感じていた作曲者が、トロント大学のコンポーザー・イン・レジデンスとして招かれた際、そこでヴィオラ奏者リヴカ・ゴラーニと知り合ったことがきっかけでできたのがこの作品。それまでのオーケストラ作品と、独奏作品での経験をひとつにまとめるという発想で協奏的作品に取り組んだという。
 リヴカ・ゴラーニはイスラエル出身でカナダに住むヴィオラ奏者。当時、彼女のパートナーだったオットー・エルデシュは楽器制作者で、リヴカは彼女のために製作されたカット-アウェイ・ヴィオラを弾いているということであった。カット-アウェイ・ヴィオラとは高音域を弾きやすくするために、アッパーバウツの左肩を切り落とした形のヴィオラである。舞台に上がってきた彼女は確かにいささか奇妙な形のヴィオラを持っていた。カット-アウェイ・ヴィオラの写真はStrad誌のエルデシュ追悼記事に掲載されているので興味のある方はご覧あれ。
 初演の演奏を聴いて、正直私にはよく理解できなかった。CDが出て、繰り返し聴けるようになってからである、わかってきたのは。
 様々な楽器の短いモチーフがあちこちから降り注いでくる導入から、広い空間的な音像が築かれる。作曲者のいうところの「音の遠近法」というところか。そこにはいってくるヴィオラ・ソロはまるで哀歌のような旋律的なものだ。動的な部分と静的な部分がすでに冒頭で提示されているわけだが、それらの交代で曲は進み、徐々に動的な部分が静的な部分に場を明け渡し、最後に序奏のあとに登場するヴィオラの哀歌的な旋律が独奏で奏されて終結する約17分。
 《啓かれた時 Revealed Time》というタイトルについて作曲者は特別説明をしていないが、時間は湯浅にとって重要なテーマのようである。《オーケストラの時の時》、《クロノプラスティック》など時間にまつわる題名がつけられた作品がいくつもある。これもその一つということになるが、動的な管弦楽の部分が空間なら、そこから啓かれ、曝かれてくる時間がヴィオラ・ソロか。冒頭のヴィオラの旋律とまったく同じ旋律が曲の末尾にまったき変容を遂げて再現される時、「啓かれた時」というタイトルが幾らかなりとも感受される。
 いま聴いてもやはり傑作だと思う。湯浅の2回目の尾高賞受賞作なのだが、それにしても、ネットを検索してみても再演されたという記録は乏しいようだ。

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