平清盛はおおらかな人だった | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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多分今年話題の人にはなると思いますので、先日に続いて平清盛につ

いてまた、触れたいと思います。


清盛が天下を取ったのは、平治の乱の勝利によって。1159年のことで

した。ただこの乱は、源義朝の不意打ちから始まっています。3年前の保

元の乱では、この源義朝と清盛は共に後白河天皇とその側近藤原信西

について戦っています。しかしその後の恩賞等に清盛と差をつけられた

ことに腹を立てた源義朝が、後白河を幽閉し、信西の首を討ったのです。


清盛は、源義朝が不満を持っていることは勘付いていたものの、まさか

攻めてくるとは想像もしていませんでした。その辺は、ぼんぼんのおおら

かさでしょう。


ただ、妻の時子は或る程度予想していたようでした。この時清盛は熊野詣

に出て留守だったのですが、その留守を預かった時子は慌てることなく

素早く配下の者を緊急避難させ、清盛に知らせました。


驚いた清盛は、「ようし、その戦い、受けて立とう」といきり立ちます。


しかし、急に兵を挙げたところで、情勢は不利。時子は、なだめました。


「待って。ここはひとまず、懐柔策に出るのです。死んだふりも、時には必要」


清盛はそのアドバイスを聞き入れ、源義朝のパートナーの藤原信頼に会って

おべっか作戦に出ます。


「我はそなたに対し、何の異心もないぞ。仲間ではないか。それを、何を誤解

しておるのだ」


繰り返しそんな言葉を述べて、信頼を油断させることに成功。そうして秘かに

兵を整え、攻め入ったのでした。


こんなやり方を見ても、清盛は、武将というより政治家タイプです。争いごとは

好きでなく、朝廷内の揉め事が起きた時など、しばしば名仲裁役を務めたり

もしています。また、大陸との貿易によって、経済の活性化をはかったりもして

います。荒っくれの源義朝とは知性が違っていたための、恩賞の差だったので

す。


この源義朝の3男が頼朝、側室常葉御前の子が義経でした。戦に勝った場合、

復讐を避けるために敵将の子も殺すのが当時の常識だったのに情けをかけて

生かしたことが後の致命傷となったのは、有名な話。


常識を破ったといえば、源氏側もやっています。この当時の戦では、水上決戦

になった場合、船の漕ぎ手は狙わないというのが、不文律としてありました。清

盛はじめ平氏側はそれを守ったのですが、源氏は無視。構うことなく漕ぎ手を

討ち続けたのです。いわば、反則攻撃で勝ったようなもの。


まあ、高度成長、バブル、市場原理主義といったイケイケ状態の時は、源氏の

ように勝つためなら何でもあり、といったような連中が尊敬されるのもわかります

が、これからは、平清盛ら平氏のように少々お人よしでも、おおらかで視野の

広い人がもてはやされて良いと思います。


もっとも、そういう描かれ方を、今まではしてきませんでしたけどね。


そんなずるくて荒っくれ集団の源氏が人々の心をつかむには、徹底した情報

操作が必要です。その一環が、琵琶法師を使っての平家物語によるマインド

コントロールだったと思います。


ところで余談ですが、ある人のブログに、お人よし度をはかる心理テストという

のがありました。私も挑戦して、お人よしのプロという結果が出ました。