藤原氏系図-2 | 先祖を尋ねて

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姓氏のご紹介はほぼ終わったので、日常雑事、架空の物語、政治経済など気儘に書き込む。
参考資料、文献などは要所に集約して示す。

藤原氏系図-2
系図

大鏡のまとめ1


 心ならずも、小さくて読み難い大鏡原文を
ご紹介し、登場人物がハッキリしないままだった。
そして、我家の系図も省略が多く当てにならなかった。
ここに纏めた結果を示す。

小さい図はクリック拡大して、大きい図は縮小して、
御覧下さい。どちらも原図は同じです。

藤原系図2.jpg
図1.藤原系図2(拡大用)

藤原系図2.jpg
図2.藤原系図2(縮小用)

 【上記の図内の解説】
赤字で示した、鎌足・不比等・冬嗣・道長は
歴史的にも、物語的にも超有名人です。

初代・鎌足は中臣氏であり、大化改新の功績により、
天智天皇から大織冠・藤原氏を贈られる。
但し、病の床にあり生前に名乗ることはなかった。
鎌足には弟が2人いた。

2代・不比等が非凡な才能の人で歴史に明るく、
「史フヒト」と呼ばれていた。贈名「不比等」の
語源かと思う。兄1人と姉妹3人がいた。


不比等が藤原一族を取り仕切り、自分の子供達
男4人女4人の内、藤原を名乗るのは北家のみとし、
南家、式家及び京家は神事に従うので、旧姓の
中臣(ナカトミ)氏とさせた。右大臣、光明皇后の父。

3代・房前は次男で北家を名乗り期待されたが、能力は伸びず、
南家、式家などに有能な子孫がでた。
尚、房前の4兄弟は皆疫病で若死にした。
3代目の女子4名の内特筆すべきは光明子、本名・藤原安宿媛、後の光明皇后。
聖武天皇皇后で孝謙天皇の母。長屋王事件後729(天平元)年、
臣下から最初の皇后となる。
仏教を篤信し、悲田院、施薬院を設けて窮民を救った(701~760)。


4代・真楯は兄2人弟5人姉妹4人に恵まれたのみで、
南家、式家より能力もなく子供達もダメな人だった。大納言。

5代・内麿には弟が2人いた。右大臣。
6代・冬嗣には兄1人弟9人妹1人に恵まれ有能な
人だったことは既に述べた。左大臣。藤原氏中興の人。


7代・良房長兄の長良と弟4人兄弟とも優秀だったが、
子宝には恵まれなかった。太政大臣。
8代・基経は長良からの養子だった。陽成天皇の摂政、
光孝天皇の政務代行、宇多天皇の時関白となった。
妹は清和天皇の母后。

9代・忠平も優秀で、醍醐天皇の左大臣、朱雀天皇の
摂政関白・太政大臣だった。兄3人弟1人姉妹5人で、
左大臣時平・左大臣仲平とともに三平と称された。
日記が残る。


10代・師輔は兄2人弟3人姉妹3人。右大臣。
11代・兼家は摂政関白、太政大臣を務め、
兄2人弟9人姉妹7人の沢山の兄弟に揉まれた(笑)

12代・道兼は粟田と号し右大臣。7日関白と揶揄される。
長兄の内大臣、関白道隆と共に、疫病で若死にした。
この兄弟では、道長が藤原全盛時代を築いた。
その為、道長以外の一族は中央では衰退する運命となる。

13代・兼隆は弟2人妹1人。中納言。
 ここから大鏡には無い。

14代・兼房は弟1人。右少将。
15代・宗圓の兄1人は左少将。宇都宮座主として左遷。

16代・宇都宮氏となり、ここから何代か後に全国に
広まり、八田、山鹿、鹿生、小田、伊志良、茂木、
宍戸、田中、高野、中條、十亀などの各氏が出て、大絵巻となる。

続く