大戦終結と共に東西冷戦時代が始まると、共産化した東欧をソ連圏から切り離す英米共同作戦が検討された。浮上したプロジェクトの一つが、アルバニア解放で、いわば反革命作戦であった。なぜかそれは、Operation Valuable(貴重な作戦)と呼ばれた。
 アルバニアでは、1946年1月人民共和国設立が宣言され、エンヴェル・ホッジャ首班の共産主義政権が成立した。
 実は、英国は、秘密裏にこれに手を貸していた。対独戦との絡みがあったからだろうと憶測される。しかし、東西冷戦時代の到来となると、話は違ってくる。
 アルバニアは、ソ連圏では最小国。アドリア海に面する小さな国(面積約3万平方キロ弱)で、九州と四国の中間くらいの面積である。近くに英領植民地・軍事基地であるマルタ島(現在は独立国)があって、海上作戦に便利でもあった。
 それに、フィルビー自伝によると、「社会主義圏で最貧国で、南は、英米の同盟国であるギリシャと国境を接しており、そのギリシャは、アルバニアとは形式的にせよ戦争状態にあり、北と東は、ソ連圏から離れたチトー率いるユーゴスラヴィアに囲まれて孤立している」から手頃な目標というわけである。
 失敗しても被害は最小限に食い止められ、成功すれば、東欧諸国解放の足場にもなり得る恰好な、都合のいい目標にも見えた。
 
 一方、フィルビーは、1947年、駐トルコの英国大使館一等書記官に任命され、その2年後の1949年には、米国の首都ワシントンDCに赴任し、表向きは、英国大使館1等書記官として、実際は、MI6支局長として、米国の情報機関との連絡役になる。
 さらにもう一つの重要な要素が加わる。大学時代からの友人でマルキストのガイ・バージェスの登場とドナルド・マクリーンのスパイ疑惑の浮上である。後にケンブリッジ5人組と言われたスパイ仲間で、二人とも英国の外交官になっていた。これについては、後日触れる。
 
 アルバニアには、米英が大戦終結後まもなくアルバニア人の工作員を小規模ながら数回に分けて潜入させていたが、成果はなかった。しかし、1949年秋フィルビーの米国赴任前後から英米間の政府間協議は格上げされ、新設のNATOまでも参加し、本格化した。
 1949年7月からマルタ島で2ヶ月かけて、ゲリラ戦、通信技術、諜報収集術などを訓練されたアルバニア人30名(ゲリラ戦の経験を持つベテラン兵)は、2組に分かれ、10月初旬、夜陰に紛れてアルバニア海岸に到着した。最初の本格的潜入の開始であった。
 しかし、上陸した途端、彼らを歓迎してくれたのは、アルバニア政府保安部隊による銃弾の嵐であった。殆どが銃弾に倒れ、隣国ギリシャに逃亡出来たのは数名のみであった。
 それでも潜入は、1952年春まで継続されたが、潜入する時期や場所が変わっても、常に同じ惨憺たる悲劇が待っていた。この作戦で射殺されたアルバニア工作員は、総計100人前後に及ぶとされる。
 フィルビー伝記を書いたベン・マッキンタイヤーのA Spy Among Friendsによれば、フィルビーから直接聞いた話として、フィルビー自身がソ連に詳細を事前に伝えていた由で、それがホッジャに伝えられていたのである。
 
 それでは、この作戦は、フィルビーの密告がなければ成功しただろうか?私は、疑問に思う。
 秘密作戦に不可欠なのは、政策要件(policy requirements)である。政策策定の前に、その政策が確実にかつ適切に実行されるために必要な要件は何かが特定され、そしてそれらの要件が充足されているかどうかが精査されなければならない。
 しかし、「貴重な作戦」自体に政策要件が不十分だった可能性もある。スパイによる密告がなくても、早晩挫折した作戦だった可能性があるということだ。極めて封建的な、時代遅れのアルバニアで、ホッジャ政権は、外部で知り得た以上に望ましい改革を推進していて、ホッジャ打倒が必ずしも民意とは言えない状況であった、との情報もあるからで、そうなると、英米側に、尊大な期待と過信があったから、結局は作戦は破綻したであろうと言えるかも知れないのだ。