武闘派銀行マンの                   「潰してたまるか!お前の会社」 -419ページ目
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人生の半分を闘いに生きた男(笑)

■ 幼少時代





小さい頃から、人に負けるのが大嫌い。加えて、人と同じことをするのが大嫌いな性格。


(これは今でも変わっていない)





幼少時の記憶は、ただただ “家が貧乏!”





今は死語となった“長屋”で、20世帯くらいの家族に五右衛門風呂一つ。


(順番が最後の日は、お風呂の湯はドロドロでしたw)

もちろん、電話もなければ、飲み物は水だけ。「肉を食いたい」などと言おうものなら、母親から往復ビンタですw





お小遣いなどもらったことないので、毎日、廃品回収の山を漁って、暗くなるまで本を読んでました。


(ついたアダ名が本キチ)

その甲斐あってか、小学校から勉強だけはできたが、家が貧乏ゆえ、心無い同級生からイジメを受ける

悔しさから一念発起し、空手のマネゴトを始めたのと、持ち前の明るさから、小学校卒業時には結構な人気者に。





でも、この時点では誰も、これから先の破天荒な人生は予想できなかった・・・。






■ 高校時代





越境で進学校に入学したため、毎日13キロの道程を自転車通学するハメに。




入学初日から、いきなり実力テストが・・・(聞いてないよ~)

中学時代のテストでは時間が余っていたのに、問題数が多すぎて全問解けず。

「こんなテスト、解ける奴がいるのか?」と思ったが、何とトップは、ほぼ満点。上には上がいることを思い知らされる。





ここで、持ち前の負けん気に火が着く。

元々、記憶力が人並み以下の上、長時間机につくことも苦手だったため、独自の勉強法と時間管理を、苦労の末会得する。

毎日4時間程度の学習で、高校2年目から学内10番内をキープ。

先生からは、東大を受けるように言われたが、内申書が悪そうなので断念w





高校時代の一番の思い出は、3年生での学園祭。

2年生の時に引き続き、演劇の脚本・監督を担当するが、「受験間近の3年生での劇の練習はヤメろ!」と職員室に呼び出される。(この手の首謀者はいつも私w)

「勉強と劇のどちらかをとれ!」と言われ、「どちらもとる!」と先生の前でタンカを切る。(あの頃は若かったなぁ)





これでメゲるどころか、高校創設以来の土・日2日に渡る学園祭を提案。見事、勝利を勝ち取る。

前編・後編に分けて上演した劇は、新聞にも写真入で掲載されるほどの好評を得る。





が、しかし、この時点では、せっかく成功した土・日の学園祭が、2年後に自らの手で中止になるとは、誰も予想しなかった・・・。






■ 大学時代





受験当日、寝坊で1時間遅刻するが、何とか合格。




かねてからの念願であった空手道部に入部。

極真空手を学ぶ傍ら、大学では伝統空手を学ぶ。





  


       毎日大声で連呼したよなぁ~            真冬の寒稽古後 水は”寒く”なく、”痛かった”です




入学当初から期待されるが、一回生の終わりに、他の大学の主将にコテンパンにヤラれる。

悔しさから、伝統空手の取得一本に絞り、極真空手の技をいかに伝統空手に応用するかを研究する毎日を送る。





同時に、当時全盛であった暴走族と数々の抗争を繰り広げ、その名を大学中に轟かす。

大学2回生の時には、大学祭での暴走族の暴挙に対抗するため、武道関係者を集めた“武道連合”を結成。初代総長となる。

鉄パイプで目を殴られた後輩の仇討ちのため、腹に新聞紙を巻いて殴り込む寸前で、先輩にたしなめられる場面もw





高校の学園祭にOBとして参加するも、暴走族と1対10の大ゲンカ。

後頭部をバレーボールの支柱で殴られ大出血するが、それでも引かなかったせいか貫録勝ち。

下宿に逃げ帰り、傷口をガムテープでとめていたが、あまりの痛さに病院に行くと、その場で8針縫うハメにw

これが原因で、母校の土・日祭は中止となるが、「まぁ、始めたのもオレだからイイか」と、一人で納得するw





現役時代の戦跡は、西日本ベスト8。県の代表として全日本大会にも出場。





  


