長一族の子孫-2 | 先祖を尋ねて

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姓氏のご紹介はほぼ終わったので、日常雑事、架空の物語、政治経済など気儘に書き込む。
参考資料、文献などは要所に集約して示す。

長一族の子孫-2
男爵と云う高貴な英雄


 明治以降の華族制度で、長氏は男爵に叙せられた。
なので、僕らがとやかく論ずるのは失礼になるが、現在は華族制度はなくなっており、
長氏の姓氏、家系を述べると約束したので、残り半分を遠慮せず述べよう。


今では「家系」などと云う古臭い価値観はゼロになっているが、欧米先進国、特に
英国などでは日本の皇室崇拝と似た感覚で残っているようです。

だから、「家系」と「家計」を混用したり、「家計図」などと云う存在しない用語を
使っていたら、僕の無神経であり、お詫びして訂正いたします。


読み方と文字:
日本で最も権威のある姓氏家系大辞典大田亮著 P.3709によると、

「長」は「チャウ」「ヲサ」「ナガ」にも通じるという。


古くは多く「ナガ」と言い、首長の意味だったので「ヲサ」とも発音した。
首長の称号なので原始的な「カバネ」姓の一つであった。


「チャウ」の発音で、趙、張、丁、調、などが有名であるが、全く異なる姓氏である。
こう云う現象も珍しいと思う。


本当の祖先:
1.長谷部姓
:物部氏(神族の一つ)の族である。現在も長谷部氏は関東に多い。
 平家物語、東鑑に詳しく拾い上げると1冊の本になる(笑)

 後白河法皇の子・高倉宮以仁王(もちひとおう1151年、平安末期)の侍に
長谷部信連と云う高名な一騎当千の武将がいた。

戦乱の時に捕まり処分を前に敵将達から惜しむ声が高まると、
入道相国(平清盛)は「処分する」と云い、伯耆国(ほうきのくに)日野へ流罪にした。
平家が滅び、信連は東国に転戦し梶原平三景時と同行した。
鎌倉の頼朝に功績を認められ能登国にご恩を蒙ったと。


元々、長谷部氏は姓の後半を省略して「長」だけで呼びならわしたらしい
それで、伯耆国(鳥取県中部・西部)にも、能登国(石川県北部)にも長氏の
発祥地とされるのが納得される。 


中興系図には「藤原姓、本国能登」と出るが
全体の流れから見て、不自然と大田亮氏も記述している。


2.室町室町時代に入ると、能登畠山氏の家臣として仕える。
 長氏で最も著名な人物は、第18代当主・長続連、その息子で第19代当主・長綱連
 第20代当主・長連龍らの親子である。

 

魔神ブウさんが云う【長 連竜(つらたつ)】なる人物とは、第20代当主・長連龍に
 違いない。何故なら次に述べるように、長 連竜(つらたつ)=長連龍1人しか
 生き残れなかったのだ。戦国の地獄絵巻は次に述べる通りである。


3.戦国時代:北国太平記などに詳しいのだが、上杉に付く長氏、織田に付く長氏。
 最後は上杉に寝返る遊佐氏が長綱連父子6名を欺き殺す事件。
 
 天正4年(1576年)、天正5年(1577年)と上杉謙信による能登侵攻を受けるが
 天下の名城・七尾城 に籠城中に疫病が流行り弱体化する。←リンクします
 最後は謙信と内通した遊佐続光らによって続連、綱連ら長一族は殺されてしまう。

 そのとき生き残ったのは、続連の次男・長連龍と綱連の末子の長菊末丸のみである。
 (七尾城から乳母に抱かれて脱出したが、後京都清浄院で僧侶となる)
 連龍は、長氏の家督を継ぎ織田信長の家臣となり、能登攻めに抜群の功を挙げて
 父の仇である遊佐続光らを討っている。
当時、典型的な英雄とされた。


 (実を云うと僕が会社勤めのころ、後輩に遊佐君と云う美しく優しい青年がいた。
 4百数十年前とはいえ、長君とは鉢合わせさせず、話題にも出さない苦心をした)


 信長の死後は七尾城・城主前田利家に仕えた。3万3000石だから大きい。


4.江戸時代:金沢在住の前田家の家老(3万3000石)として生き残った。

5.明治維新後:維新後、長氏は男爵に叙せられた。
  維新の功労者・大久保利通を暗殺した5人組に長 連豪(れんごう)がいる。
 エピソード :
大久保暗殺当日、長は五所紋付きの黒羽織を着用していた
                (東京日日新聞・明治11年5月15日付)。
処刑されるに当たって、首打役の山田吉亮に言い残すことはないかと聞かれ、

「北はどちらの方角ですか」と尋ねた。吉亮が北の方角を指し示すと、
そちらに手を合わせて何事かつぶやき、「北は私の故郷で、今なお母が存命なもので」
と吉亮に理由を説明したうえで、従容と首を差し出したという。

吉亮はそのときの心境を後に「刀の錆にするのが惜しく感じられた」と語っている。


6.昭和の英雄

太平洋戦争当時、沖縄戦を戦った帝国陸軍第32軍参謀長長勇中将は長氏の末裔である。


図4.長勇・陸軍参謀長の雄姿先祖を尋ねて-長勇


7.略系図ーー簡略ですが縦系図です。黒線が実子青線は養子


泰連
 ┃
政連
 ┃
秀連
 ┃
氏連
 ┃
教連
 ┃
英連
 
続連ーーーーこの人は英連の実子ではなく養子である。
 ┣━━━┓
綱連  連龍ーーーーこの人が生き残った。
     ┣━━━┓
     好連  連頼
         ┃
         元連  
         ┣━━━┓
         連房  尚連
         ┃
         高連
         ┃
        善連
         ┃


尚、長勇・陸軍参謀長が「善連」氏に直接は繋がらず、5名以上10人位は
割愛されていると思う。実際に江戸時代と現代を繋ぐ作業は菩提寺に過去張が
残されて無いと難しい。火災があるので中々残らない。


雑感: 遊佐氏や大久保利通氏との関係を感慨深く拝見した。
戦国時代は元より、江戸時代も政治を変える時も男達は命を賭けていた。


平成時代の政治に真剣みがないのは、

国民そのものに真剣みがないのであって
政治家ばかりを責められないと思う。