1944年MI6の第5室部長(防諜担当:英本国及び英植民地を除く、全世界対象)に昇進後、フィルビーは1度深刻な危機に遭遇している。
フィルビー自伝によると、1945年8月、長官に呼ばれて長官室に出向くと、書類を渡さ れ、その場で読むよう指示された。それは、駐トルコ英国大使館ノックス・ヘルム公使発の外務大臣宛報告書と、今後どう対処すべきかについて、大臣の指示即ち訓令を仰ぐものであった。
その報告要旨は、「駐イスタンブールソ連副領事コンスタンティン・ヴォルコフがトルコの駐イスタンブール英国総領事館員を通じて英国亡命を申し出ている。同副領事は、実際はソ連情報機関NKVDの駐トルコ副代表で、夫婦共々亡命したいという。 また、彼は、亡命と多額の金銭と交換に、NKVD本部に関する詳細情報に加え、英国内のソ連側エージェント3人(英外務省員2名、英防諜担当高官1名)の名前を提供すると申し出て来た」であった。
勿論、フィルビーは、その「英防諜担当高官」とは、自分自身のことだと分かっていたから、事態は深刻だった。
また、ヴォルコフは、ソ連側の電話盗聴技術も極秘通信解読も進んでおり、在トルコ英国大 使館や総領事館は、盗聴されているとして、英本国への亡命報告書を、電信や電話ではなく、外交行のう(囊)で送るよう要請していた。要請を受け入れ、在トルコ大使館は、本省宛外交行のうで関連文書を送った。そのため、大使館が外交行のうを発出してから、関係書類がフィルビーの手元に届くまでに10日を要 した。
因みに、「外交行のう」 (diplomatic bagまたはdiplomatic pouch)とは、外交文書を入れた袋ないし箱のことで、ウィーン条約によって、外交特権が認められ保護されている。通常行のうは、紐で少なくとも十字に縛り、紐の合わせ目は蝋付けされ、その上に公印が押印される。本来は、クーリエと呼ばれる伝書使が付き添い運ぶ。
長官から処理を命じられたフィルビーは、自らトルコで直接ヴォルコフを訊問することになった。
実は、ここでもフィルビーは運がついていた。自伝によると、長官は、当初休暇で帰国中のダグラス・ロバーツ陸軍准将に本件の処理を任せるつもりだったのだ。ロバーツは、カイロ駐在で、英秘密防諜機関MI5の中東地域全体の責任者だった。誰の目にも、彼が最適任者であることは明らかだった。
しかし、ロバーツは、飛行機が大嫌いで、翌週の船便を予約していると主張し、本件担当と なるのを渋ったため、最終的にフィルビーにお鉢が回ってきたのだ。
フィルビーは、事前準備の時間を3日もらい、カイロ経由イスタンブール行きの航空便に乗った。しかし、マルタ上空に雷雲発生で、飛行機は、急遽チュニスで足止めとなり、カイロ着が翌日午後となり、イスタンブールへの接続便は更に翌日の金曜となって、現地到着は大幅に遅れた。大使館との協議は、週末2日かけて行われた。
しかし、月曜ソ連総領事館に接触したが、既にヴォルコフは消えていた。ソ連側がヴォルコフを秘密裏に拉致し、モスクワに連れ戻したのだ。ソ連は、約3週間という、作戦準備に必要な時間的余裕を与えられたわけである。その後、彼は、モスクワで拷問の末に処刑された。
フィル ビーは、一時的に命拾いしたのである。
フィルビー自伝によると、1945年8月、長官に呼ばれて長官室に出向くと、書類を渡さ れ、その場で読むよう指示された。それは、駐トルコ英国大使館ノックス・ヘルム公使発の外務大臣宛報告書と、今後どう対処すべきかについて、大臣の指示即ち訓令を仰ぐものであった。
その報告要旨は、「駐イスタンブールソ連副領事コンスタンティン・ヴォルコフがトルコの駐イスタンブール英国総領事館員を通じて英国亡命を申し出ている。同副領事は、実際はソ連情報機関NKVDの駐トルコ副代表で、夫婦共々亡命したいという。 また、彼は、亡命と多額の金銭と交換に、NKVD本部に関する詳細情報に加え、英国内のソ連側エージェント3人(英外務省員2名、英防諜担当高官1名)の名前を提供すると申し出て来た」であった。
勿論、フィルビーは、その「英防諜担当高官」とは、自分自身のことだと分かっていたから、事態は深刻だった。
また、ヴォルコフは、ソ連側の電話盗聴技術も極秘通信解読も進んでおり、在トルコ英国大 使館や総領事館は、盗聴されているとして、英本国への亡命報告書を、電信や電話ではなく、外交行のう(囊)で送るよう要請していた。要請を受け入れ、在トルコ大使館は、本省宛外交行のうで関連文書を送った。そのため、大使館が外交行のうを発出してから、関係書類がフィルビーの手元に届くまでに10日を要 した。
因みに、「外交行のう」 (diplomatic bagまたはdiplomatic pouch)とは、外交文書を入れた袋ないし箱のことで、ウィーン条約によって、外交特権が認められ保護されている。通常行のうは、紐で少なくとも十字に縛り、紐の合わせ目は蝋付けされ、その上に公印が押印される。本来は、クーリエと呼ばれる伝書使が付き添い運ぶ。
長官から処理を命じられたフィルビーは、自らトルコで直接ヴォルコフを訊問することになった。
実は、ここでもフィルビーは運がついていた。自伝によると、長官は、当初休暇で帰国中のダグラス・ロバーツ陸軍准将に本件の処理を任せるつもりだったのだ。ロバーツは、カイロ駐在で、英秘密防諜機関MI5の中東地域全体の責任者だった。誰の目にも、彼が最適任者であることは明らかだった。
しかし、ロバーツは、飛行機が大嫌いで、翌週の船便を予約していると主張し、本件担当と なるのを渋ったため、最終的にフィルビーにお鉢が回ってきたのだ。
フィルビーは、事前準備の時間を3日もらい、カイロ経由イスタンブール行きの航空便に乗った。しかし、マルタ上空に雷雲発生で、飛行機は、急遽チュニスで足止めとなり、カイロ着が翌日午後となり、イスタンブールへの接続便は更に翌日の金曜となって、現地到着は大幅に遅れた。大使館との協議は、週末2日かけて行われた。
しかし、月曜ソ連総領事館に接触したが、既にヴォルコフは消えていた。ソ連側がヴォルコフを秘密裏に拉致し、モスクワに連れ戻したのだ。ソ連は、約3週間という、作戦準備に必要な時間的余裕を与えられたわけである。その後、彼は、モスクワで拷問の末に処刑された。
フィル ビーは、一時的に命拾いしたのである。