全日本大会 前から3番目の人相の悪いのが私です      武道館に集結した全国の猛者達 暑苦しぃ~




一番の思い出は、西日本準優勝者、京大のN選手との2度にわたる激闘。

全国国公立大会で優勝したN選手とギリギリの死闘の末、判定負けした悔しさから、N選手を想定した3つの必殺技を生み出す。

全日本大会で、念願の二度目の対決を迎えるが、一つ目の技で反則注意。


二つ目の技がモロに顔面に入り、失神KOで反則負けw


負けた悔しさよりも、なぜか清々しさを感じる。(ゴメンネ、N君)







■ 銀行員時代





破天荒な大学生活を送ったにもかかわらず、なぜか、現在の三井住友銀行に合格。




これで安定した生活を送るかにみえたが、内定者を集めた立食パーティーで東大卒業生だけが別格扱いされていることに納得できず、地元の銀行に拾ってもらうことにw





4年間内勤を経験した後、得意先係として別転地に転勤。









100万円以上の定期預金を1年間取り続けたという、伝説の得意先係Nさんの後釜を任される。


(これは、かなりのプレッシャーでした)

Nさんの業績を上回るためには、まず顧客開拓時間の確保が最優先と考え、それまで1日5時間かかっていた営業雑務を2時間に短縮する独自の方法を考え出す。

午前中は店で戦略を練り、午後から一気に営業をかけるという、当時の銀行としてはタブー視された手法で、得意先係1年目にしてトップの成績を修める。






30歳 銀行員最後の写真 顔つきも身体つきもすっかり銀行員ですw





その後も、新規法人開拓数・個人ローン実行額等で、役員賞をはじめ、数々の賞を獲得する。


また、自行のみならず、信用保証協会から、全中国地方の銀行員の中での融資成績優秀者として表彰される。


残業するのは無能な証拠と豪語し、「支店長よりも早く帰宅する男」として全店に名を馳せる。(今から思うと、相当生意気な行員でしたw)







■ 街金融時代





将来の起業を目指し、10年間勤めた銀行を退職。

銀行では見ることのできなかった真実の中小企業の実態を知るため、東京の金融会社に転職する。




そこで、同じ金融業とは思えないほどのハードな業務と、会社を再建するために必死で頑張る経営者の姿を目の当たりにする。

(ここでの経験がなければ、その後の起業に絶対に失敗したと思う)





命が一つでは足りないような修羅場をいくつも経験したが、中でも一番記憶に残っているのは、他の金融会社の助人として債務者の自宅を占有した時の事。




どう見てもアチラの筋の人達が、体当たりで玄関のガラス戸を壊し、家の中に踏み込んできた。

肝心の金融会社の社員達はノサれてしまい、私と後輩の二人だけに。

後輩を矢面に立たせるわけにはいかないので、玄関で仁王立ちしていると、先方が刃渡り30センチはあろうかというサバイバルナイフを取り出し、「そこをどけ!」と一喝。

素直に逃げれば良かったのだけど、「悪いけど、どかないよ」と言ったとたんに、刺されちゃいましたw

スポーツタオルが絞れるくらい出血だったが、それでも怯まなかったため、話し合いに。何とか事無きを得る。(毎度のことながら、つくづく損な性分ですw)





この手の話は尾ビレがつくもので、金融会社の間で、「全身にナイフが刺さったのに逃げなかったヤツがいる」というウワサになってましたw

(いくら何でも、それじゃ“黒ヒゲ危機一発ゲーム”ですよ~)







無事生き残る事ができましたw





いろいろありましたが、ここでの一番の収穫は、「経営者の目線まで下りて話が聞ける」ようになったこと。これに尽きます。




経営が苦しい時の社長の心境は、一般論では語れませんからね。







■ 独立から現在まで





1994年、決算書の記帳代行業務を主とする財務会計事務所を開業。




クライアントの開拓に精を出すが、売上げは半年間でたったの3万円。

ものの見事に撃沈される。(やはり起業は甘くなかった)





