1930年代は、ソ連ではスターリンによる大粛正の時代でもある。この大粛正の恐怖から逃れるために、ソ連諜報機関内では、西側への亡命を模索する動きも出てくる。スターリンの政敵だけでなく、海外勤務の諜報機関員達も次々と召喚され、拷問の末に銃殺刑に処せられ、あるいは、海外で暗殺された。
 1937年フランスに亡命したウォルター・クリヴィツキーは、その一例である。米国議会の委員会で、米国内のソ連スパイについて証言し、更に1940年MI6で「英外務省には2名潜入し、もう1人は、スペイン内戦中に英国の新聞記者であった」との証言を行った。MI6も訊問に参加したが、スパイの名前の特定ができないまま、クリヴィツキーは、1941年ワシントンのホテル客室で射殺体で発見されている。
 1945年、ヴォルコフ事件の1ヶ月後には、イゴール・ゴウゼンコ(在カナダ・ソ連大使館暗号担当官)が工作員名簿とともにカナダに亡命し、英防諜機関MI5も彼を訊問している。
 この時期、英国史上女性諜報員第1号で、前職のMI5時代、クリヴィツキー訊問に辣腕振 りを発揮した女性部員ジェーン・アーチャーが、MI6のフィルビーの下に配属されたが、自分の発覚を恐れたフィルビーは、彼女を調査業務から巧妙にはずす人事配置をして難を逃れている。それどころか、1946年には、フィルビーは、OBE(将校格の勲章)を叙勲された。
 一方、自伝にも言及されているが、フィルビーは、1949年ワシントン赴任前に受けたブリーフで、英米共同調査により、在米英国大使館からと、原爆研究でその後有名になるマンハッタン計画の本拠ロスアラモス国立研究所からとの2カ所で機密漏洩がある旨判明したことを知らされた。
 特に前者については、フィルビーの自伝によると、ソ連側とも情報交換した結果、問題の在米英国大使館員は、ケンブリッジ5人組の1人、ドナルド・マクリーンであることが特定された。米英諜報機関も同時期にほぼ同様の結論に至った。フィルビーは、早速ソ連側とも接触しながら、マクレーン救済策の策定に着手した。
 マクリーンは、ケンブリッジ卒業年にソ連のスパイとなり、在米大使館勤務は、丁度漏洩期間とも重なる1944 年~1948年で、その後カイロを経て、本省の米国局長という枢要なポストに就任していたが、間もなく当局の監視下に置かれた。
 ワシントンに赴任した翌年、もう一つの難題が生じた。5人組の1人ガイ・バージェスが在米大使館勤務となり、借家が見つかるまで、 フィルビー宅に居候したいと連絡してきたのである。
 バージェスは、旧友ではあるが、マクリーン問題を抱えたフィルビーは、躊躇した。結局、大酒飲みの暴れん坊で同性愛者(当時英国では非合法)であった彼を自宅に留めた方が野放しにするよりは安全と、旧友の要望を受け入れた。これで、居候を認めまいと認めようと、フィルビーの素性が明らかになるのは、時間の問題となったのである。
 熟慮の末、バージェス着任後、彼にマクリーン問題を打ち明け、助力を頼んだ。バージェスは、1951年5月早速外交官ナンバーの車でスピード違反や同性愛者へのストーカー行為を繰り返しながら、米当局には外交特権を理由に大騒ぎを起こし、結果米国政府から英国大使宛てに公式の苦情文書が提出され、バージェスは、期待通り、急遽帰国させられ、マクリーンと所属倶楽部で接触した。
 フィルビーは、バージェスに決して亡命には同行しないよう約束させていたが、バージェスは、成り行きか、モスクワの指令の結果か、約束を破り、1951年5月ソ連側の手引きにより、マクリーンと一緒に無事モスクワに亡命した。
 その後フィルビーも帰国を命ぜられ、訊問の末、1951年7月MI6を辞職したが、辞職後もソ連スパイであることを否定し続けた。1955年10月英下院でハロルド・マクミラン外相(当時)は、「フィリビーが国を裏切ったと結論できる理由は持ち合わせていない」と答弁したことは世界中で報道された。フィルビーも、11月記者会見で、自分は、潔白であり、共産主義者であったこともないと述べている。
 しかし、1961年在フィンランド大使館副領事でソ連KGBのアナトリー・ゴリツィンが米CIAに亡命した際、フィルビーの素性を暴露したことで、フィルビーが国を裏切った行為は確定したと言えよう。
 結局、紆余曲折の後、1963年1月23日、フィルビーは、突然西側最後の居住地ベイルートの自宅から消え、モスクワに亡命した。彼の亡命が明らかにされたのは、その年の7月になってからであった。そして、7月30日ソ連当局は、フィルビーがソ連への政治亡命とソ連市民の地位を許可されたことを明らかにした。ほぼ30年に及ぶ英国民への深刻な裏切り行為が明らかになった日であった。