これにメゲず、試行錯誤の末、銀行員時代からの経験を生かし、中小企業の資金調達と会社再建業務に特化した仕事にシフトチェンジ。

「資金調達は、貸す側の理論を知らなければムリ」「受けた以上は、どんな状態であっても必ず建て直す」をモットーに、10年間で1000社以上の再建に成功。

利益体質になるまで社長を代行するというスタイルを確立し、経営者として、クライアントから絶大な支持を得る。





同時に、企業間をコラボさせることによるニュービジネスを創出。

独自の方法で、起業2年半にして月収2,000万円を達成。





  


当時のスーパーカー「ロータス エスプリターボ」「フェラーリ 512TR」 運転技術が未熟でいつもマークⅡに追い越されてましたw


それにしても若気の至りとはいえ、何をトチくるっていたのでしょうねぇ~






その後、事務所を分社化し、2005年4月、「NPO法人起業家ホットライン」を設立。

「起業したいが、何を勉強すれば良いのか分からない」という若い起業家のため、これまで蓄積した経営ノウハウを提供し、起業家の育成を指導する。





2007年10月、起業家のアイデアをビジネス化し、そのマーケティング・営業部門を受け持つ「株式会社ウィズマーケット」を設立。

「アイデアはあるが、どうビジネスにしてよいか分からない」「商品に自信はあるが、思うように売れない」といった悩みをもつ起業家のため、完全歩合制というリスクのない形で、起業家を支援するビジネスをスタート。

同時にこの会社は、起業を志す若い内弟子達に、マンツーマンで経営ノウハウを修得させる、実地訓練の場としての役割も担っている。







■ おわりに





50年近い私の人生を振り返ってみると、つくづく破天荒な生き方をしてきたなぁと・・・。

まぁ、自分らしく生きてるという点では、幸せなんでしょうけどw





私は、「頼られた以上は、必ず期待に応える」という生き方が大好きです。

そして、その生き方を支えてくれたのは、幼少時代からの「人と同じ発想はしない」「想定した敵には必ず勝つ(もちろんこれは人のことではありません)」という信念にも似た感情です。





こんな私を、何も言わないで見守ってくれた両親には、心から感謝しています。

そんな父は、4年前に意識不明の重体となり、今でも病院で寝たきりです。

母は、父の看病疲れから2年前に亡くなり、もうこの世にはいません。

病院で目を開けることのない父を見るたび、「まだ伝えたいことがあっただろうに」と何とも言えない気持ちになります。





私が、「NPO法人起業家ホットライン」を設立したのは、そんな父の想いに触発されたからです。

確かに食うには困っていませんが、「自分のやってきたことを、次の世代に残せただろうか」という質問には、正直イエスと言えません。

自分の意思を継いでくれる者を育成することこそが、私という人間を未来永劫まで残せるということではないかと。





このブログは、「成功するノウハウ」を伝えるものではありません。

そんなものは、人それぞれ、個性や生き方により十人十色です。

人のマネをして、それがそのまま通用するほど、経営は甘くありません。





「経営とは何か?」と聞かれたら、私は即座に、「会社を潰さないこと」と答えます。




これは、何十年も経営の最前線で生きてきた私の、偽らざる信念です。


会社を潰したくない一心で、やってはならないことに手を出し、再起不能にまで追い込まれた経営者。

倒産による家族の離散、従業員を含む家庭の崩壊。

こうした生き地獄をイヤというほど見てきました。





だからこそ、あなたには、こうした地獄は経験してほしくないのです。





ここでは、「生き残るためには何をすべきか?」「会社を潰さないためには何をしてはいけないのか?」について伝えようと思います。




まだまだ、私自身も発展途上の人間ですが、これまで数多くの会社をみてきたからこそ分かる、真実の経営の姿を感じ取っていただけたら幸いです。






※ご興味のある方は、「NPO法人起業家ホットライン」のサイトもご覧下さい。

起業を志す方であれば、必ず何かのお役に立てると思います。


「NPO法人起業家ホットライン」http://www.hotline.or.jp/





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